潔癖症

加藤

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潔癖症

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早朝四時に目が覚めた。昨晩カーテンを閉め忘れた窓から、明け方の蒼い光がじんわりと溶け出している。
何もかも白いベッドから上半身を起こすと、不意に私のお腹の中に、ストンという感覚があった。内部で何かが落ちたような。あるいは、想像もできないほどの遥か遠くから何かを優しく投げ込まれたような。不思議に思ってお腹に手をやると、確実にそこに何かがいるかのような奇妙な心地がした。それはどこまでも尊いもののような気がした。同時に、私は確信した。妄想の中での、実質的には何の効果も持たない脆く儚い確信が、

私は、妊娠したんだわ。

と、声を上げているのだ。
白いベッドに、白い布団、白い寝巻き、そして、お腹にあてがわれているのは私の白い手。それらは全て溶け出した朝の光に染められていて、幻想的な雰囲気さえ漂わせている。その雰囲気は、この確信にふさわしかった。生命の新たな認識をこの世に生み出すのに。
私はまだ膨らんでいない自分の腹部に静かな愛を囁いた。

大切に、大切にお腹の中で育つのよ。
大切に、大切に育てるから。

自分が、人間として好ましい営みを行っているように思えた。
人として生きていく上で抗えない風潮を数え始めたらいったいいくつ有るのだろう。抗おうとしたら、いったいどれほどのものを犠牲にするのだろう。精一杯逃れようとして、けれどいつの間にか自分がその中に絡めとられていて、ふと振り返ってみるとやっぱり大きな集団の中に入り込むのは安心だと息をつく。
抗おうとする理由が若さなら、年を経るうちに丸くなればいい。けれど、抗おうとする理由がどうしようもなければ、争う気がないのにつまはじきにされてしまうなら、集団への入り口をどうやって見つければいいのだろう。どんなに懇願したって、誰の耳にも入りはしないのに。
白い寝巻きの上に涙が落ちた。じんわりと広がっていくその染みは白さの中に紛れて区別がつかなくなった。私の胸の中に暖かさが広がる。それは途方もない安堵感だった。

ありがとう、ありがとう。

私は白い掛け布団に顔を埋めて涙を流した。私の周りの漠然とした空虚が満たされたように思えた。
外から太陽の光が差し込んで、部屋の中を照らしていた。

妊娠を確信したその日の晩、私は恋人に電話をかけた。恋人は遠くにいる人で、なかなか会うことができないのだ。

もしもし、聞いて欲しいことがあるの。

どうしたの?

妊娠したの。あなたの子よ。

本当?嬉しいよ。ありがとう、僕をお父さんにしてくれて。

私も嬉しいわ。ありがとう私をお母さんにしてくれて。

かつてないほどの幸福感が脳天から爪先まで瞬時に走る。私はお母さんになったのだ。
私はお腹を抱くようにして眠りについた。


毎日生まれてくる子供のことばかり考えている。スポーツが好きな子になるかしら。読書が好きな子になるかしら。彼に似るかしら、私に似るかしら。そんな風に。
胎教に良いと聞いたクラッシック音楽を聴きながら、我が子に履かせる靴下の毛糸を選んでいると、自分の生活がこれ以上ないほど充実しているように思えた。
手触りの良い白いベビーウールを手に取って、編み棒に掛ける。白いカーテンの隙間から差し込む夕陽のに照らされて、それはキラキラと光っているように思えた。
床には、毎日編み続けている夥しい量の白い靴下が散らばっていた。毛糸のバスケットには白いベビーウールしかなかった。


八ヶ月後。季節は夏だった。私は白いマタニティワンピースを着て、白い日傘を差して外を散歩していた。
ゆったりと穏やかな顔をして歩いているとよく声をかけられる。

暑いわね。妊婦さんは気をつけなきゃね。

何ヶ月?

男の子?女の子?

私は一つ一つの質問に、絶えず感じの良い笑みを浮かべて丁寧に答えた。

本当ですね。お婆ちゃんも気をつけて。

八ヶ月です。順調に成長してくれてますよ。

生まれるまで知らないでおこうと思っているんです。

世界が穏やかに私に微笑みかけているようだった。お腹に子どもがいるだけで、私自身も守られるべき対象になっているのだ。世界が、私がもたれかかる場所を用意してくれている。それは私にとって何にも変え難い喜びだった。

一ヶ月後。妊婦もいよいよ終盤だろう。骨盤が圧迫されているような感じが日に日に強くなってきているのを感じる。
クラッシック音楽をかけて、家の中でゆったりと過ごす。カフェインの少ないルイボスティーを飲みながらの読書の時間は私のささやかな楽しみだった。
古いラジカセから流れてくるチェンバロの音色。弦を弾く音は小さな妖精が宝物を水の上に落とした時のような心地がする。妊娠を確信したあの朝の心地とはまた違うけれど、素敵な贈り物という点においては同じだ。
私は白い部屋の中で、慎ましやかに微笑んだ。


その日の夜中、お腹が鈍く傷んだ。徐々にそれは激しくなっていき、痛みが等間隔になる。
救急車を呼ぼうとしたが、電話のある居間は一階だった。這って移動しようとしたけれど、途中でうずくまってしまう。腕だけで必死に体を運ぼうとした。けれど、異様に重たい体は私の白魚のような腕では運ぶことができない。

このまま産んでしまおう。

そう決意した。
全身を奮い立たせる。けれど、木製のフローリングは芯と冷たかった。
恋人は随分遠くにいるようで、いつまで経っても帰ってこない。思えば、妊娠を確信した日から合っていない。話したのも、妊娠を報告したあの電話が最後だった。こんな日に私はたった一人なのだ。心細い。不安で寂しい。それでもしっかりしなければ。これから生まれてくるこの子の目に映るものが、頼りがいのある母親であって欲しい。
廊下の窓から静謐な月の光が流れ込んで、苦しむ私を照らしている。世の中の一員になった集大成を、権力者たちに見られているような気になった。
この廊下はステージで、月の光はスポットライトだ。私はこのステージにふさわしい白いマタニティドレスを着て、新たな命を産み落とそうとしている。自然に体に力が漲ってきた。

完璧にこの儀式を終わらせなければ。
世界の広い大海に、私は漕ぎ出したいのだ。その暁に、その海の中に身を投げたいのだ。

陣痛が激しい。
私は窓の方に顔を向けて、叫び声を上げた。体が裂けるような痛み。胎内から出てくる大きな塊が私の体を裂いてしまう。
大量の汗が流れ出る。顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れていく。かろうじて呼吸を保ちながら、私は喘いだ。早く。早く出てきて欲しい。私の赤ちゃん。

不意に、するり、という感覚と共に痛みが止んだ。何かが出てきたような。痛む体をゆっくりと起こして、後ろを振り返った。

やっと会える。

けれど、そこには何もいなかった。どんなにあたりを見渡しても、どんなに耳を凝らしても、産声どころか物音ひとつ聞こえない。夜の静寂だけがそこに横たわっていた。いつのまにか月明かりは姿を消していて、あたりは真っ暗闇になっている。
私は呆然とした。私が生み出していたのは、はちきれんばかりの期待と、それを餌にして大きくなった空虚だった。そして、その期待は今いとも呆気なく弾けて消えてしまった。
胸の内にざわざわとした不快感が広がっていく。脳裏に現実が浮かび上がり、私の中で自分勝手に膨張して、汚い色を塗りたくっていく。
半狂乱になって頭を掻き毟りながら居間へ走った。すると何かに滑って転んでしまう。居間には数え切れないほどの白い靴下が広がって、もはや床を見ることは出来なかった。
私は靴下を抱えて顔を埋めて泣いた。目を閉じた暗闇の中に私の妄想を助長させた光景が無情に焼き付けられていく。それは恋人が私を張り飛ばした場面から何度も何度も繰り返し再生されるのだ。

私は性交渉が怖くて仕方なかった。

それはひどく汚らわしいように思えてしまった。白いものに囲まれて、偏執的なまでに汚れを排除して、自分を守っていた。それなのに、恋人は子供の存在を求めてきた。恋人だけでなく、家族や、親戚、果ては隣人にも、他人にも。そこに私の意思の入る隙はなかった。
恋人が愛想を尽かしてこの部屋から出ていく時に私に吐き捨てた台詞が私の耳の中で何度も何度も鼓膜を叩いている。

この精神異常者め。人間としてお前は失格だ。

耳を手で押さえるとその声は何度も脳を突き刺してくるような感覚がして、私はひたすら叫んだ。
私の妄想の中の彼にあまりに相反するその姿を私は殺してやりたくなった。

あなたは私に子供はいらないと言ったでしょう。
性交渉も求めなかったでしょう。

今目の前に本当の彼がいるなら、私はこの両手でその首を絞めてやりたい。あの言葉を訂正しろ、訂正しろ。私は異常じゃない。私は真っ当な人間だ。そう言いながら。
今それが出来ない手も、こうして狂ってしまった自分も、何もかもが憎らしい。
掌に食い込んだ長い爪が皮膚を貫通した。白い皮膚にどす黒い色の血が流れ出る。それが私のマタニティドレスと小さな白い靴下をなんの躊躇いもなく汚していく。

汚さないで。汚さないで。

混乱して暴れるごとに、意思に反比例して白が汚されていく。私は朝までもがき続けた。

目覚めると頭と喉から血が流れていた。夜にかきむしり続けたらしい。あたりを見回すと、ひどく汚らしかった。
クラッシック音楽を聴いていたラジカセはCDをセットする部分のプラスチックが破壊されていた。
ルイボスティーを飲んでいたティーカップは粉々に割れていた。
私の編んだ白い靴下は赤く染まっていて、私の白い皮膚は血塗れになっていた。
何もかもが汚れてしまった。守り続けてきた私の純潔は消えてしまった。
私は傍らにあった取り分け真っ赤な靴下を手に取って、それを口の中に詰め込んだ。それから手当たり次第に靴下を詰め込んでいく。
徐々に息ができなくなっていき、私は目を閉じた。
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