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海水は沁みこんでいく
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それから、3年の月日がたった。最初の頃に比べればずいぶん家族らしくなったと思う。
今日も難関大学を目指して勉強に没頭していた俺を、半ば強引に連れ出したのは泉希だった。
俺の勉強ぶりは両親から心配されるほどで、「大丈夫?」とか、「追い詰め過ぎるなよ」とか、何回聞いたことか。暇さえあれば勉強、と受験生の格言に取り憑かれる有様だった。
正直焦りもあった。難関大学に挑戦しようと決意したはいいものの、このところ成績が伸び悩んでいた。このままじゃヤバいんじゃないかと脳裏を巡り、不安に駆られて日夜勉強に励むことにしたのだ。
ボーイズビーアンビシャス! みたいな大層な夢を持っているわけじゃない。
たくさん苦労してきた父さんと、俺との関係に気を使いながら、ひたむきに母として接してくれた母さんに恩返しがしたかった。2人のおかげで俺はちゃんと成長したと、証明したかったのだ。
難関大学に挑戦したいと俺の決意表明を聞いた2人は、優しく笑って背中を押してくれたことも相まって、俺は何としても合格したいと思うようになった。反面、そんな俺を心配し、そして妹にまで気を使われてしまった。
例によって今日も机に向かっていると、突然俺の部屋に入ってきた泉希が、気分転換に遊びに行こうと誘ってきたのだ。いつものように断りの決まり文句を並べたが、必要以上にしつこくガヤガヤされては勉強どころじゃない。俺は観念して泉希と外へ出かけたのだった。
まあ実際のところ、泉希が行きたいところを回って、買い物に付き合っただけなんだがな……。
自分だけ楽しんでいるのを悪く思ったか知らないが、「兄貴の服も買ってあげるよ」とか言い出す始末。買わなくていい、遠慮しなくていい、というやり取りを散々繰り返したのち、間を取ってバーガーをおごってもらい、小腹を満たしたのだった。
今日の緊急逃避行を振り返ってみると、妹の買い物に振り回され、堂々巡りの論争を繰り広げ、最後には「寄り道してこ」と延長戦の笛が鳴ってしまい、夜の広場の遊歩道を散歩している。
だが、泉希には感謝していた。詰め詰めで勉強ばかりになっていた俺を休ませようとして、買い物に付き合わせ、リラックスできる静かな広場へ誘ったのだ。動きっぱなしで体温が上がっていたため、涼しい風が吹いてくれるこの場所にいれば、体を酷使して遊んだ疲れも吹っ飛びそうだ。
「そこに座ろ」
泉希も少し疲れたらしい。遊歩道と隣り合っている芝生の上に設置されたベンチを、キュートなドットカラーに塗られた爪を持つ指が差す。
「そうだな」
これはありがたいと、山頂に辿りついたみたいな気分で足を鼓舞させて歩いていく。
座った瞬間、心身に蓄積した労が息となって漏れ出した。
「何今の、おじさんじゃん」
泉希は体を引いて嘲笑する。
「一日中歩き回ればおじさんみたいなため息も出るだろ」
「開き直ったし。そんなこと言ってるとハゲるよ?」
「俺の頭皮は柔らかいからハゲることはない!」
きっぱり言ってやった。
乾ききった喉を潤すべく、ショルダーバッグから飲みかけの水を取り出す。力を入れ過ぎると潰れてしまいそうなペットボトルの蓋を開け、口に流しこんだ。
泉希もバイトで稼いだお金で買ったお気に入りのバッグから、清涼飲料水を出して水分を補給している。
その唇は赤いリップが塗られ、白い半袖Tシャツにデニムジャケット、明るい茶色のショートパンツ、腰には大きなバックルが目につく太い黒のベルト。泉希もお年頃というわけだ。
座ったはいいものの、何か話すというわけでもなく時間が過ぎていく。
眼前には右左にと何度も曲がりくねる遊歩道が、なだらかな傾斜を見せており、その奥に転落防止用のパイプ柵、大きな川を挟んで道路、新築マンションや一軒屋の家々があるだけ。
これといって感想を抱く奇想天外なことなど起こっている気配もない、日常の中の一風景。簡単に言えば普通だ。
そうなれば現代的性分動作、日常行為の1つであるスマホチェックに向かうのである。これは俺に限ったことではなく、当然、泉希もそうするものだと思っていた。
「ねえ」
そう切り出す泉希の声は、水分を補給したせいか少し湿り気を帯びた響きに聞こえた。
「ん?」
声色が気になったのもある。だが、男の勘なんて大して当てにならないことは心得ている。だから、俺の感覚は気のせいだろうというオチに行きつくはずだ。
頭で考えれば分かる。一日かけて遊び回ったのに、何を暗くなる必要があるんだ。
つっかえたわだかまりなんて頭の片隅にないし、休戦状態の喧嘩もなかったはずだった。なのに、泉希の顔は明るさを失って、真面目な表情をするのだ。
俺が応答したにもかかわらず、続きをためらう赤い唇が声を出し渋っている。貼りつけた表情には、おどける素振りなど感じない。
その時、まだ風はそれほど強くなかったが、空気が鳴いているくらい静寂が響き合っていた。
こわばった表情の泉希の唇が不意に笑みを見せる。
「私達ってさ、元は片親じゃん?」
そのワードが音となり、電波として体を貫通した時、誰にも分からないほど全身の筋肉がけいれんした。
「うん」
俺はとっさに動揺してはいけないと思い、何でもないような態度で頷く。
「こんなこと言ったら、おかしいと思われるかもしれないけど、私、お父さんのこと……ああ昔のね、……お父さんのこと、嫌いじゃないんだ」
俺は泉希が受けてきたことを知っている。でも、詳細は知らない。
ただそれがどんなにひどいものだったかは、父さんに聞いた話と、偶然見た母さんの古い痣で容易に察することができた。それでも、泉希は嫌いじゃないと言う。何がそうさせるか、血が引き合わせるのか。
それとも、親子の絆とでも言うのか。
泉希はいつもと変わらない笑みを唇につけて俺の顔を見る。そこに無理があるように見えなくもないが、なぜか不思議と自然にも見えたのだ。
「兄貴は、昔のお母さんに会いたい?」
そう問われ、俺は答えを探す。父さんから離婚の原因を聞いてはいない。父さんは話してくれなかったし、俺もずっと聞かなかった。聞かなくても、何も支障はなかったから。
顔からじわりと汗が出て、肌にまとわりついていく。唾を飲みこみ、慎重になった口を開いた。
「俺は……分からない」
率直な、今俺が出せる答えだった。俺は泉希の反応をうかがう。
「そっか」
夜の影を映す街灯が泉希の肌色を優しく照らしているが、その含んだ笑みをまとう表情から、おぼろげな感情すら掴み取れはしなかった。
「最近、お父さんと会ったの」
「え?」
「あ、お母さんには内緒だからね!? 会わせたくないと思ってるだろうし。それに、会ったって言っても、遠くで見てただけ」
「ああ……」
俺は少し安堵したが、同時に胸が疼いて締めつけていく痛みが残った。
「自分より若い人に指示されながら汗水流して働いてた。イベント会場のせつえい? っていうの? 色々運び仕事しててさ。そしたら途中で私が見てるの気づいて、目が合った。何見てんだよって感じでね」
「それで?」
俺はこわごわと聞く。
「それだけ。あっちは仕事中だったからすぐに目をそらされた。たぶんだけど、私の顔、覚えてないみたい」
泉希の声色に悲しみなどなく、他人事を話しているような口ぶり。泉希の明るい口調と俺の心は相反してしまい、うろうろと落ち着きない感情が移ろっていく。
「自分の気持ちに向き合っていかなきゃって思ってさ、ほら私も高校生だし。ずっと……お母さんに頼りっぱなしなのも、ねっ」
そう言った後、照れたように笑う。泉希は精神的な病気を患っていることもあり、たまに学校を休むことがあった。今でもたびたび過呼吸を起こしている。
泉希が中学生だった頃は、父さんと2人きりになると不安な素振りを見せることもあって、いろいろと制約をしなくてはならない時期があった。
学校に場所を移せば、泉希の実の父と、しゃべり方やワードチョイスが似ている男性教師と面と向かって話すことも難しかった。
泉希の病気のこともあり、学校を変えるという選択も家族会議で出た。
しかし、泉希が「転校はしたくない」と頑として聞かなかった。一番辛いのは自分なのに。
なぜ転校の選択をしなかったのか。ずっと疑問だった。
だけど、なんとなくだが今分かった気がする。泉希は自分と闘っているのだ。辛い過去に囚われている自分と。
だとしても、あまりに無茶な方法のように感じた。
「お前、まだ発作あるんだろ? 無理しない方がいいんじゃ」
泉希は心配する俺をクスクスと笑う。
「大丈夫だって。あの人に見つめられても発作起こらなかったし……。まあその日から、夜にちょっと鬱っぽくなったり、発作の頻度が上がったりしたけど」
俺は不満げに顔をしかめる。
「全然大丈夫じゃない気がするんだが?」
「あははは……」
「笑ってごまかしてもダメだぞ」
俺はたしなめるつもりで言ったのだが、なぜか少し嬉しそうな顔をする。
「はいはい、ごめんなさい」
今日も難関大学を目指して勉強に没頭していた俺を、半ば強引に連れ出したのは泉希だった。
俺の勉強ぶりは両親から心配されるほどで、「大丈夫?」とか、「追い詰め過ぎるなよ」とか、何回聞いたことか。暇さえあれば勉強、と受験生の格言に取り憑かれる有様だった。
正直焦りもあった。難関大学に挑戦しようと決意したはいいものの、このところ成績が伸び悩んでいた。このままじゃヤバいんじゃないかと脳裏を巡り、不安に駆られて日夜勉強に励むことにしたのだ。
ボーイズビーアンビシャス! みたいな大層な夢を持っているわけじゃない。
たくさん苦労してきた父さんと、俺との関係に気を使いながら、ひたむきに母として接してくれた母さんに恩返しがしたかった。2人のおかげで俺はちゃんと成長したと、証明したかったのだ。
難関大学に挑戦したいと俺の決意表明を聞いた2人は、優しく笑って背中を押してくれたことも相まって、俺は何としても合格したいと思うようになった。反面、そんな俺を心配し、そして妹にまで気を使われてしまった。
例によって今日も机に向かっていると、突然俺の部屋に入ってきた泉希が、気分転換に遊びに行こうと誘ってきたのだ。いつものように断りの決まり文句を並べたが、必要以上にしつこくガヤガヤされては勉強どころじゃない。俺は観念して泉希と外へ出かけたのだった。
まあ実際のところ、泉希が行きたいところを回って、買い物に付き合っただけなんだがな……。
自分だけ楽しんでいるのを悪く思ったか知らないが、「兄貴の服も買ってあげるよ」とか言い出す始末。買わなくていい、遠慮しなくていい、というやり取りを散々繰り返したのち、間を取ってバーガーをおごってもらい、小腹を満たしたのだった。
今日の緊急逃避行を振り返ってみると、妹の買い物に振り回され、堂々巡りの論争を繰り広げ、最後には「寄り道してこ」と延長戦の笛が鳴ってしまい、夜の広場の遊歩道を散歩している。
だが、泉希には感謝していた。詰め詰めで勉強ばかりになっていた俺を休ませようとして、買い物に付き合わせ、リラックスできる静かな広場へ誘ったのだ。動きっぱなしで体温が上がっていたため、涼しい風が吹いてくれるこの場所にいれば、体を酷使して遊んだ疲れも吹っ飛びそうだ。
「そこに座ろ」
泉希も少し疲れたらしい。遊歩道と隣り合っている芝生の上に設置されたベンチを、キュートなドットカラーに塗られた爪を持つ指が差す。
「そうだな」
これはありがたいと、山頂に辿りついたみたいな気分で足を鼓舞させて歩いていく。
座った瞬間、心身に蓄積した労が息となって漏れ出した。
「何今の、おじさんじゃん」
泉希は体を引いて嘲笑する。
「一日中歩き回ればおじさんみたいなため息も出るだろ」
「開き直ったし。そんなこと言ってるとハゲるよ?」
「俺の頭皮は柔らかいからハゲることはない!」
きっぱり言ってやった。
乾ききった喉を潤すべく、ショルダーバッグから飲みかけの水を取り出す。力を入れ過ぎると潰れてしまいそうなペットボトルの蓋を開け、口に流しこんだ。
泉希もバイトで稼いだお金で買ったお気に入りのバッグから、清涼飲料水を出して水分を補給している。
その唇は赤いリップが塗られ、白い半袖Tシャツにデニムジャケット、明るい茶色のショートパンツ、腰には大きなバックルが目につく太い黒のベルト。泉希もお年頃というわけだ。
座ったはいいものの、何か話すというわけでもなく時間が過ぎていく。
眼前には右左にと何度も曲がりくねる遊歩道が、なだらかな傾斜を見せており、その奥に転落防止用のパイプ柵、大きな川を挟んで道路、新築マンションや一軒屋の家々があるだけ。
これといって感想を抱く奇想天外なことなど起こっている気配もない、日常の中の一風景。簡単に言えば普通だ。
そうなれば現代的性分動作、日常行為の1つであるスマホチェックに向かうのである。これは俺に限ったことではなく、当然、泉希もそうするものだと思っていた。
「ねえ」
そう切り出す泉希の声は、水分を補給したせいか少し湿り気を帯びた響きに聞こえた。
「ん?」
声色が気になったのもある。だが、男の勘なんて大して当てにならないことは心得ている。だから、俺の感覚は気のせいだろうというオチに行きつくはずだ。
頭で考えれば分かる。一日かけて遊び回ったのに、何を暗くなる必要があるんだ。
つっかえたわだかまりなんて頭の片隅にないし、休戦状態の喧嘩もなかったはずだった。なのに、泉希の顔は明るさを失って、真面目な表情をするのだ。
俺が応答したにもかかわらず、続きをためらう赤い唇が声を出し渋っている。貼りつけた表情には、おどける素振りなど感じない。
その時、まだ風はそれほど強くなかったが、空気が鳴いているくらい静寂が響き合っていた。
こわばった表情の泉希の唇が不意に笑みを見せる。
「私達ってさ、元は片親じゃん?」
そのワードが音となり、電波として体を貫通した時、誰にも分からないほど全身の筋肉がけいれんした。
「うん」
俺はとっさに動揺してはいけないと思い、何でもないような態度で頷く。
「こんなこと言ったら、おかしいと思われるかもしれないけど、私、お父さんのこと……ああ昔のね、……お父さんのこと、嫌いじゃないんだ」
俺は泉希が受けてきたことを知っている。でも、詳細は知らない。
ただそれがどんなにひどいものだったかは、父さんに聞いた話と、偶然見た母さんの古い痣で容易に察することができた。それでも、泉希は嫌いじゃないと言う。何がそうさせるか、血が引き合わせるのか。
それとも、親子の絆とでも言うのか。
泉希はいつもと変わらない笑みを唇につけて俺の顔を見る。そこに無理があるように見えなくもないが、なぜか不思議と自然にも見えたのだ。
「兄貴は、昔のお母さんに会いたい?」
そう問われ、俺は答えを探す。父さんから離婚の原因を聞いてはいない。父さんは話してくれなかったし、俺もずっと聞かなかった。聞かなくても、何も支障はなかったから。
顔からじわりと汗が出て、肌にまとわりついていく。唾を飲みこみ、慎重になった口を開いた。
「俺は……分からない」
率直な、今俺が出せる答えだった。俺は泉希の反応をうかがう。
「そっか」
夜の影を映す街灯が泉希の肌色を優しく照らしているが、その含んだ笑みをまとう表情から、おぼろげな感情すら掴み取れはしなかった。
「最近、お父さんと会ったの」
「え?」
「あ、お母さんには内緒だからね!? 会わせたくないと思ってるだろうし。それに、会ったって言っても、遠くで見てただけ」
「ああ……」
俺は少し安堵したが、同時に胸が疼いて締めつけていく痛みが残った。
「自分より若い人に指示されながら汗水流して働いてた。イベント会場のせつえい? っていうの? 色々運び仕事しててさ。そしたら途中で私が見てるの気づいて、目が合った。何見てんだよって感じでね」
「それで?」
俺はこわごわと聞く。
「それだけ。あっちは仕事中だったからすぐに目をそらされた。たぶんだけど、私の顔、覚えてないみたい」
泉希の声色に悲しみなどなく、他人事を話しているような口ぶり。泉希の明るい口調と俺の心は相反してしまい、うろうろと落ち着きない感情が移ろっていく。
「自分の気持ちに向き合っていかなきゃって思ってさ、ほら私も高校生だし。ずっと……お母さんに頼りっぱなしなのも、ねっ」
そう言った後、照れたように笑う。泉希は精神的な病気を患っていることもあり、たまに学校を休むことがあった。今でもたびたび過呼吸を起こしている。
泉希が中学生だった頃は、父さんと2人きりになると不安な素振りを見せることもあって、いろいろと制約をしなくてはならない時期があった。
学校に場所を移せば、泉希の実の父と、しゃべり方やワードチョイスが似ている男性教師と面と向かって話すことも難しかった。
泉希の病気のこともあり、学校を変えるという選択も家族会議で出た。
しかし、泉希が「転校はしたくない」と頑として聞かなかった。一番辛いのは自分なのに。
なぜ転校の選択をしなかったのか。ずっと疑問だった。
だけど、なんとなくだが今分かった気がする。泉希は自分と闘っているのだ。辛い過去に囚われている自分と。
だとしても、あまりに無茶な方法のように感じた。
「お前、まだ発作あるんだろ? 無理しない方がいいんじゃ」
泉希は心配する俺をクスクスと笑う。
「大丈夫だって。あの人に見つめられても発作起こらなかったし……。まあその日から、夜にちょっと鬱っぽくなったり、発作の頻度が上がったりしたけど」
俺は不満げに顔をしかめる。
「全然大丈夫じゃない気がするんだが?」
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「笑ってごまかしてもダメだぞ」
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