魂売りのレオ

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第十七話 ウォルフの地獄巡り

ウォルフの地獄巡り 四

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 ——おめでとう。君の精神は畜生の輪廻を耐え抜いた。よく一万年も狂わずにいられたね。たいがいみんなダメになっちゃうのに、君はけっこうすごいんだね。でもこんどはどうかな。次は餓鬼道がきどう。飢えと渇きに苦しむ、これまた恐ろしい地獄さ。かなりキツいと思うけど、お願いだから無事耐えてね。君が壊れちゃうと、きっとおれ、レオにきらわれちゃうからさ。

 生きるということは地獄である——そう断じていたウォルフだったが、それは間違いだと、いまでは考えを改めていた。
 彼女は荒野を歩いていた。
 体は元の、求めてやまなかった人間の姿である。
 そこは、なにもない世界だった。
 大地は赤く乾き、空は延々と夜が広がり、唯一しるべとして、幅五メートルほどの、ほんのり低く沈んだ、道と呼ぶべきものがある。
 ウォルフはそこをひたすら進んでいた。
 ここに来るとき、あの声は言っていた。
「終着点まで行けば、第二の地獄は終わるよ」
 だから歩いている。ずっと歩いている。
 しかしどこまで行っても景色は変わらない。疲労が溜まる。のどが渇く。腹が減る。もう立っているのがやっとで、しかしそれでも前に行かねばならないから、かろうじて歩く。
 それにしても恐ろしい地獄だ。
 なぜか、死なない。
 ふつうなら数日飲み食いしなければ、人間は耐えられない。
 だが彼女の体は痩せこけることもなく、汗もかかず、生きている。
 それはここが精神世界だからである。先の畜生道も、いま体験している餓鬼道も、悪魔の力によって作られたヴァーチャル・リアリティー体験だから、現実とは違う動きをしている。
 もちろんウォルフは知らない。彼女は非現実的な生活を、無限とも思える時間、体感している。
 ただ、どうやらここが、作られた摂理を持っていることくらいは、およそ想像できた。というのも、苦痛が尋常でないからである。
 ここに来てからというもの、空腹と渇きが増し続けている。腹が減る、のどが渇くというのは、さんざん経験してきたが、どちらも底があった。
 だが、ここでは限りがない。時とともに空腹が増していく。渇きが積み重なる。
 時間の感覚もない。荒野、夜空の景色はどこまで行っても変わらず、だから何時間歩いたかも、何メートル歩いたかも、一切わからない。
 これに比べれば、畜生の世界などやさしいものだった。生きることが苦痛だなどと言っても、しょせんは現実を模したものでしかない。
 もっと言えば、人間の意志が混じっていない。
 真の地獄は、人間の悪意から成る。それをウォルフは、現実では決してあり得ない人為的に作られた地獄を歩くことで、知った。
 彼女はなるべくものを考えないようにして歩き続けた。ゴールにたどり着かなければ終わらない地獄を、一秒でも早く終わらせようと必死になった。
 ぐぎゅう、ぐぎゅう、と腹が鳴り続ける。
 舌がカラカラになって、割れそうな感触がする。
 汗は途切れた。涙も涸れた。漏らす吐息は、獣でも出さないようなガラガラのあえぎだった。
 ここまででも十分過ぎるほどの苦痛である。しかし、この地獄にはさらなる妨害があった。
 それは不定期に現れた。
 道の脇に、気づけば白いテーブルと、椅子が二脚、置かれていた。
(うっ……!)
 ウォルフは立ち止まった。見てはいけないものが、またはじまる。
「うふふふ。できましたよぉ」
 そう言って、いつのまにか女がテーブルに向い、立っていた。
「デネボラの料理、たのしみ」
 その対面に、痩せた肌の黒い少女が、椅子に座っていた。
「今日はゾスマちゃんの大好きなハンバーグですぅ」
 と女が言うや否や、テーブルの上に恐ろしいものが置かれた。
(ううっ!)
 ウォルフは存在しないツバを飲み込み、目の玉をぐぐっと開いた。木の板に敷いた黒い鉄板皿の上で、うまそうなハンバーグがじゅうじゅう音を立てている。ソースが焼ける音だろう。湯気が立ち、遠目からでもぐつぐつ煮立つのがわかる。
 そして、腹のくにおい!
 ——ぐぎゅううっ! ぐぎゅうううっ!
 ウォルフの腹が絶叫した。下腹がべこっとへこむ気がした。
(ううっ! うううっ!)
 ウォルフはたまらず彼女たちに向かって歩いた。この空腹で、こんなにおいを嗅がされては、正気でなどいられなかった。
 だが、ここは地獄である。
 どういうわけか、道の外に出られない。道と外のあいだは、ガラスのような透明な仕切りがある。
 ウォルフは仕切りにべったり張り付き、吠えた。
「ぐゔぉぉゔぉ……ぐゔぉゔぉ……」
 渇き切ったのどは、まともな叫びも出せなくなっていた。
「わたしはぶどう酒を用意したよ。よーく冷えてるよ」
 女たちにウォルフの声は届いていない。少女はグラスにぶどう酒をそそいだ。トクトクトク、と小気味よい音が広がり、それがまた、渇望を誘う。
 そして、
「かんぱーい」
 チリン、とグラスを合わせ、ごくごくとのどを鳴らした。見ていると、自分がそうしたときの快感を想像してしまう。
 口の中を甘く冷たい酒が満たす快感。
 乾いた舌に水気が染み込む快感。
 それがのどを通り、胃のに落ちる快感。
「ごゔぉおゔぉ……!」
 ウォルフの体が震えた。壁に押しつける力が強まり、そのままぺしゃんこになってしまいそうだった。
 目に毒——とはこのことである。ほしくてほしくてたまらない、だけど決して手に入らないものを見せつけられる。これ以上の毒がほかにあるだろうか。
 渇きが増す。抑えきれない渇望が、より一層激しくなる。
「それじゃあ、食べましょお」
 女たちがナイフとフォークを握り、肉に差し込んだ。持ち上げた肉の断面から、宝石よりもキラキラした肉汁が滴り落ちた。
 それが、見せつけるようにゆっくりと、女の口に運ばれていく。あ~ん、とわざわざ声に出し、歯と歯のあいだから舌を伸ばしてお迎えし、ぷるぷるのくちびるを通過する。
 そして、もきゅもきゅと味わい、
「はぁん、おいしぃ~」
 よだれの筋を作りながら、満面の笑みを見せる。ウォルフの腹がものすごい音を立てる。
「さすがデネボラ。今日のハンバーグは最高にじゅわじゅわで、すごくおいしいね」
 少女が味わいを言葉にする。それがまた、地獄のスパイスとなる。
「ああん、おいしぃ」
「へへへ、おいしい」
「もぐもぐ」
「ごくごく」
 まさに地獄だった。ただでさえ苦しいのに、傷口に塩を塗り込むような光景である。
 だが、目を離せない。この毒は実に甘美で魅惑的だ。本当なら、目を背けてさっさと行けばいいのに、どうしても見てしまう。魅入られてしまう。精神の奥底を、透明で分厚い手にがっしり握られ、引きずり込まれるように動けない。
 鏡を見たら、どんな顔をしているだろう。絶望と、欲望と、渇いて出せない涙とよだれを絞り出そうと激しく震えるその顔は、どれほど情けなく、ぐちゃぐちゃだろう。
「ゔぁああ……ゔぁああ…………」
 ウォルフはへたり込んだ。へたり込みながらも目は離せなかった。
 こんなことが、ずっと続く。
 ずっと、ずうっと、続く。
 あとどれくらい歩けばいいのか。あとどれくらい我慢すればいいのか。
 そんなことを考えることもできないほど、彼女は見惚みとれ、絶望するのであった。
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