幽世の理

衣更月

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出逢い

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 珍しい。
 駅の片隅に、女がぽつんと立っている。
 待ち合わせ場所というには、配慮が足りない。
 何しろ、女が立っているのは、改良工事に伴って作られた仮設通路の一角だ。工事の不便さを詫びる張り紙の下で、伏し目がちに行き交う人々を観察している。
 年の頃は10代半ばか…後半か。
 高校生にも見えるが、制服を着ていない。白いセーターに茶系の花柄スカート。肩には大きなトートバックを提げ、亜麻色の髪を後ろで編み込んでいる。高校生か、大学生かの判断が難しいのは、女に化粧っ気がないからだ。そのせいで、どこか幼さを残す面立ちをしている。
 美人というより可愛い系。
 些か童顔だが、男ウケは良いと思う。
 理由は単純明快。
 意外と胸があるのだ。
 EかFか。
 童顔で胸がデカく、困ったような顔で佇んでいれば、暇な男ならこぞって声をかける。ダメ元でナンパして、お持ち帰りが出来れば最高だ。確率は低くても、1パーセントでも望みがあれば、男と言うのは声をかけずにいられない生き物だ。
 実際、確認できただけでも3人が声をかけ、フラれている。
 別に男を選り好みしている風ではない。3人とも女に近しい年齢のようだったし、チャラついていたが、そこそこ女ウケのよさそうな顔貌をしていた。
 ナンパ待ちなら、お持ち帰りされているが、女は声をかける男を全力で断っているのだ。その表情から、男慣れとは無縁の焦りが見て取れる。悪態を吐きながら立ち去る男に身震いし、それでも女の足は動かない。
 今にも泣きだしそうな顔が、ホームの方を見ては足元に落ちる。
 その繰り返しの原因は、ホームへと上がる階段にある。階段の中ほどに、異様な姿のケモノがいるのだ。体躯は人間と変わらない。褐色の体毛に、ハイエナに似た頭部。鼻の頭に皺を刻み、牙を剥き出しにした凶悪面だ。
 だが、4足歩行の動物ではない。膝を前に突き出した前傾姿勢は、大型類人猿のようだ。長い腕を垂らし、苛立ったように左右に揺らしている。
 赤い目玉はぎょろりと大きいが、視力よりも嗅覚に頼っているらしい。拉げた鼻が、忙しなく周囲の臭いを嗅ぎ分けている。
 奇妙なことに、恐ろし気なケモノを気に留める者は誰一人としていない。
 スマホのカメラを向けることも、110番にかけることもない。悲鳴も上がらない。それどころか、女子高生たちが短いスカートをひらひらさせながら、横を通っている。先を急ぐサラリーマンや、スマホを弄りながら歩く男たちも同じだ。
 見えず、感じず、自分たちが安全な場所を歩いていると信じて疑わない。
 あのケモノは、人間の言うところの”妖怪”と呼ばれるものだ。
 妖怪が見える人間は、昔こそそれなりにいたが、今は稀有だ。
 見えないが、何かしらの本能でもあるのだろう。誰もケモノにぶつかることなく、器用に避けながら階段を行き来する。そんな人間を、ケモノは覗き込み、臭いを嗅いでいる。エスカレータで通過する人間も見逃さない。
 何をしているのかと言えば、単に獲物を物色しているにすぎない。
 妖怪というのは、力のある人間を好んで食べる。
 特に妖怪が見える稀有な人間は、妖怪から目を付けられやすく、捕食対象となりやすい。
 僕はゆっくりと、不細工なケモノから女へと目を戻す。
 あの女は確実に見えている。なのに逃げないのは、妖怪に対する知識がないからだろう。さしずめ、「早くいなくなれ!」と祈っているところか。
 よくその年齢まで生き残れたものだ、と感心してしまう。
 それにしても、いつまで粘るのだろうか。
 そろそろ諦めて、ケモノの横を突破するなり、バスやタクシーに変更するなりすればいいのに、女は動かない。
 ケモノもケモノだ。何もこんな場所で獲物を物色する必要はないだろうに。人流を鑑みれば、効率はいいのだろうが、邪魔でしかない。
 左肩に提げたリュックサックの位置を整え、ジャケットからスマホを取り出す。
 時刻は18時を回っている。
 予定時間より2時間オーバーだ。
 着信履歴は4件。
 鬼頭新きとうあらたの名前が並んでいる。僕が出ないと悟ったのか、メッセージが1件。《帰りが遅いと皆が心配しているよ》と、困惑顔の絵文字付きで送られている。
 ため息が出る。
 せっかく面白いものを見つけたと言うのに、時間切れだ。
 見える人間と、腹をすかせたケモノの決着は、明日のニュースで分かるだろう。
 止めていた歩みを進め、女の前を通過する。混み合ったエスカレーターは使わず、階段を上る。
 気怠げに頭を上げれば、醜悪なケモノと目が合った。
 ケモノが興奮したように肩を上下させ、ダンスでも踊りだしそうなほどにビタビタと足を踏み鳴らす。笑ったのだろうか。大きく開いた口に、千枚通しのような歯がずらりと並んでいる。
 もしかして、僕を獲物にしたのか?
 少しの驚きを込めて目を丸めると、ケモノが素早く腕を振り上げた。ケモノの手はチンパンジーに似ている。細長くも、屈強な指だ。その1本1本に鋭利な爪が生える。指の数も7本と歪だ。
「邪魔だ」
 一蹴しようとした瞬間、体が後ろに引っ張られた。
 僕の目の前を鋭い爪が掠める。
 命拾いした、などとは思わない。
 スローモーションのように流れる視界の中、行き交う人間たちが足を止め、驚いたようにこちらを見ている。僕だって驚いている。足が完全に階段のステップから外れてしまっているんだから。
 滞空時間は長くはない。
 コンマ1秒か、2秒か。
「あ…」と出た声が合図のように、スローモーションは終了した。
 重力に引っ張られ、重くなった体が落下する。
 後ろを見れば、誰かが僕のリュックサックを引っ張っているのだと分かった。それが例の女だと気付き、苛立ちが込み上げて来る。と、同時に、このまま僕が落下すればリュックサックの中にある、苦労して手に入れた物が壊れてしまう。何より、女もタダでは済まないだろう。
 僕の背中で死んだとなれば後味が悪い。
 目の前を空ぶったケモノの腕を掴み、反動をつけて、ステップにつま先をかけることが出来た。
 ケモノの方も、僕に引っ張られるままに襲い掛かって来る。大口を開け、頭を噛み砕こうという腹なのだろう。
 酷い口臭に顔を顰めて、ケモノの顔面を鷲掴む。力任せに首の骨をへし折れば、瞬時にしてケモノの体は弛緩した。
 階段の隅っこに投げ捨てても、ケモノはぴくりとも動かない。死んだのか否かは、妖怪特有の生命力、もしくは異能に依る。
 異能と言うのは、種が持つ能力とは別の特殊能力ことだ。鬼なら剛力、狐狸の類は変化へんげというのが種の持つ能力だ。それプラス、個別に能力を持つことがある。その中に再生がある。蜥蜴の尻尾のように、再生するのだ。再生力がある妖怪は、治癒力も秀でているので、殺すには骨が折れる。
 このケモノがどうなのかは分からないが、ケモノ系は治癒力が優れているから厄介だ。
 のんびりとステップの上で体勢を整えれば、パチパチと疎らな拍手が鳴った。
 見渡せば、通行人が足を止めて僕を見ている。「よく落ちなかったな」「体操選手か?」「体幹やべぇ」などと聞こえる。
「眩暈?大丈夫?」と、中年女2人組みが僕の後ろに声をかける。
 後ろを見れば、僕のリュックサックのショルダーストラップを握ったまま、例の女が呆然としゃがみ込んでいる。「大丈夫です…」と呆けた声を返しているが、視線は突っ伏して動かないケモノに向けられている。
「良かったわね。落ちなくて」
「イケメン彼氏に感謝しなさい」
 好き勝手言って、2人組みが微笑みながら去って行く。
 その他の人間たちも、何事もなかったように足を動かし始めた。
「おい。手を離せ」
 女を睨みつける。
「ご…ごめんなさい」
 謝るのに、手が離れない。
 よくよく見れば、手と言わず、全身が小刻みに震えている。指先が白むほど力を込めた手は、ショルダーストラップを握ったまま硬直しているようだ。膝をついたまま立ち上がらないのは、腰が抜けている可能性がある。
 階段の真ん中で動かない僕たちに、邪魔だとでも言いたげな視線が、幾つも投げられる。
 ひとつため息を吐いて、リュックサックを下ろす。女の段まで下りると、女の腹部に手を回す。そのまま持ち上げれば、女は驚いたように手足を縮めて硬直した。
「リュックを落とすなよ」
 ひと言注意して、階段を上る。
 それなりの注目度はあったと思う。
 けれど、あそこでじっとしているのも邪魔だろうし、何かしらの輩に絡まれるのも面倒だ。だったら女をホームのベンチまで運ぼうという考えに至った。
 世に言うお姫様抱っこは、僕の柄じゃない。おんぶをするには、女自身が僕の背中に乗る必要がある。腰が抜けている状態では無理だ。米俵のように肩に担ぐよりも、荷物のように小脇に抱える方がマシだろうという消去法だ。
 ずんずんと階段を上って、ホームにある空きベンチを目指す。
 野次馬の視線を無視し、ホームの端っこにあるベンチに辿り着く頃には、女の硬直も緩和していた。僕が足を止めると同時に、自分の足で立ったのだ。ふらついていたし、膝は震えたままだが、腰を引かせたままに僕にリュックサックを差し出した。
「あ…あの、すみませんでした」
 リュックサックを受け取れば、女は緊張の面持ちで僕を見上げた。
 目が合えば、ほんのり頬を染める。
 自分で言うのはなんだが、この顔は女ウケが良い。ただ、僕が自分の顔を気に入っているかと言えば、答えはノーだ。
 憤然として女を見下ろせば、女は立所に頬の赤みを消し去った。
 畏縮の様で首を垂れ、トートバッグの肩紐を握り締める。
「ま…ま、まさか…あんなことになるって思わなくて…」
 あんなことになるとは、どちらを意味しているのだろうか。
 僕が階段から転落しかけたことか、あのケモノの首をへし折ったことか。
「あんた、ずっと見てただろ?アレを」
「え?」
 と、女がゆっくりと頭を上げる。
「私のこと…見てたんですか?」
 恥ずかしげに頬を染め、バツが悪そうに再び俯く。
「ああいうの…化け物が、昔から見えるんです。でも、あんな大きなのは初めてで…」
 女は力なく微笑んだ。
「初めてなのか?」
「あ…はい」と、女が困惑気味に僕を見た。
「普段はどんなのを見てるんだ?」
「小さいのです。ネズミっぽいのとか…毬藻みたいなのとか…です」
 驚いた。 
 どうやら今まで強運だけで生き残っていたらしい。だから妖怪の本質を知らず、あんな場所でアレが去るのを待っていたのだ。
「運が良かったんだな」
 素っ気なく言えば、なぜか照れたように頬を緩める。
 頭の中がお花畑なんだろう。
「えっと…あなたも見えるんですね。見える人と会ったのは初めてです。化け物が見えると言っても誰も信じてくれなくて…。幽霊とかなら信じてくれ易いのに、化け物だと…嘘つきになるんです。だから、ずっと見えないフリをしてたので……」
 仲間が出来ました、とでも言わんばかりだ。
「でも、あんな化け物を殺しちゃう人がいるなんて…びっくりして…。見える人ってだけでも驚いたのに…本当に凄いです」
「別に死んだとは限らない。ああいう手合いは、頭を潰すか、灰になるまで焼くか、細切れにするかしないと、極稀に息を吹き返す。首をへし折ったから、蘇生は五分五分と言ったところだ」
 嘆息して、リュックサックのショルダーストラップに左手を通す。今度は片方に肩に引っ掛けるのではなく、しっかりと右手も通して、ポジションを整えながら背負った。
 これで、見ず知らずの人間にショルダーストラップを掴まれることはない。
「あ…あの。アレは何なんですか?」
「妖怪。あそこで、獲物を物色していたんだろ。もし、あんたがアレの脇を駆け抜けて通過しようとすれば、捕まっていただろうな。通常は、人目のない場所まで尾行し、捕食するんだが、あれは速攻で僕を殺しに来たからな。よほど腹が減ってたんだろ」
「ほ…捕食…」
 絵に描いたような顔面蒼白さで、女は自分の体をきつく抱きしめた。
 目を瞠り、そわそわと周囲を探っているのは、アレが蘇生する可能性があると伝えたからだ。既に蘇生し、尾行を開始している可能性だって捨てきれない。何しろ、こんな場所で狩りをするヤツだし、僕に襲い掛かって来たくらいだ。知能は低く、執念深そうだ。
「よ、妖怪って…人を襲うんですか?」
「人間だって、人魚の肉を競って欲するだろ?それと同じだ。全ての人間を襲うわけじゃない。あんたのような一定の能力のある奴に唾をつけたがる。喰ったからといって、能力が向上するわけじゃないんだがな。そう思い込んでるモノは多い。単に、人間の肉が好きなヤツもいるが…。まぁ、街中では早々出会うことはない。レアモンスターだとでも思ってくれればいい」
 一笑する僕とは対照的に、女は自分の立場を悟り、泣きだしそうに顔を歪めた。
「あ、あの!何か…対策とか、対処法とか…ありますか?あったら教えてほしいんです!」
 縋りつくというのは、まさにこんな感じなのだろう。
 切羽詰まった顔は強張り、大きく見開いた瞳は、今にも大粒の涙が溢れそうなほど潤んでいる。
「なぜ?」
 気怠げに女を見下ろせば、女はきょとんと目を丸める。
「あ…いえ…対策を教えてほしいなって…」
「だから、なんで僕が?」
 親切にケモノのことも教えてやった。これ以上の配慮など、僕は持ち合わせていない。
 けたたましいベルに頭を上げる。アナウンスが電車の到着を告げ、俄かにホームが騒がしくなる。
「悪いな。どちらかと言えば、僕もさっきのヤツ側なんだ」
 人間は嫌いじゃないが、好きでもない。
 人間の生死にも興味はない。
 弱肉強食。それが自然の摂理というものだ。
 肩を竦め、踵を返す。
 すたすたと歩き出せば、ずしり、とリュックサックが重たくなった。
 苛立ちに振り向けば、女がリュックサックを掴んでいる。泣きっ面の癖に、頑とした表情が、この手は絶対に離さないと主張している。
「おい。ふざけるな」
「お願いします…なんでもしますから!」
 生死に関わる重大事項に直面した人間は、恐ろしく煩わしくなるというのを、今思い出した。
 ああ、面倒臭い。
 力づくで払い除けるのは容易くても、帰宅ラッシュのホームでは人目がありすぎる。何より、人間は些細なことで死んでしまうから、この手の人間を振り払うのは注意が必要なのだ。
 僕はため息を嚥下して、リュックサックを掴む女を透明人間だと思うことにした。
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