幽世の理

衣更月

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忌み物

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 稀少タイプの人間が一人、妖怪屋敷に投入されればどうなるのだろうか。
 少しばかりの好奇心が胸を擽ったが、なんのことはない。
 新が「後ろ盾になる」と宣言したせいで、大っぴらな揉め事どころか些細な諍いも起こらない。
 味見程度にと噛みつく輩くらいは出るかと思ったが、そんな莫迦もいない。鬼を敵に回すのは利口でないと判断したのかと思えば、そうでもない。
 ちらほらと聞こえる噂話に耳を傾ければ、「若様が人間の嫁を連れて来た」「毎夜励んでおられる」「子が愉しみだ」などと、面白おかしく酒のあてにされている。
 なんとも気に入らない。
 当の望海と言えば、噂を耳にする余裕もない。それほどにハードスケジュールなのだが、逃げ出す素振りはない。妖怪を畏れることもなく、ころころと表情を変え、フレンドリーに妖怪と接している。コミュニケーションの塊なのだ。
 そんな望海を、人間という物珍しさもあってか、妖怪たちの大半は好意的に受け止めている。好意的とは言っても、動物園の猿を柵越しに見ているような様子だ。
 猿と比較するには、猿に失礼かもしれないが。
 縁側に腰を落ち着け、落ち葉掃きに勤しむ望海を観察して、しみじみに思う。
 あいつは役に立たない。
 コミュニケーションが抜群でも、それ以外が使い物にならない。
 ここの使用人は、着物が制服だ。女中であれば、藤色の着物になるが、望海は一人で着付けることができない。着物が着慣れないのだろう。歩幅を誤って転倒するし、袂を頻繁に濡らしている。足袋にも慣れず、初めて靴を履いた犬のような歩き方をする。作法も全くなっていない。鴨居を踏み、畳の縁を踏み、障子に穴を開け、茶器を割る。結果、庭の掃除に回されているのだが、どうにも不格好に竹熊手を振り回しているように見える。
「望海!股を開くな!」
 叱責を飛ばせば、望海が真っ赤な顔で股を閉じた。
 裾の乱れを正し、泣きそうな顔で僕を睨んで来る。それに微笑むのは、僕の隣で茶を啜る新だ。
「望海ちゃんって不器用だよね」
「とんだ不良債権だ」
 新を睨みつければ、新は頬を掻きながら苦笑する。
「でも、大学と女中さんの二足の草鞋で頑張ってるじゃないか」
「頑張れば全て許されるのか?そもそも基礎がダメだ」
 見ろ、と望海を指さす。
 叱りつけたばかりだというのに、もう股を開いている。
 履き慣れぬ草履のせいか、足元が覚束ない。竹熊手を持つ手も辿々しく、とても落ち葉を掃いているようには見えない。こんな醜態で、よくぞあんな大口を叩けたものだ。
 そんな望海の傍らで、白銀のおかっぱ頭の女童めのわらわがしゃがみ込み、土いじりをしている。
 名前をすずと言う。
 頭の狐耳と、着物の裾から飛び出した尻尾から、紗が妖狐と分かる。ただ、漫画や小説の中の妖狐とは違い、現実の妖狐はクールさとは無縁だ。紗のような未熟者は上手く化けられず、耳と尻尾が出てしまう。要領が悪く、人語を喋ることもできない。ケモノが人語を操るには、それなりの鍛錬が必要と聞くので、紗がマスターするのは当分先の話だ。
 更に紗に至っては、狐から連想される狡猾さがない。
 狡賢いというのは、育った環境に起因する。ここでは狡賢くなくても食べ物にありつけ、安全な寝床がある。何より、紗の育ての親は三紗みすずと言う、うちの女中頭である化け狸だ。新が甘やかすのも手伝って、紗は4、5才の女童の姿のまま成長が止まってしまっている。
「紗は何をしているんだ?あんなところにいると、望海に踏まれるぞ」
「狐は耳が良いからね。蚯蚓みみずか土竜か…何かがいるんだろうね」
 新が微笑む。
 背中を丸め、熱い茶を啜り、栗饅頭を食べる様は、中年男を通り越えて孫娘を見守る爺さんだ。 
「そういえば、新しい依頼が来たと聞いたよ?」
「確定はしていない。今、穀雨こくうが対応している」
 茶を啜り、竹熊手と格闘する望海に目を向ける。
 どうやら竹熊手が雑草に絡まったらしい。股を広げて踏ん張り、真っ赤な顔で竹熊手を引っ張っている。
 あいつの頭の中には、力を緩めるという考えはないらしい。何が何でも草ごと引っこ抜くという意地を感じる。
「なんだか危なっかしいね」
 庭掃除の何が危険だというのか。
 新が沓脱石くつぬぎいしの上のサンダルを突っ掛け、腰を浮かせた時だ。唐突に竹熊手の引っ掛かりが外れたのだろう。体重をかけて竹熊手と格闘していた望海の体は、勢いのままに後ろに仰け反った。慌てて踏ん張った足も、草履が脱げ、後ろでしゃがみ込んでいた紗にぶつかる。あとは絵に描いたような間抜け面で、後ろ向きに池へと転落した。
 どぼん、と水飛沫が上がり、紗が驚いたように目を瞠っている。
「おいおい…冗談だろ?」
「冗談じゃないよ!」
 新が悲鳴を上げて駆け出した。
 僕もサンダルを履き、新の後を追う。
 池の中で、望海は呆然と座り込んでいる。濁った池の中では、錦鯉が驚いたようにヘドロを巻き上げ逃げ惑う。新が躊躇なく飛び込んだから、さらに錦鯉はパニックだ。
 新に望海を任せ、僕は紗の前で腰を折った。
「紗。怪我はないか?」
 紗がまんまるの目をぱちくりさせ、こくりと頷く。
 見た目は女童でも、正体は50過ぎの妖狐だ。体の頑丈さは折り紙付きだ。
「だろうな」と、紗の頭を撫でる。
 紗は耳を伏せ、気持ち良さそうに目を細めた。
 紗の頭を撫でつつ新を見れば、下半身がヘドロで黒々と汚れている。一方、頭からひっくり返った望海は、悲惨としか例えようがない。
 着物はヘドロ塗れ。頭の上に団子状に結っていた髪は解け、怪談に出て来そうなヘドロの化け物みたいだ。
「この池って…こんなに汚れてたかな?」
 べちょり、べちょり、と不快な音を立てながら、新が望海を抱え上げ、池から上がって来る。
「昔は、もっと綺麗だったような気がするんだけど…」
「池の側で宴会するのが流行ってたからな。その興味も薄れて放置していた結果だ」
 錦鯉が生きていたことすら、僕は忘れていた。
「しかし、お前は何をやっても使えないな」
 ため息交じりに言えば、望海は奥歯を打ち鳴らしながら俯く。
 よくよく見れば、体が小刻みに震えている。池の水と、晩秋の風の冷たさで、体が冷え切っているのかもしれない。
「望海ちゃん。大丈夫?」
 新が望海を下ろし、着物のヘドロを払い落す。
 落ちたヘドロが悪臭を放ち、紗が小さな手で鼻を覆った。狐ほど鼻が利かない僕ですら、臭いに顔を顰めてしまうのに、ヘドロ塗れの2人は気にもしていない。
「そのまま風呂場に行くのは拙いから、望海はここで着物を脱げ。下に襦袢を着てるだろ」
 望海は震えるままに頷き、帯に手をかける。
 それを諫めたのは、「いけません!」という叫び声だ。目を向ければ、玄関から慌てたように三紗が駆けて来る。
 見た目は40前後の、小柄でふくよかな女だ。藤色の着物に白い前掛け。栗毛を頭の上で団子状にまとめ、赤珊瑚の簪を挿している。垂れた目尻と肉付きの良い唇をした、峠の団子屋にいそうな風貌をしている化け狸だ。
「若様。なんてことを言うんですか」
 僕の前で足を止めると、太い眉が少しばかり吊り上がった。
「襦袢は下着です。若様は、望海に下着姿で歩けとおっしゃるのですか?」
 三紗は頬を膨らませ、僕から望海、新へと視線を馳せる。
 そのまま周囲を見渡し、ぷかりと池に浮かぶ竹熊手で視線を止めた。
 盛大なため息が落ち、頭を抱えながら望海を見る。
 望海は眉尻を下げ、深々と三紗に頭を下げた。
「つ、つま躓いて池に落ちました…。あの…着物を汚してしまって…ご、ごめんなさい…」
 奥歯ががちがち鳴っている。
「謝罪は後で聞きます。今はお風呂が優先。鬼様も。そんな汚れたままで家に上がることは許されません。庭のホースで汚れを落としてから、お風呂に行って下さい。特に望海。人間は些細なことで死んでしまうのだから気を付けなさい。お風呂でゆっくり温まるまで出ることは許しませんよ」
 まるで母親だ。
 そわそわと望海の様子を見守る新は、心配性の父親というところだろうか。
「さぁ、愚図愚図しない」
 ぱんぱん、と手を叩く三紗に急かされれば、望海は脱げた草履を拾い集め、新の腕を掴んだ。まさに父娘の絵面で、とぼとぼと去って行く。
 その後ろ姿を見送りながら、三紗は丸い腰に手を当てて僕を見る。
「分かってる」
 望海に女中は勤まらない。
「人間は、みんな不器用なんですか?」
「妖怪と同じで個体差がある。池に落ちたのは、望海の注意力が欠如していたからだろう。真後ろにいた紗に気付かず、躓いて、後ろ向きに池の中にどぼんだ」
 意味が分からないと、紗が首を傾げる。
 三紗も上手く理解していないようだ。
「昔の人間は、もう少し警戒心も強く、機敏だったように記憶しているのですが…」
「そうだな。だが、基本的に人間は、我々のように感覚が鋭いわけじゃないんだ。すぐ後ろに何があるのかも、目で見て確認しなきゃならない。夜になれば、もっと見えなくなる。かといって、耳や鼻が優れているわけでもない。三紗や紗が想像するよりも、人間の感覚は鈍くて弱いということを理解してくれ」
 紗の頭を撫でれば、ようやく望海が池に落下した謎が解けたらしい。得心顔で頷き、自分が原因だったのかと驚き、反省の顔で望海の下へと走って行った。
 紗は素直だ。
「人間というのは不便なんですね。目も、耳も、鼻も利かず、なのに些細なことで死んでしまうなんて…」
「人間は本来の能力を向上させることよりも、それらを退化させてでも、文明の利器を選んだんだ」
「その良さは私には分かりません」
 三紗が緩く頭を振った。
「まぁ、俺は両方の良いとこ取り。ハイブリッドってやつですけどね」
 声に目を向ければ、草臥れて薄汚れたスウェット姿の穀雨が歩いて来ている。
 灰褐色のツーブロックに、ほんのり青みがかった鳩羽色の双眸。肌は白く、面立ちは中性的。小柄で華奢な体躯と相俟って、頭がツーブロックでなければ女と見間違う風貌だ。
 年の頃は僕と同じ20代前半に見えるが、穀雨は江戸後期の生まれだと聞く。
 雪女と人間のハーフ、半妖だ。
 雪女は女ばかりの群れを作り、性質上、妖怪の中では比較的短命な種族だ。熱に弱いのだから仕方ない。ただ、種を維持するには男がいる。子を為す際、雪女は一時的に山を下りる。子種を人間の男で補う必要があるからだ。
 雪女の性質を受け継いだ女児が生まれれば連れて行くが、それ以外の子は捨ててしまう。女児が生まれれば、男は精気を吸われて息絶える。
 母に捨てられ、父は殺され、放棄された赤子が生き残る術はない。
 だが、穀雨の父親は殺されなかった。穀雨は、父親が死ぬ19まで愛情深く育てられた経緯がある。穀雨というのも、穀雨の時期に生まれたからと、父親が名付けたという。そのせいか、穀雨は人間が好きなのだ。特に人間が発明するものが好きで、新製品を買って来ては分解し、仕組みを勉強し、改造し、色々と遊ぶ。
 昨夜もそうだったのだろう。
 目の下に隈を作り、欠伸を掻きながら歩いて来る。
「さっき、めちゃくちゃクサイ鬼頭さんと人間の…えっと…。ああ、大神さんの嫁!クサイ嫁を見ましたよ」
「日向望海ですよ、穀雨さん」
 三紗が呆れたように嘆息する。
 穀雨の徹夜顔を見て、母親のように機嫌が降下しているのが分かる。
 嫁ではない、という否定を口にするもの億劫だ。
「池に落ちたんだ」
 僕が池に浮かぶ竹熊手を指させば、穀雨は吹き出した。
「ヤバイね!どうやったら落っこちるんですか?俺も見たかったなぁ」
「紗に躓いたんだ。ああ、紗に怪我はない」
「で、鬼頭さんが助けに池へ飛び込んだ…と。こんな深水では、さすがの人間でも死なないでしょうに」
 くつくつと笑いながら、穀雨は目尻の涙を拭う。
「それは新の性分だから仕方ないだろ。で、どうした?」
「ああ、そうでした。からすの報告だと、高確率で本物ではないかと。まぁ、前回のようにハズレの可能性もあるんですけど、聞くになかなかに面白いんですよ」
「面白い?」
 眉宇を顰めて訊けば、穀雨は妖怪らしい陰湿な笑みを浮かべる。
「まるで怨念渦巻く奈落のようだと。なのに、周囲に妖怪の姿は見当たらないと言うんです。さらに依頼人とメールでやり取りをしていると、依頼人がこう言うんですよ」
 穀雨は目を弓なりに撓らせ、これから発言する言葉の効果を引き上げるように間を作る。
 僕と三紗がじっと穀雨に注目する中、穀雨は声のトーンを下げた。
「”夜な夜な鬼が出る”と」
 まるで怪談を披露しているような語り口だが、僕に対しては効果ゼロだ。
 三紗は眉根を寄せ、不安げな顔だ。口を挟まないのは、それが彼女の仕事ではないと弁えているからだ。
「鬼が出るのに、依頼人はそこに住んでるのか?」
「です、です」と、穀雨は面白そうに頷く。
「確率、上がってるんじゃないですか?」
「この仕事に確実なものはないが、面白そうなのは事実だ」
 新の反応が気にはなるが、依頼を蹴る理由にはならない。
「依頼を引き受けるように連絡をしてくれ」
「了解で~す」
 砕けた口調は、趣味のオンラインゲームで知り合う人間から仕入れる”人間らしさ”の1つらしい。
 実に穀雨らしいが、三紗は気に食わないようだ。腰に手を当てた仁王立ちで、「穀雨さん」と叱責を上げる。
「若様に対し、その話し方はなんです。他にも色々と言いたいことがあります。仕事の話が済んだのなら、ちょっとこっちにいらっしゃい」
 ぷんぷんという擬音が似合いそうな顔で、三紗は穀雨の腕を取る。
 穀雨が面倒臭そうな顔で、「え~」と非難の声を上げているのも構わず、三紗は穀雨の腕を引いて屋敷へと戻って行った。恐らく、言葉遣いを注意し、だらしなさを叱り、薄汚れたスウェットを着替えさせ、たらふく飯を食わせてから寝かせるのだろう。母親のように。
「さてと…」
 ぱん!と一際大きく手を叩けば、どこからともなく作務衣姿のケモノが3匹集まって来る。
 2匹は犬、1匹は猪だ。
 化ける能力はなくとも、2足歩行で竹箒や剪定鋏を持っているから、誰の目にも既存の動物ではないと分かる。
「池のヘドロが酷い。綺麗に掃除してくれ。それから竹の縁台ベンチが欲しいな。茶を飲みながら、鯉を見るのも面白そうだ」
 そう言えば、3匹は同時にこくりと頷いた。
「それじゃあ、頼むぞ」
 ひらひらと手を振り、踵を返す。
 来た道を辿り、沓脱石にサンダルを脱いで縁側に上がる。座敷に入って窓を閉めた所で、手早くシャワーを済ませた新が戻って来た。
 服装はファンシーな柄のポロシャツとチノパンだ。
 基本、新はサイズさえ合えば、似通ったものを大量買いする癖がある。僕も同じだ。基本的にワイシャツと黒いパンツで統一している。上に羽織るジャケットのデザインを変えるだけで十分だし、何よりも楽だ。
 それにしても、新の趣味は酷い。
「お前のシャツは何処で買うんだ?」
「通販。紗ちゃんに選ばせてるんだ」
 新は生乾きの髪をタオルで拭いながら、「外では着ないよ?」と頬を赤らめた。
 単に紗を喜ばせたいがために買っているらしい。
 新が座卓の前で腰を下ろすのを待ち、少しの苦言を呈す。
「新まで池に飛び込む必要はないとは思うがな」
 僕も腰かければ、ほどなくして顔のない女中と一つ目の女中が、盆に酒と肴を乗せてやって来た。
 冷やの注がれたガラス製の徳利が5本と猪口。
 肴は稚鮎の甘露煮に生姜の乗った冷奴、胡瓜と茄子の浅漬けだ。
 手際よく座卓の上に酒と肴が並ぶと、女中は頭を下げて去って行った。
 新が徳利を手にしたのを見て、僕はすかさず猪口を向ける。
「私はね、惟親くん。どうにも望海ちゃんを見ているとはらはらして落ち着かなくなるんだ。人間は些細なことで死ぬだろ?」
「池に落ちたくらいじゃ死にはしない」
 注がれた酒を飲み干せば、またすぐに酒が注がれた。
 新は自分の猪口にも酒を注ぎ、それには口をつけずに箸を手にした。迷うことなく甘露煮に箸を伸ばす。
「いやいや。人間はさ、風邪をひくと死んでしまうと聞くし、転んだだけでも死ぬらしい。打ち所が悪かったって。この前、テレビで見たんだけど……人間の子供は、水深10cmで溺れるんだって……」
 新は箸で摘まんだ稚鮎を見つめ、「怖いよね」と身震いする。
「人間の言葉を借りれば、打ち所が悪くて死ぬのも、水溜まりで溺れ死ぬのも、運が悪かったというやつだ。運が良い者は、ビルから転落しても一命をとりとめるし、鮫のいる海で溺れても救助される。運の悪い者は、こちらが配慮しても死ぬ。風邪で死ぬのも同じだ。いちいち望海に構うな」
「……心配にならない?」
「ならないな」
 池に落ちて死んだのなら、それは望海の寿命だったということだ。
「四六時中、傍で見守るのか?」
「いや、それはないけど…」
 新はもにょもにょと語尾を濁し、箸で摘まんだままの甘露煮をようやく口に運んだ。
「手の届く範囲なら助けても構わないが、そうでもないのに手を出すようなことはするな。こちらが助ければ助けるほど、望海は甘えるぞ?どん臭いままで、一人では危険を回避する力もないままに、呆気なく死ぬことになる」
「惟親くんはスパルタだよね。根っこは優しいのに、表面は厳しいから、優しさが伝わらないタイプ。駅でのことだって、見守ってたんだろ?」
「違う。喰われるかどうかを見てたんだ」
 僕の反論に新は苦笑する。
「私は好きだよ。惟親くんの、そういうところ」
 新は笑みを浮かべ、窓から見える池へと視線を馳せた。
 3匹の庭師が、池に入り、せっせと錦鯉を捕まえている。錦鯉を別の場所に避難させてから、池の水を抜き、ヘドロを掃除するのだろう。
「そんなことより」と、僕は酒を煽る。
 手酌で酒を注ぎ、口角を捻じ曲げながら新を見据える。
「例の依頼を受けることにした」
「そういえば、穀雨くんが三紗さんに説教されていたのを見たよ」
「僕に報告に来て、三紗に捕まったんだ」
 肩を竦めて言えば、新は笑う。
「今回は、それなりに期待ができそうだ。だが、99パーセント本物だと言われても、残りの1パーセントを引く確率の方が大きいからな。実物を見なければ分からない」
 嘆息して、酒を煽る。
 新は口の中のものを酒で流し込み、冷奴に箸をつける。
 互いに酒は強いが、酒ばかりの僕に対し、新は肴の方を好む。かといって、莫迦みたいに食うわけではない。ちびちび食べて、ちびちび飲む。およそ鬼とは思えないペースで、料理に手を付けている。
「依頼人は…また骨董商?それとも何処かの名家?お寺だったり?」
「まさぢ食堂」
 僕の言葉に被せるように、「あの…」と声がした。
 怖ず怖ずと障子の影から顔を覗かせたのは、白いセーターと褐色のハーフパンツに着替えた望海だ。替えの着物がなかったのか、一人で着付ける技量がなかったのか。生乾きの髪を首の後ろで一つに束ね、なんとも申し訳なそうな顔で、鴨居の手前に座した。
 鴨居に触れぬように三つ指をつき、「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げる。
 何をやっても役に立たないが、謝罪に関しては手慣れたものだと感心してしまう。
「なんでもすると言ったのに…失敗ばかりして…。役に立っていないどころか、迷惑をかけているは分かってます。で、でも!いっぱいいっぱい頑張るので…」
「なんだ?三紗からクビ宣告でもされたか?」
「いえ…」
 望海は頭を振って、静かに頭を上げた。
「…女中には向いていないと言われました」
 望海は「それで…」と頬に朱を散らし、もじもじと俯く。
「なんだ?」
 先を促せば、唇を震わせながら僕を見る。
「ほ、他に…私にできることはないかと聞いたら……穀雨さんから……。私は大神さんのよ、よ、よ、よ、夜のあ、相手をしてるから…十分だって……」
 羞恥で耳まで真っ赤だ。
「下らん」 
 深々と息を吐き、座敷に入ってすぐの、新の隣を指さす。
「座れ」と言えば、望海は四つん這いで鴨居を跨ぎ、緊張の面持ちで新の隣に腰を落ち着けた。顔の熱は冷めるどころか赤みを増し、女特有の警戒心をもって身動ぎしている。
「何を勘違いしている?一丁前に色気づいてるのか?抱いてほしいなら、その胸を生かして色っぽく迫ってみろ」
 ふっと鼻先で笑えば、望海はきょとん顔の後、徐々に憤怒の色を滲ませる。
 上気した顔色も、先ほどとは意味が異なるのだろう。怒りで肩を震わせ、唇を真一文字に結び、必死に罵詈雑言を嚥下しようとしている。
 僕に盾突かないのは、追い出されては困るという心算があるせいだ。
「まぁまぁ」と、新が困惑顔で割って入る。
「望海ちゃんはね、穀雨くんに揶揄われたんだよ。私も含めてだけど、時間を持て余しているモノは、常に暇潰しを求めているからね。今は望海ちゃんが興味対象なんだ。だから、無視してくれて大丈夫だよ」
「私は暇潰しなんですか?」
 愕然とする望海に、新は頬を掻きながら頷く。
 獲物じゃないだけマシだろうに、望海は不満気に頬を膨らませた。
「まぁ、三紗からは常々女中には不向きだと聞いている。それじゃあ、何が出来るんだという話だ。なんでもします、が出来ていないのは事実だろ」
 図星を指され、望海は畏縮するように項垂れる。
「僕の旨味は何処にある?」
「で、でも!…け、経験ないので……よ、よ夜の相手は…無理です」
「阿保か。僕の顔を見ろ。女には不自由していない」
 ひとつ嘆息して、酒を煽る。
 望海が不貞腐れた顔でそっぽを向いた。
「望海。僕がお前をここに置いているのはボランティアじゃないんだ。夜の相手として従事したいなら、それでも良い。今夜あたり部屋に来るか?」
 にやりと笑えば、望海の不貞腐れた顔が瞬時に羞恥に染まる。
 男慣れしていない様子が面白い。
「まぁ、お前次第だが、セックスの相手以外にもう1件。面白い仕事がある」
 これに望海の頬から赤みが引く。
 少しばかりの好奇心と、起死回生を狙った目をして、背筋を伸ばした。
 僕は徳利を傾け、猪口に酒を注ぐ。
 最後の一滴まで注ぎ終え、徳利を振って空を確認する。
 僕に代わって新が手を叩けば、さきほどの顔のない女中が、すかさず盆に5本の徳利を乗せてやって来た。望海とは違い、どたどたと足音は立てない。一礼して座敷に入ると、手際よく空の徳利と交換して去って行った。
 酒を煽って、話を進める。
「僕たちは人間ではないが、こちらで暮らす以上、人間のルールを遵守している。それには先立つものが必要になる」
 望海がゆっくりと頭を上げた。
 首を傾げて、「ん?」と間の抜けた声を出す。
「うちの資金源は何だと思う?」
 問いに、望海は「あ」と瞠目した。
 この家は、少しばかり奇妙な作りになっている。
 建物の半分は現世うつよ、もう半分は幽世かくりよに繋がっている。それ故に、外観よりも屋内は迷路のように広い。とは言っても、全てが幽世でない為に、現世のルールに則って複雑な手続きが必要になる。住んでいるだけで、税金として金は飛んで行く。自分の土地なのに、税金を払わなくてはならない。なんとも莫迦らしい人間ルールだ。それ以外にも、人間の目を誤魔化すには色々と整えなければならない。
 昔は大して取り繕う必要はなかった。場所は郊外で、周囲は民家よりも田畑が多かった。
 今は郊外というには緑が少ない。数十年前、似通った敷地面積の狭小住宅が密集した、新興住宅地が傍らに出来たのだ。それらに比べ、敷地面積が300坪。広々とした前庭に、平屋の日本家屋の我が家は悪目立ちするので、創意工夫が必要となる。
 元は人間が住んでいた。
 豪農で名の知れた人間だったそうだ。だが、屋敷は殺戮の舞台となった。一家無理心中とも、跡目争いによる次男の凶行とも聞く。
 理由はどうあれ、跡を継ぐ者を失った屋敷は、売りに出された。
 市街から離れ、しかも事故物件を買い付ける人間はいない。荒れるがままだった屋敷を、僕が格安で買い取ったのだ。荒れた板塀を土塀に建て替え、数寄屋門を堅牢な造りにした。屋敷に手を加え、庭を整え、人間らしい雰囲気を随所に盛り込んだ。
 人の目が近くにあれば、さらに手を加える必要がある。
 ”人間らしさ”というのは大切だ。人間は些細な変化を敏感に察知し、詮索をしてくるから厄介なのだ。
 そうなると、現世の金がいる。
 現世の金は、現世で働かなくては手に入らない。僕たちの服にしても、現世で調達したものだ。
 望海はそれらの事情に頭を巡らせ、顔色を曇らせた。
「犯罪じゃないですよね?」
「現世では、人間のルールで行動するというのが、うちの決まりだ」
「表向きの収入源は、”憑き物回収”で得ているんだよ」
 猪口の酒を飲み干しながら、新は苦笑する。
「要は人間が怖いと言う物を引き取るんだよ。呪いの人形とか聞くだろ?そういう手合いの物だね。望海ちゃんが此処に来た時、惟親くんがリュックを持ってただろ?」
 新の問いに、望海は頬に手を当て、じっくりと思い出しながら「そういえば…」と頷いた。
「私が持たされてたやつですね」
「そう」と、新が苦笑する。
「その中にも憑き物が入ってたんだよ。卓上サイズの三面鏡。夜な夜な女性の呻き声が聞こえ、朝になると長い毛が鏡の前に散っているという曰く付き」
 新は朗らかに説明しているが、望海はぞくぞくと身震いした。
「そ…そういうのの回収が、収入源?」
「プラス。引き取った物は、高値でコレクターに売れるんだ」
「売るのは八十吉の担当だ」
 手付かずだった冷奴に醤油を2滴。箸の先で4等分に切ってから口に運ぶ。
 濃厚な大豆の甘みが口に広がり、生姜の辛味と醤油の塩味が舌に刺激を与え、清涼な香りが鼻から抜ける。
「この豆腐は美味いな」
「私もそう思ってました」
 にこにこと笑いながら、新はちまちまと冷奴を口に運んでいる。
 僕なら4口のところを、新は10口もかけて食べている。浅漬けを食べるにも、30回は咀嚼する。見た目とのギャップは、どれほどの年月を経ても慣れない。というか、面白い。
「あの…鬼頭さんが言った、表向きというのはどういう意味ですか?」
 望海が口を挟む。
「そのままの意味だよ。表向きは憑き物を引き取る。裏は……というと犯罪めいて聞こえるね。”本命”と言った方が聞こえは良いし、正確かな?私たちの本命は憑き物ではなく、”忌み物”なんだよ」
「いみもの?」
「穢れや不浄を意味する”忌み”だよ。それらを回収するんだ」
「呪いの人形とかと違うんですか?」
 妖怪が見えるというのに、その手のものは信じていないのか、望海は怪訝な顔をする。
「昔流行った髪が伸びる系の日本人形なんかは、憑き物だ。書いて字の如く、人間の未練が憑いた物だ。別段珍しい物じゃない。忌み物は元々幽世の物で、神や妖怪が関与した代物だ」
 望海が首を傾げる。
「かくりよ?」
「この世界は現世。その対にあるのが幽世。幽霊の世界と書くけど、別に天国とか地獄とかじゃないよ。黄泉も含まれた世界。幽霊もいるけど、妖怪や神様もいる。常世とも言って、時間の概念がない不変の世界なんだ。この屋敷の、望海ちゃんに立ち入り禁止だと伝えている区域のことだよ」
 新の説明に、望海が青褪めた顔で頷く。
 どんな脅し文句の説明を受けているのかはしれないが、顔面蒼白になるようなことを八十吉から言われたのだろう。
「その幽世で作られた物が、誤って現世に持ち出されていたり、売られていたりするケースがあるんだ。それを回収するのが私たちの本業だね。分かりやすく言うと、役所みたいな所から委託されてる。実際には役所じゃなくてお偉いさんなんだけどね」
「あの…こっちにあるとダメなんですか?」
「現世には現世の、幽世には幽世の規則があるんだよ。特に幽世の物は、現世で有害になることが多いんだ」
 望海はまじまじと新を見上げながら、「有害」と言葉を咀嚼する。
「有名どころでは妖刀。昔から、人間は妖刀に魅了されているよね。小説や漫画にも登場する。あれは幽世の物なんだよ。幽世の刀工とうこうが打ち、それを悪意あるモノが現世に持ち出したんだ」
「悪意…?」と、戦々恐々と望海は唇を噛んで新を見据える。
「幽世にいる多くのモノは、常に暇潰しを探しているんだよ。残念なことに、悪意あるモノは幽世の物を現世に流して暇潰しを見つけるんだ」
「つまり、人間同士の殺戮さえ、暇潰しの道具になる」
 分かりやすく言い直しただけなのに、新は険しい顔で「惟親くん」と叱責を孕む声を出した。
 望海を見れば青い顔のまま硬直している。
「デリカシー」
 と、新が眉を八の字にした。
 本当に新は過保護すぎる。
 僕は軽く手を振り、「悪かった」と一蹴する。
「とにかく、僕たちの収入源は、そういった物の回収だ」
 豆腐をひと口頬張り、望海が緩慢ながらに瞬きをしたのを合図に、「それで」と言葉を切り出す。
「女中が向いていないのなら、こちらの仕事に回すが…どうする?ちょうど1件依頼が来ている」
「惟親くん!」
「新は黙れ。こいつは人間だ。役に立つ」
 これに望海は目を丸め、ゆっくりと僕へと視線を向ける。
「どうする?」
 じっと望海の目を見据えれば、彼女は怖ず怖ずと視線を逸らした。
 説教中の子供のように首を窄め、救いを求めるように新の腕を掴む。
「私一人で行動…とかはないですよね?」
「それはない。必ず、僕か新が行動を共にする。絶対に守ると約束する」
「………わ、分かりました。クビになるよりマシです。お願いします」
 頭を下げた彼女に、新は額に手を当てて僕を見る。
「穀雨くんの補佐でもいいんじゃないのかい?」
「あいつは1人で十分だ」
「そうだけど…」と押し黙った新に代わり、望海が口を開いた。
「穀雨さんは何をしてるんですか?」
「あいつは事務全般だな。依頼人の選別も穀雨だ。最終的に依頼を受けるかは僕が判断する。で、実際に依頼先に赴き、回収するのが僕たち。回収物は八十吉が手際よく捌く」
 望海の頭を整理させる間を与える為、酒を煽る。
 じっくりと2人を交互に見ながら、僕は徳利を置く。
「では、今回の依頼の話をしよう」
 言えば、新が諦めたように頷く。
「鴉が言うには、依頼人の家の周囲で妖怪を見ないという」
「それは嫌な感じだね」
 新が口をへの字に曲げ、眉宇を顰めた。
 そんな新を見上げた望海は不安げな顔だ。
「あ…あの、妖怪がいないのは、ダメなことなんですか?」
「妖怪は何処にでもいる存在なんだよ。種族は多岐に渡るけど、特に小さな妖怪は自然から生成されたのが多い。外国では妖精とか精霊とか言われるかもね。絵本で見る妖精とはかけ離れた見た目だけど…兎に角、其処彼処にいる存在なんだ。それがいない理由は、人間が有毒な農薬等を散布しているとか、妖怪を捕食する凶悪な妖怪がいる可能性が高いってこと。あとは神様がいる可能性だね」
「神様っているんですか?ていうか、神様がいたら凄いじゃないですか。御利益ありそう」
 平和そうに笑う望海に、新は眉尻を下げて頭を振る。
「望海ちゃんが想像する神様は、絶対的なヒーローみたいな感じだよね?無条件で人間を悪の手から救ってくれるような」
 望海は頷き、「違うんですか?」と首を傾げる。
「現実は、神様は人間には興味がないんだよ。昔々は、国造りの一環として、2柱が人間に知恵を授けたんだけどね。酒造りとか、石造りとか、医薬に呪術、農作なんかの知識だね。その後は、一部の神様を除いては、基本的に人間に興味はないんだ。無益無害の立場にいるらしいと聞くよ。ただ、人間が無害だったら、神様も無害な存在。人間が有害であれば、神様は”天罰”として有害な存在になる。でも、妖怪に対しては違う。基本、神様にとって妖怪は有害。現世で出会えば妖怪側は危うい。特に私なんて、見た目でアウトだよ」
「それはいにしえの神に限った話だ。古の神は、特に気性の荒い者が多い。気に食わないという理由で平然と殺しに来る」
 僕の言葉に、望海は青褪めた。
「まぁ、今回は問題ないだろう」
 僕が頭を振れば、新はネガティブ思考を払拭したらしい。
 嬉しそうに目を細め、「そうなんだね」と上機嫌に頬を緩めた。
「信仰心が薄い土地かい?神社がないとか?」
「神社は分からないが、神がいたという報告は受けていない」
 僕の言葉に、望海はぎょっとする。
「神様って、目に見えるような存在なんですか?もっと抽象的な神々しい光とかじゃないんですか?」
「違う。見た目は僕たちと変わらない。稀に神が見える人間もいる。お前よりもさらに稀少なタイプだ。まず、人間が一番目にするのが幽霊だ。それが見えたところで珍しくもない。幽霊の元を辿れば人間だしな。そして、妖怪が見える人間は、昔はそれなりにいたが、今は珍しくなった。だが、神格を得た類を目にすることが出来る人間は極端に少ない。さらに、神を見ることが出来る人間は稀少すぎて、僕も長年生きているが数えるていどしか逢ったことがない」
 新も「そうそう」と頷く。
「その…神格を得るのと、神様は違うんですか?」
「違うな。神格を得るモノはそれなりに多い。八十吉も言ってたろ?神格を得たモノは八百万の神になる。妖怪だったり、自然物だったり、九十九神がらくただったり、果ては怨霊にんげんだったりだ。僕たちの言う神は、創造の神を含めた古の神だ。格が違う。格が違うからこそ、見える人間は少ない。そういう人間は、神の加護を受けていなければ、呆気なく捕食対象だ。結果、更に数が少なくなる」
 ごくり、と望海は唾を嚥下する。
「あの…神様ってどんな感じなんですか?」
「神が見える人間は、目が良すぎて人間と区別が付かないと聞く。逆に、幽霊しか見えない人間には、神が傍にいると畏れを抱くそうだ」
「実は私も見えてたりします?」
 自分の目を指さす望海に、僕は目を眇める。
 座卓に手を付き、体を乗り出して望海を顔を覗き込む。
 望海が顔を赤らめ、目を瞠った。その目を覗き込み、深々とため息を吐きながら体を離す。
「お前の目は、神を見る目じゃない。妖怪止まりだ」
 おざなりに手を振れば、望海の真っ赤な顔が河豚のように膨れた。
 それを無視して新を見る。
「どうだ、やれそうか?」
「私としては、神様が出て来ないなら、気楽に挑める依頼だよ」
 新が破顔し、茄子の漬物を頬張る。
「それで、まさぢ食堂の物はなんだい?期待外れの、単なる憑き物回収だと簡単で助かるんだけどね」
「恐らく、アタリの可能性は高いだろ。とは言え、ハズレの可能性はゼロじゃない」
「恐らく?」と、新の目が途端に警戒心を宿す。
 何を察したのか、箸を置くと、亀のように首を窄めた。
「鬼が出るそうだ」
 その一言で、新は仰け反った。
 人間のように青褪め、「無理!」と叫ぶ。
「私は聞かなかったことにするよ」
 両手で耳をぱたぱた叩き、「あ!あ!」と声を張り上げる。それを望海が驚いた顔で見上げているのだから面白い。
「新。聞いてもらわないとダメだ。こういう手合いの対処をするのは、僕と新なのだから」
「神様も無理だけど…鬼はもっと無理だよ」
 しょんぼりと、新が手を下ろした。
 新は千年以上を生きている。途方もない年月の中、人間を鏖殺おうさつし、それを屠る仲間を見続けていた。鬼の習性に馴染めず、群れから逃げる決心をしたのは江戸の中頃だ。
 鬼にトラウマなどという症状があるなら、新は鬼に対してトラウマを抱えている。
「鬼頭さんは鬼なのに鬼が怖いんですか?」
「望海ちゃんも本物の鬼を見れば分かるよ……」
 望海は眉根を寄せたまま首を傾げる。
「新は突然変異みたいなものだ。容姿も人間寄りだし、身長も鬼としては低い。とはいえ、新は紛れもない鬼。鬼の中では異質ってだけだな。そんな鬼の性質は、仲間意識が希薄。群れを作るが、その関係性はシビアだよ。嗜虐性の強さから、同種で殺し合うこともある」
「そ…それが…民家に出るんですか?」
 ぶるり、と大きく身震いした望海に、僕は頭を振る。
「本当の鬼なら、依頼は来ない。依頼が来たということは、依頼人が生きているということだ。鬼が出た場所で、人間が生きていられる可能性は限りなくゼロに近い」
「つまり…鬼じゃないということですか?」
「僕はそう考えている。人間の思い描く妖怪なんて限られているからな。得体の知れない何かが出て、それがよく分からないなら鬼と表現してもおかしくない。それほど、鬼とは曖昧で、便利な言葉だ」 
 新に視線を向けると、新は冷静になったのか、青かった顔に血の気を蘇らせた。
 緩慢に瞬きを繰り返し、考え込むように視線を巡らせた後に、「確かに」と何度も頷く。
 いつもの笑みを口元に刷いたのを見るに、立ち直ったのだろう。手酌で猪口に酒を注ぐと、それを煽り、「そうだそうだ」と自身に言い聞かせている。
「落ち着いたか?」
 僕が言えば、新は気恥ずかしそうに手にした猪口に視線を落とした。
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