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橘祐也
文化祭の前に 3:真夜中の練習
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文化祭実行委員会室で作業を進め、帰寮した後は早々に夕食、入浴、課題と予復習を済ませ、二十三時前に寮を抜け出した。夜雨の中、乏しい外灯を頼りに校舎の裏側を回り、特別教室棟の通用口を開く。綺麗に並べられた外靴に自分のものを加えて、夜中の校舎に足を踏み入れた。
通用口から音楽室は遠くない。扉のガラスから、廊下に光が漏れていた。警備員しかいないはずの校舎に、易々と侵入できてしまったことが不可解で、少し面白く、そして怖い。橘のことだから見つかっても叱られないように手を打っているだろうが、悪いことをしているスリルがあった。
暗い廊下を早足で抜け、ノックをしてから音楽室の扉を開く。途端にあふれる光の中には、昼間と同じ面子が顔を揃えていた。
「遅くなってごめん。お待たせしました」
音楽室の扉を閉めてから軽く頭を下げる。橘が壁を指差した。
「全然いいよ。真ん中に椅子と譜面台持ってきて。基本的に自分のセッティングは自分でやるほうがいいから」
「うん」
指示された通り、椅子と譜面台を置く。橘と倉本の間、戸田と棚橋の前だ。いわゆるスタジオなどでは正面に鏡があったりするが、学校の音楽室にはそこまで望めない。向かいにあるのは黒板だ。橘がギターを肩からかけたまま、ファイルを氷川に差し出した。
「はい、これ。決定の四曲のスコアと、できてる分の歌詞と、音源……CDね。デジタルデータのが良かったら今転送するけど」
「うん、それも貰えると助かるかな。テストって何歌えば良い? バラードがいいよね」
スマートフォンと携帯音楽プレイヤーをまとめて橘に預け、訊ねる。橘はちょっと笑って、首を傾げた。
「例のI Still Haven't Found What I'm Looking Forにする?」
「U2好きなのか」
橘が挙げた曲名は、路上で選曲に悩んでいる時に告げたものだ。その時の一回しか話題にしていないのに、覚えていたらしい。驚きを口にする前に、倉本が喜色を帯びた声で言う。だるそうな様子が一変して、背筋まで伸びて足が浮きそうだ。氷川は瞬きをして首肯した。
「好きだよ。倉本くんも?」
「ジ・エッジは天才だろ」
端的な形容に、溢れんばかりの愛情と敬意が滲む。その言葉には全く同意しか出来ないし、それに、こんな表情を見せる彼となら、楽しくやれそうだと、ようやく安心できた。
「うん。じゃあ、それで。アカペラ?」
「必要なら適当にバッキングしてやるけど」
「そうだな……戸田も分かるよな」
棚橋に尋ねられて、戸田がこくりと頷く。
「ハイハット刻んで。倉本はバッキングだって忘れんなよ。ボリューム絞って」
「オッケー」
「氷川のいいタイミングで始めてくれ。俺と橘は見てるから」
「……倉本くんは、見てなくていいの?」
「耳あるから平気。一緒にやったほうが見えやすいもんもあるし」
てきぱきと指示を出した棚橋と橘が、座っていた椅子を引っ張って向かい側に移動する。氷川は持ち込んだ水で喉を潤し、椅子に浅く腰掛けた。目を細めて、呼吸を整える。緊張に昂ぶった心臓を鎮めて、念のためスマートフォンに歌詞を表示した。
「じゃあ、お願いします」
そう告げると、戸田がカウントを刻んでから、シンバルでリズムを刻み始める。バスドラムもスネアも入れない、完全なメトロノーム。そこに倉本がリフを重ねる。どこで歌い出しても平気な、単調な繰り返し。氷川は空気で肺を満たした。
自分はボノではない。だからボノのようには歌えない。自分の声で、自分の歌で、偉大なる先人の信仰をなぞる。自意識が、歌詞と音の狭間に溶け出す。橘のそれとは異なる、甘やかで硬質なギターの音色。ハイハットの音に、ごく自然に手拍子が重なる。
――僕はまだ、探し物を見つけられていない。旅の途上。長い旅の途上で、まだ。
拍手が響いて、氷川はぱちりとまばたきをした。曖昧だった世界が輪郭を取り戻す。意識と身体の焦点が合うと、橘と棚橋が近付いてくるのに気付いた。スティックを置いた戸田が、まろぶような足取りで腕にぶつかってくる。右側を見ると、倉本がピックを弦に挟んで、ゆっくりとギターを降ろした。スタンドにギターを立てて、それから大きく息を吐く。うなだれるように伏せた背中のラインが綺麗だなと、上の空で考えた。ぴたりとしたカットソーの下で、腹筋と背筋が震える。
「どこが大丈夫じゃねえって? どこが?」
「どうだった、倉本くん」
橘が自信に満ちた声で訊ねる。倉本が上体を伏せたまま、端的に答える。
「いける」
「棚橋くんはどう?」
「これで無理なら誰にも無理だわ」
棚橋が氷川の頭に手を置いた。驚いて顔を上げると、彼は目を細めた。
「あとは自信があれば言うこと無しだろ。いけると思い込めば絶対いける」
ええと、と、交わされる言葉の理解を拒絶した脳が場つなぎのように音を発させる。棚橋が犬にするような乱雑さで氷川の髪を掻き回した。
「バラードやるって言ってるの」
「おまえB組のくせに頭悪いの?」
疲れた声で倉本が暴言を吐く。戸田が棚橋の手を払って、乱れた髪を整えた。視線だけで窺うと、彼は満面の笑みで僅かに首を傾げた。大丈夫だって言ったでしょう、そんな声が聞こえそうな表情だ。
「えと、本当に? 興醒めしない?」
「しない」
「するわけないよ」
倉本と棚橋のお墨付きをもらって、橘が自分のことのように自慢げに微笑んだ。そして訊ねる。
「よし。じゃあ、どっちやる?」
「二曲目。ちょっと壮大な感じするやつ」
倉本が即答した。戸田が眉をひそめる。
「僕は一曲目のが好きだな」
「五曲中の一曲だし、場所は体育館だぞ。ある程度勢いがねえと雰囲気を持ち直せない。あー、つまり、余韻が必要なもんじゃなくてって意味で」
「そうだね、出順次第だけどメニューの真ん中あたりに置くなら、空気を変えやすいほうがいいから」
棚橋の言葉を補うように、橘がとりなす風に言う。確かにそうだと納得して、じゃあそれにしようと話がまとまった。曲名が決まっていないので、アップテンポの、シャッフルの、ミドルテンポ一と三、バラード、というとても大雑把な呼び方で内容を確認して、橘が全員に資料を渡すと、ひとまず個人練習になった。
ヘッドフォンを着けた戸田が、リズムパターンやフレーズを身体に入れるようにスティックとペダルを操る。それぞれ椅子に座った弦楽器はリフやコードをなぞり、棚橋や倉本が時に橘に確認しに行く。彼らから少し離れた位置で、氷川はイヤホンを耳に装着して、受け取った音源を再生した。スコアを見ながら、ボーカルのメロディをなぞる。歌詞のあるほうは少し低く、歌詞のないほうはやや高い。自分の音域を確かめようと、氷川はピアノの前に移動した。
「ちょっと発声していい?」
「大丈夫」
「見てていい?」
「うん」
ギターを降ろした橘が近付いてくる。それを意識の隅で感じながら、鍵の掛かっていない鍵盤の蓋を開いた。単純にオクターブをなぞって調律が狂っていないことを確かめてから、喉を開いた。
キーを叩いて、音を取る。C3は出ない。F3から、A4までは出る。C5どころかH4もきつくて掠れた。一オクターブ半しか出ないなんてと、喉を押さえて息を吐く。そして、隣に立って真剣な表情で見つめてくる橘の視線から逃れるように、顔を伏せた。
「ごめん、上も下も出ないみたい。練習すればもうちょっと出せるけど、一週間じゃ無理だと思う。メロディライン変えたら楽器のコードも変わるよね、先に調整して貰ってもいいかな」
「変わるのは単純なバッキングの部分だけだから、気にしなくていいよ。えっと、出ないのどこ?」
どこに仕舞っていたのかシャープペンシルを出して、橘が広げたスコアを覗き込む。グランドピアノを書き物台にする大胆さに驚きながら、一緒に譜面を覗き込んだ。
「下がF3、上がA4までは普通に出る。緊張すると喉が狭くなるし、それくらいに納めてくれると安心だけど……」
「A4が普通に出るのは凄いね。下がF3か……E3までは出ない?」
橘がキーを叩く。中央から一オクターブ低いミの音は、低音の男性ならばごく普通に出るだろうが、氷川には少し厳しい。
「ちょっと掠れる、かな」
「そっか……練習してないとそんなもんだよな……わかった、調整する」
橘の声音に失望が混じった気がして、更に深く頭を垂れた。ごめんねと、小さく呟く。橘が小さく吐息をこぼして、氷川の頭をそっと撫でた。
「気にしないでよ。音域が広いとか狭いとか、そんなの一緒にやりたいかどうかに関係ないし。そりゃ広いに越したことないけど、三オクターブ出たって好みじゃない声の人とはやりたくないから」
「う、ん。ありがとう」
慰める言葉に、少し気分が浮上する。我ながら単純だが、肯定されるのはくすぐったくて嬉しい。橘が腕を引いて、作業を再開した。ペンを手に譜面に印を付けていく。
「調整するからちょっと待ってね。歌詞も日曜日までには仕上げるから……あ、そうだ。氷川くん、歌詞書いてみる?」
橘が手を止めて氷川を覗き込む。氷川はえ、と間抜けな声を漏らして橘を見返した。彼はやはり機嫌良さそうに微笑んで、首を傾げた。
「歌詞なんて、書いたことないよ」
「誰だって、最初は書いたことないよ。俺だって最初から曲や歌詞を書けたわけじゃない。重要なのはやりたいかどうかだよ」
真剣な声で説かれて、氷川は指されたように胸を押さえた。心臓が常よりも少し早く鼓動を刻んでいる。やりたいかどうか。そんなこと、考えたことすらない。橘が目を細めた。
「気が進まないなら、今回は俺が書くけど。考えておいてね」
「何を?」
「色々」
曖昧に濁して、橘がピアノから離れる。氷川は首を傾げてから、嘆息してピアノに向き直った。ひとまず、今日は発声だけやっておこう。明日から腹筋も再開しようかと考えながら、キーを叩いた。
通用口から音楽室は遠くない。扉のガラスから、廊下に光が漏れていた。警備員しかいないはずの校舎に、易々と侵入できてしまったことが不可解で、少し面白く、そして怖い。橘のことだから見つかっても叱られないように手を打っているだろうが、悪いことをしているスリルがあった。
暗い廊下を早足で抜け、ノックをしてから音楽室の扉を開く。途端にあふれる光の中には、昼間と同じ面子が顔を揃えていた。
「遅くなってごめん。お待たせしました」
音楽室の扉を閉めてから軽く頭を下げる。橘が壁を指差した。
「全然いいよ。真ん中に椅子と譜面台持ってきて。基本的に自分のセッティングは自分でやるほうがいいから」
「うん」
指示された通り、椅子と譜面台を置く。橘と倉本の間、戸田と棚橋の前だ。いわゆるスタジオなどでは正面に鏡があったりするが、学校の音楽室にはそこまで望めない。向かいにあるのは黒板だ。橘がギターを肩からかけたまま、ファイルを氷川に差し出した。
「はい、これ。決定の四曲のスコアと、できてる分の歌詞と、音源……CDね。デジタルデータのが良かったら今転送するけど」
「うん、それも貰えると助かるかな。テストって何歌えば良い? バラードがいいよね」
スマートフォンと携帯音楽プレイヤーをまとめて橘に預け、訊ねる。橘はちょっと笑って、首を傾げた。
「例のI Still Haven't Found What I'm Looking Forにする?」
「U2好きなのか」
橘が挙げた曲名は、路上で選曲に悩んでいる時に告げたものだ。その時の一回しか話題にしていないのに、覚えていたらしい。驚きを口にする前に、倉本が喜色を帯びた声で言う。だるそうな様子が一変して、背筋まで伸びて足が浮きそうだ。氷川は瞬きをして首肯した。
「好きだよ。倉本くんも?」
「ジ・エッジは天才だろ」
端的な形容に、溢れんばかりの愛情と敬意が滲む。その言葉には全く同意しか出来ないし、それに、こんな表情を見せる彼となら、楽しくやれそうだと、ようやく安心できた。
「うん。じゃあ、それで。アカペラ?」
「必要なら適当にバッキングしてやるけど」
「そうだな……戸田も分かるよな」
棚橋に尋ねられて、戸田がこくりと頷く。
「ハイハット刻んで。倉本はバッキングだって忘れんなよ。ボリューム絞って」
「オッケー」
「氷川のいいタイミングで始めてくれ。俺と橘は見てるから」
「……倉本くんは、見てなくていいの?」
「耳あるから平気。一緒にやったほうが見えやすいもんもあるし」
てきぱきと指示を出した棚橋と橘が、座っていた椅子を引っ張って向かい側に移動する。氷川は持ち込んだ水で喉を潤し、椅子に浅く腰掛けた。目を細めて、呼吸を整える。緊張に昂ぶった心臓を鎮めて、念のためスマートフォンに歌詞を表示した。
「じゃあ、お願いします」
そう告げると、戸田がカウントを刻んでから、シンバルでリズムを刻み始める。バスドラムもスネアも入れない、完全なメトロノーム。そこに倉本がリフを重ねる。どこで歌い出しても平気な、単調な繰り返し。氷川は空気で肺を満たした。
自分はボノではない。だからボノのようには歌えない。自分の声で、自分の歌で、偉大なる先人の信仰をなぞる。自意識が、歌詞と音の狭間に溶け出す。橘のそれとは異なる、甘やかで硬質なギターの音色。ハイハットの音に、ごく自然に手拍子が重なる。
――僕はまだ、探し物を見つけられていない。旅の途上。長い旅の途上で、まだ。
拍手が響いて、氷川はぱちりとまばたきをした。曖昧だった世界が輪郭を取り戻す。意識と身体の焦点が合うと、橘と棚橋が近付いてくるのに気付いた。スティックを置いた戸田が、まろぶような足取りで腕にぶつかってくる。右側を見ると、倉本がピックを弦に挟んで、ゆっくりとギターを降ろした。スタンドにギターを立てて、それから大きく息を吐く。うなだれるように伏せた背中のラインが綺麗だなと、上の空で考えた。ぴたりとしたカットソーの下で、腹筋と背筋が震える。
「どこが大丈夫じゃねえって? どこが?」
「どうだった、倉本くん」
橘が自信に満ちた声で訊ねる。倉本が上体を伏せたまま、端的に答える。
「いける」
「棚橋くんはどう?」
「これで無理なら誰にも無理だわ」
棚橋が氷川の頭に手を置いた。驚いて顔を上げると、彼は目を細めた。
「あとは自信があれば言うこと無しだろ。いけると思い込めば絶対いける」
ええと、と、交わされる言葉の理解を拒絶した脳が場つなぎのように音を発させる。棚橋が犬にするような乱雑さで氷川の髪を掻き回した。
「バラードやるって言ってるの」
「おまえB組のくせに頭悪いの?」
疲れた声で倉本が暴言を吐く。戸田が棚橋の手を払って、乱れた髪を整えた。視線だけで窺うと、彼は満面の笑みで僅かに首を傾げた。大丈夫だって言ったでしょう、そんな声が聞こえそうな表情だ。
「えと、本当に? 興醒めしない?」
「しない」
「するわけないよ」
倉本と棚橋のお墨付きをもらって、橘が自分のことのように自慢げに微笑んだ。そして訊ねる。
「よし。じゃあ、どっちやる?」
「二曲目。ちょっと壮大な感じするやつ」
倉本が即答した。戸田が眉をひそめる。
「僕は一曲目のが好きだな」
「五曲中の一曲だし、場所は体育館だぞ。ある程度勢いがねえと雰囲気を持ち直せない。あー、つまり、余韻が必要なもんじゃなくてって意味で」
「そうだね、出順次第だけどメニューの真ん中あたりに置くなら、空気を変えやすいほうがいいから」
棚橋の言葉を補うように、橘がとりなす風に言う。確かにそうだと納得して、じゃあそれにしようと話がまとまった。曲名が決まっていないので、アップテンポの、シャッフルの、ミドルテンポ一と三、バラード、というとても大雑把な呼び方で内容を確認して、橘が全員に資料を渡すと、ひとまず個人練習になった。
ヘッドフォンを着けた戸田が、リズムパターンやフレーズを身体に入れるようにスティックとペダルを操る。それぞれ椅子に座った弦楽器はリフやコードをなぞり、棚橋や倉本が時に橘に確認しに行く。彼らから少し離れた位置で、氷川はイヤホンを耳に装着して、受け取った音源を再生した。スコアを見ながら、ボーカルのメロディをなぞる。歌詞のあるほうは少し低く、歌詞のないほうはやや高い。自分の音域を確かめようと、氷川はピアノの前に移動した。
「ちょっと発声していい?」
「大丈夫」
「見てていい?」
「うん」
ギターを降ろした橘が近付いてくる。それを意識の隅で感じながら、鍵の掛かっていない鍵盤の蓋を開いた。単純にオクターブをなぞって調律が狂っていないことを確かめてから、喉を開いた。
キーを叩いて、音を取る。C3は出ない。F3から、A4までは出る。C5どころかH4もきつくて掠れた。一オクターブ半しか出ないなんてと、喉を押さえて息を吐く。そして、隣に立って真剣な表情で見つめてくる橘の視線から逃れるように、顔を伏せた。
「ごめん、上も下も出ないみたい。練習すればもうちょっと出せるけど、一週間じゃ無理だと思う。メロディライン変えたら楽器のコードも変わるよね、先に調整して貰ってもいいかな」
「変わるのは単純なバッキングの部分だけだから、気にしなくていいよ。えっと、出ないのどこ?」
どこに仕舞っていたのかシャープペンシルを出して、橘が広げたスコアを覗き込む。グランドピアノを書き物台にする大胆さに驚きながら、一緒に譜面を覗き込んだ。
「下がF3、上がA4までは普通に出る。緊張すると喉が狭くなるし、それくらいに納めてくれると安心だけど……」
「A4が普通に出るのは凄いね。下がF3か……E3までは出ない?」
橘がキーを叩く。中央から一オクターブ低いミの音は、低音の男性ならばごく普通に出るだろうが、氷川には少し厳しい。
「ちょっと掠れる、かな」
「そっか……練習してないとそんなもんだよな……わかった、調整する」
橘の声音に失望が混じった気がして、更に深く頭を垂れた。ごめんねと、小さく呟く。橘が小さく吐息をこぼして、氷川の頭をそっと撫でた。
「気にしないでよ。音域が広いとか狭いとか、そんなの一緒にやりたいかどうかに関係ないし。そりゃ広いに越したことないけど、三オクターブ出たって好みじゃない声の人とはやりたくないから」
「う、ん。ありがとう」
慰める言葉に、少し気分が浮上する。我ながら単純だが、肯定されるのはくすぐったくて嬉しい。橘が腕を引いて、作業を再開した。ペンを手に譜面に印を付けていく。
「調整するからちょっと待ってね。歌詞も日曜日までには仕上げるから……あ、そうだ。氷川くん、歌詞書いてみる?」
橘が手を止めて氷川を覗き込む。氷川はえ、と間抜けな声を漏らして橘を見返した。彼はやはり機嫌良さそうに微笑んで、首を傾げた。
「歌詞なんて、書いたことないよ」
「誰だって、最初は書いたことないよ。俺だって最初から曲や歌詞を書けたわけじゃない。重要なのはやりたいかどうかだよ」
真剣な声で説かれて、氷川は指されたように胸を押さえた。心臓が常よりも少し早く鼓動を刻んでいる。やりたいかどうか。そんなこと、考えたことすらない。橘が目を細めた。
「気が進まないなら、今回は俺が書くけど。考えておいてね」
「何を?」
「色々」
曖昧に濁して、橘がピアノから離れる。氷川は首を傾げてから、嘆息してピアノに向き直った。ひとまず、今日は発声だけやっておこう。明日から腹筋も再開しようかと考えながら、キーを叩いた。
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