嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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七月

ワンダーフォーゲル部に関する諸問題 3

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「そういえばさ、なんか話があるって言ってなかったっけ」
「……うん」
「それって急ぎ? 付き添いまでして貰って悪いけど、部員と顧問に話しときたいんだけど」
 そう言う横峰の視線は、氷川が抱えている鞄に向いている。安くない料金を払って診断書を書いて貰ったのだから、きちんと状況を説明するつもりなのは分かっていた。しかし、それよりも前に横峰に話しておきたいことがある。
「ごめん、先に話、聞いてくれないかな」
「……分かった」
「うん。俺の部屋でいいかな」
「いいよ」
 了承してくれた横峰を連れて、自室に戻る。全館冷暖房のおかげで個室も快適な温度だ。来訪者に椅子を譲って、氷川はベッドに腰掛け、早々に話を切り出した。
「まず謝ることがあるんだ。横峰くんのその怪我は、俺がもっと早く踏み込んでたらしなくていいものだった。防げなくてごめんなさい」
 頭を下げる。これは事実だが、横峰は困ったように手を握ったり開いたりしていた。
「そんなの、たられば言ったって仕方ないじゃん。氷川くんのせいじゃない。むしろヒーローみたいなタイミングだったくらいで」
「いや、本当に俺のせいなんだ。ちょっと油断したって言うか……本当はもっと前から、あそこにいたんだよ。あの、横峰くんを呼びに来た前部長さんがちょっと、尋常じゃない雰囲気だったから追いかけて……盗み聞きした。本当にごめん」
 改めての謝罪の内容は、予想外だったのだろう。横峰は表情を消して、幾度か目をまたたいた。そして何かに気付いた風に、あ、と声を上げる。
「だから写真撮ってたのか……」
「ん、正確には動画。だから、ああなる前に突入できたのに、しなかった」
「どうして……ああ、いや。当たり前だよな、ただ話してるだけに聞こえれば、わざわざ掻き回したりしない。俺だってまさか引きずり倒されるなんて思わなかったし」
 苦い顔と表情で、横峰が患部をさする。診察の際に見えてしまったが、打ち付けたらしい膝はもちろん、踏みつけられていた太腿も鬱血の気配があった。明日には派手な痣になっているだろう。
「それで、話って言うのは? 怪我の報告より急ぐんだから、そんなことじゃないよね」
 氷川の謝罪を“そんなこと”と切り捨てて、横峰に本題を迫られる。頷いて、氷川は胸ポケットに入れたままのスマートフォンに触れた。ここに、証拠の一部がある。
「この間やめることにしたって言ってたけど、上手くいってないんだね」
 簡潔に、しかし直接的な表現を避けて、確認のために訊く。予想通りだったのだろう、横峰は特に表情を変えることもなく頷いた。
「やっぱり、それだよな。なら、聞いてた通り。俺がどう言っても、先輩達は納得しないだろうね」
「着服してた、って聞こえたけど」
「前にも言ったじゃん、水は低い所に流れる。人間も同じだって」
 ニュースでしか聞かないような単語にも動揺を見せず、横峰は静かに頷き、以前にも使った言葉で遠回しに肯定する。もしかすると、横峰はあの時点でそれに気付いていたのかもしれない。気付いていながら、部長としての範囲を逸脱した仕事まで引き受けていたのだとしたら、その心境は察するに余りある。
「言い方悪いけど、味を占めたって奴? またやれって言うために呼び出されたんだね」
「そう。メールとか電話とかは断ってたんだけど、教室まで来られたら、流石にね。……それでも俺が絶対に仲介しなかったら、先輩達で始めるだろうけど。でも、顧客リストも誓約書も、連絡に使ってたメールアドレスも俺の手元にあるから、簡単にはいかない。十中八九、渡せって言ってくる」
「……渡して、それで縁が切れるなら、そういう手もあるんじゃない?」
「他の部のことは知らないけど、ワンゲル部はOBとの交流が多いんだよ。合宿なんてOBの人数のが多いくらい。何かあったら、部の責任問題になる」
 あくまで醜聞を恐れる横峰に、自然と眉根が寄った。他者の目を気にしてばかりいる大人のような態度には、感情が伴っていない。部のこと、後輩のことを第一に考えているというなら、それは素晴らしいことではある。だがその結果として押し潰されるのが彼自身だとしたら、既に関わってしまった氷川の心情としては、納得しかねる。
「横峰くんは、どこに着地させたいの?」
 率直に、しかし話の流れからすると明後日の方向から切り込んだ氷川に、横峰は言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。追い打ちをかけるように、氷川は話を繋ぐ。
「やめたい気持ちがあって、先輩達はやめるなんて許さないと言ってるんだよね。春まで呼び出しに怯えて暮らすの? それとも諦めて屈するの」
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
 震える声は低く、苦い。激昂すらしないことが、横峰の苦悩や絶望を物語っているように感じる。そして、彼を、彼が望む形で助けることは、氷川には決してできない。
 氷川が関わらなければ、横峰は何事もなく任期を勤め上げただろう。良心を誤魔化しながら資金を調達して、インターハイで実績を残して、もしかしたら後輩には仕事を引き継がせずに自分の代で終わらせる工夫もしたかもしれない。だが、氷川が接触し、介入したせいで、その平穏な道は崩れてしまった。
 壊れてしまった物を元に戻すことはできない。よしんば可能だったとして、今回の場合は戻すべきではない。
 氷川は膝の上で拳を握り込んだ。普通の学生なら持たないコネクションを、氷川はひとつだけ持っている。それは迂遠で、これから先の行為を好意的に受け止められる保証もない、儚いものだが、利用できる可能性がある手札はそれしかなかった。
「あのね、もし着服が本当で、横峰くんがそれを強要されていたなら……俺は多分、横峰くんにできることがあるよ。でも、その為には君と、君の後輩が、とても悔しくて、大変な思いをしなきゃいけない。どうする?」
「どういう意味?」
「ワンゲル部を無傷で次代に渡すことはできないって意味だよ。それが嫌なら、君は今年度一杯を我慢して過ごすしかない。良心の呵責に耐えて、発覚に怯えて過ごすか、それとも一矢報いたいか……横峰くんの気持ちを聞かせてくれる?」
「どうして、そんなことを話さなきゃいけない」
 時間稼ぎのような問いに、氷川は全くその通りだと苦笑した。親しくもない部外者に、そこまで踏み込まれる謂われはないと考えるのは当然だ。少しだけ考えて、氷川はとても軽い調子で、無責任な表現を選んだ。
「乗りかかった船、ってところかな。誰かに話すと楽になることもあるって、知ってるよね。俺なら聞き役に適任だって思ってるから、以前も話したんでしょ」
 乗りかかった船か、と口の中で繰り返した横峰は、大きく息を吐くと額をてのひらで押さえた。
 かちりと、壁の時計の針が動く音が聞こえる。音につられて見遣った時計が十九時半を指していて、内心失敗したと思った。あと三十分で食堂が閉まってしまう。とはいえ、時刻に気付いたからと言って、この流れで中断して夕食を食べに行くことは出来ない。もう一度駅まで出れば、遅くまで営業しているスーパーも、二十四時間営業のコンビニもあるし、なんならばデリバリーを利用してもいい。出来合いの物で済ませようと決めた頃、横峰はようやく決心がついたのか、顔を上げた。目の前の人物が無関係なことを考えていたなんて想像もしないだろう、深刻な表情で、ゆっくりと話を始めた。
「先輩達には感謝もしてるんだ。外部生だった俺にも丁寧に教えてくれて、部長っていう大役を任せてくれた。競技登山の経験がなかった俺に、競技としての登山のノウハウを教えてくれたのは先輩達だ。だけど……何やってんだろうって思うんだよ。顧客の女性とメールでやりとりして、決まり事通達して金貰って部員紹介して、時々は俺がデートして。水商売じゃん。ホストと変わんないじゃん。あぶく銭で合宿やって、大会出て……女から巻き上げた金で山登ってるんだって、そう思うたびに、他校の奴らや審査員の人たちの目が怖くて」
 横峰の声は重く、暗い。真新しい情報など何一つないが、彼の心情がそのまま音になったようで、氷川まで胸が苦しくなるようだ。何も言えずにいる氷川を一瞥して、横峰が少しだけ表情を和らげた。今、自分がどんな顔をしているのか、氷川には分からない。
「合わせる顔がないって。登山って本当はさ、神聖な物なんだ。なのにそれを穢してるとしか思えなくて……苦しいって、思うこと自体がおこがましい気がして……通知が来るたびに、また呼ばれるんじゃないか、それとも、先生たちにバレたのかもって、怖くて」
「ずっと一人で抱えてて、苦しかったんだね」
 カウンセラーの真似事のように、それだけ言う。横峰は頷き、目を伏せた。
「本当は誰かに聞いて欲しかった。やめてもいいって、言って欲しかった。だから氷川くんが聞いて、そう言ってくれて、救われた気がしたんだ。気がした、だけだったのかな」
 涙の一筋すら流さずに、横峰は震える声で吐き出す。それがまるで慟哭のようで、胸が痛んだ。
 なあ、と、呼びかけながら横峰が顔を上げる。蛍光灯の安っぽい光の下で、潤んだ瞳がきらめいた。
「もうやめたいって言ったら、助けてくれんの。俺と同じ高校生でしかないおまえに、どうにかできんの」
 その問いには答えずに、氷川はスマートフォンを取り出した。今日は一日よく働いてくれた、小型ながら万能の機械だ。写真も撮れるし音声録音も動画撮影もできるし、正式な文書だって下書きくらいなら出来てしまう。高機能機器をかざして、氷川は首を傾げた。
「司法取引って、知ってる?」

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