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第一章 愛の証明

絵を描く理由

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「おう、どうだい調子は。ふたりとも相変わらず仲がいいな」

 珍しいこともあるものだ。顧問の諏訪部先生がやって来た。

 高い志を持って美術教師になったわけでも情熱を持って後進への指導に当たっているわけでもない彼は、週二の部活動にすら基本的には顔を出すこともない、良くいえば放任主義、悪くいえばやる気のない顧問だった。

 晴陽も翔琉も干渉されて絵を描きたいタイプではないし、技法なんかは聞けば面倒臭そうにではあるが教えてくれるから今のところ別段文句もないけれど、もう少し美術部に対して熱意と興味を持ってくれたら、部員はもっと増えるのにと歯がゆい気持ちはある。

「今日はどうしたんですか? 呼んでもないのに先生が部室に来るなんて、明日は先生に縁談でも降ってくるんじゃないですか?」

「そこは雪って言うだろ普通は。離婚ホヤホヤの俺を慰めているつもりか? ……ああ、そうだよな。雪だとこの時期そんなに驚くことでもないもんな。上手い上手い」

「全っ然上手くねーよ。で、先生? マジで用があったんじゃ?」

 呆れたような口振りで、翔琉が時計を一瞥した。早く絵を描き進めたい翔琉にとって、晴陽と諏訪部先生のやり取りなんて苛つく要素しかないのだろう。

「まあ、事務連絡と進捗確認だ。なあ逢坂、アートコンテストには応募するつもりはないって言ってたけど、意思は変わったか? 俺としてはお前にも応募してもらいたいんだよな。お前が受賞してくれたら、俺の美術教師としての評価も上がるし」

「そんな不純な動機で若人の創作意欲を削がないでくださいよ」

「動機はなんだっていいだろお? 逢坂だって、ウチのクラスの都築と付き合いたいっていう動機でいろんなことを頑張ってるだろうが」

「私の凌空先輩に対する愛と、諏訪部先生の棚ぼた思考を同列に語らないでください!」

「だがな、どんな情熱的な愛も長くて三年しか持たないって科学的にも証明されてんだよなあ。だから逢坂がよく口にする『一生都築を愛する』って言葉は嘘だと思うぜ」

「何言ってんだ? 逢坂の重すぎる愛をそこらの女と一括りにすんじゃねーよ」

 晴陽が言い返すより先に翔琉が怒った。晴陽が愛を語るときには厳しい言葉を投げることの多い翔琉だが、諏訪部先生をはじめ誰かが晴陽の凌空への気持ちを馬鹿にしてくるようなときには、庇ってくれることが多い。

 要は、とてもいい奴なのだ。

「なんで久川が怒るんだよ。逢坂、お前は来年の六月末締め切りの夕羅展に向けて準備しておけよ。特に学生部門とか設けられていないから受賞は難しいだろうが、もしも受賞できたら絵で食っていくための足掛かりになるし、俺も一生自慢できるしな」

「先生、おれも美術部員なんですけど? おれにも期待してくれたっていいんじゃねえの?」

「久川に? ……もしお前が何かの賞を取れたら、なんでも言うこと聞いてやるよ」

 鼻で笑った諏訪部先生の感じの悪さは、翔琉の怒りに火を注いだ。

「マジむかつく! 絶対見返してやる! 今の言葉忘れんなよ⁉」

「おう、いいぞお。あ、でも高い物は買ってやるとセクハラだの贔屓だの問題になりそうだからなあ。俺の一発芸とか物真似とか、そっち系にしてくれ」

「先生には去年光の速さで消えていった一発屋芸人のギャグをやってもらって、SNSで拡散してやる。今のうちに練習しとけよ!」

 晴陽が知る限り、翔琉は相当な負けず嫌いだ。いつか本当に諏訪部先生は吠え面をかく羽目になるだろうと思った。

「先生は事務連絡と進捗確認しに来たんですよね? 事務連絡の方は?」

 諏訪部先生は「おお」と呟いて、思い出したかのようにスラックスのポケットから折り畳まれたメモ用紙を取り出した。

「学校に不審者情報が回ってきたんだ。今日の十六時前後に、おそらく二十代であろう男が女子中学生を車に連れ込む事件があった。犯人はまだ捕まっていないらしい。というわけで、ふたりとも今日は早めに帰れ。そんで、できれば一人で帰るのは避けろ」

「はあ? 最悪なんだけど……まあ、しょうがねえか。今日は家で描く」

 早速片付けを始める翔琉を横目に、晴陽はもう少し残って描いて行こうと企んでいた。自分の通学路は明るいし人通りも多いし、帰宅が少し遅れるくらいなら大丈夫だろう、と。

 そう判断した晴陽は、翔琉の絵の梱包と片付けを手伝って友人たちと下校する姿を見送ってから、美術室を独占することに成功した。

 眼前のキャンバスに、鉛筆で平面上の世界を創り上げていく。集中して絵を描いているといつも、晴陽は不思議な感覚に陥る。

 第三者の視点で客観的に作品を捉えることができるくらい、この右手を動かしているのが自分ではないような錯覚を覚えるのだ。

 ただ、今この絵を描いているのがたとえ自分ではなくとも、晴陽が描きたい絵はずっと前から変わらない。

 晴陽の人生の目標の一つに、この手で凌空の肖像画を描き上げることが挙げられる。

 初めて凌空を見たとき、全身に衝撃が走った。


 癖のない艶やかな黒髪と虹彩の薄い大きな瞳には、本人が望まずとも人を惹きつける魅力があり、どこから見ても美しいと称賛される顔立ちをしていた。この人をキャンバスの中に収める作業は、人生で絶対に成し遂げなければならない目標だと瞬時に察した。

 目を瞑って息を吐く。晴陽は凌空のことが好きだ。世界一好きだ。独占したいし、大切にしたいし、ずっと側にいてほしいと思う存在だ。

 それなのに、頭の中ではいつだって凌空の顔を明確に思い出せるというのに、妄想や写真を見て描く気は起こらない。いや、描いてはいけない気すらしている。凌空の魅力を最も引き出せる絵を描けるのは、晴陽に特別な感情を抱いてくれた彼がキャンバスの前に立ってくれたときだと、本能が知っているからなのだろう。

 だから晴陽は、凌空が自分を特別な存在だと認めてくれるようになったら改めて膝を折って、描かせてくださいとお願いするつもりでいる。

 目を開いて、再びキャンバスに視線を落とした。いつその日が来てもいいように、凌空を少しでも上手く美しく描き上げるための腕を磨き続ける努力と準備を怠ることだけはしない。

 晴陽の彩る四角い世界の中は、凌空の存在を最大限に引き出すための背景から先に描かれている。

 今日も、彼のいない、彼のための絵を描き続ける。
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