中町通りのアトリエ書房 水彩絵師と不器用小説家、世話焼き白うさぎ

橘花やよい

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1巻

1-1

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 ながまつもと市、なかまち通り。
 うさぎしょぼうには、筆を折った絵描きと、世話焼きの白うさぎがいる。




   序章 乾いた絵の具


さんならご存じでしょうけれど、久しぶりですから、念のため」

 甘く響く低い声に、ぐも絵莉は白うさぎをじっと見つめた。
 普通、うさぎは鳴かない。でも、このうさぎは鳴く。
 というか、しゃべる。美声で。
 鼻がひくひく動いているし、声に合わせて口も動く。
 ――うさぎって、声帯ないはずなんだけどなあ。

「一階が本屋、二階が図書室、三階が居住場所です。絵莉さんが任されるのは、二階の図書室ですね。……聞いていますか?」
「うんうん、聞いてる。よいしょっと」

 三階の指定された部屋に段ボール箱をおろす。こじんまりした畳の小部屋には、ちゃぶ台とたん、それから段ボール箱があるばかり。
 絵莉の足もとに寄り添うのは、白うさぎだ。真っ白な毛並みは雪のようにきれいで、瞳は夜空の色。おしりのふっくら丸いフォルムは、これぞうさぎ、というすばらしい造形だった。
 名前は、おゆきさん。
 かわいい名前だけど、声を聞いてわかる通り、男の子。

「この部屋は、本の匂いがするね」
「ふむ。下にある本屋や図書室から、本の匂いがただよってきているのでしょう」
「うーん……、よその家の匂いだな。わたしには、こっちのほうがいいかも」

 段ボール箱の封を破り、パレットを取り出した。二面パレットを開くと、色相環の順番――虹を描くような色順に出された水彩絵の具が、固まって並んでいる。赤、だいだい、黄色、緑、青、茶、紫……、色とりどりに並べられたパレットからただようのは、本よりも身体に馴染なじんだ絵の具の香り。
 いまはすこし、ぴりりと胸を刺す香りでもある。
 ちゃぶ台にもたれた絵莉に、お雪さんがため息をついた。

「まったく。早々に、だらだらするんですから」
「さっきまで引っ越し作業がんばってたでしょ。ていうか、長野って寒いね」
「そうですよ。寝るなら、ふとんにお入りなさい。風邪をひきます」
「お母さんみたい。……お雪さんおいで」

 手招きすると、お雪さんは「やれやれ」と妙に人間じみた仕草であきれて、絵莉の差し出した手の下で身体を丸めた。もふもふの背をなでながら目を閉じる。

「絵莉さん、最近絵を描きましたか?」
「……なんで?」
「絵の具が、しばらく使われていない匂いです」
「んー……、そっか。うん、そうだね。描いてない」

 一度まぶたを開けて、再び目を閉じる。

「描けなくなった」

 絵莉は都内の美大を卒業して入ったデザイン会社を、この冬やめた。
 アパートも解約して、親戚が営むこの兎ノ書房に転がり込んできたのだ。


 絵莉が筆を折ったきっかけは、三つある。
 絵が好きで美大に進学してみたものの、まわりの人間の才能に圧倒された。それまでは、自分には美術の才能があると思っていたのだ。でも、世の中には自分より秀でた人間なんていくらでもいると知った。
 美大は、どうにか卒業まで踏ん張った。
 でもそこからも、うまくいかなかった。
 デザイン会社に就職してからは、今度は度重なる先方からのリテイクに頭を抱えた。必死で考えたデザインが合格をもらえない。じゃあどう直しましょうかと希望を聞いてみても、それはデザイナーのあなたが考えることだろうと言われる。また死ぬほど考えて提案する。そうじゃない、と言われる。
 ――わたし、なんのためにここにいるんだろう。
 もっと描きたいものがあったはずなのに。これは、本当に自分が描きたかったものだろうか。毎日、駄目出しされる夢ばかりを見た。そうやって、ふたつの心労が積み重なっていたところに、極めつきのひと言が投じられたのだ。

『AIに頼んだほうが、楽だし安い』

 絵莉は学生時代から、小説の表紙を描く仕事をしていた。とはいえ、あくまでお小遣い程度だ。商業出版物ではなく、アマチュア作家からの依頼ばかり。
 いまやインターネットを通じてだれでも小説を発表できる時代で、小説を投稿するための専用サイトだってたくさんある。デビューしたい作家のたまごや、趣味で執筆している書き手が日々活動していた。
 そういった投稿サイトには表紙をつけられる機能もあって、絵描きに依頼して描いてもらうひとたちがいるのだ。
 絵莉は、そういった書き手からの依頼を受けて、表紙絵――いわゆる装画の作成を行っていた。
 幼いころから本が好きで、表紙を描きたいと思っていた。美大に進んだのも、いつか商業出版物の表紙を描きたかったからだ。
 アマチュア作家からの依頼とはいえ、夢が叶ってうれしかった。彼らは真剣に活動しているし、絵莉だってお金をもらって描いているわけだから、一枚一枚全力で向き合ってきた。おかげで何度も依頼してくれるひとだっていたし、納品すれば喜んでもらえた。
 けれど、ひとりの依頼者に、その言葉を投げられたのだ。
 AIのほうがいい、と。
 いまのAIは、すごいと思う。イラストを学習して、あっという間に一枚の絵を完成させてしまう。無料でできるサイトもあるし、完成度も高い。
 依頼者はその言葉以降、自作小説にAIで作成した絵を飾っているようだった。
 そのうえ、絵莉の絵をAIに学習させたらしい。作成された絵が、自分の絵柄とずいぶん似ていて戸惑った。
 といっても、学習させたというたしかな証拠があるわけでもない。そんな状況で抗議して相手と衝突するだけの気力も、絵莉にはもうなかった。
 AIの技術はすごい。
 でも、わたしは機械に負けたのかな、と情けなくなる。
 絵莉は何時間もかけて画材や小説と向き合って、装画を描いてきた。それなのに、機械が一瞬で絵を生成してしまう。わたし必要ないじゃん、と思ってしまった。
 描くのが、楽しくなくなった。
 全部、放り出したくなった。
 そうして実際に放り出して、長野に引っ越してきた。


「絵莉さん、起きてください。朝ですよ」

 甘い低音の声に、目を開く。
 薄目で見る部屋に「どこだ、ここ」と戸惑った。昨日のうちにすっかり段ボール箱を片づけた部屋は、ああ、そうだ、長野の親戚の家だっけ。

「まったく。お寝坊さんですね。今日から店の手伝いをするんでしょう」

 ふわふわしたうさぎの脚にひたいを突かれて、絵莉は枕に顔をうずめた。

「……お雪さん。その声で起こされると、変な気分になるから、やめて」
「せっかく来てあげたのに、文句ですか?」
「だって、無駄に美声なんだもん」

 ずいっと視界いっぱいに迫ってくる白い毛玉を抱きあげて、部屋を出る。
 こたつの置かれた居間では、いとこのあやが朝食を準備していた。

「おはよ、絵莉。どう、お雪さんに起こされる気分は」

 いたずらっぽく笑う彩乃は、三十代のあねはだな女性だ。頭の高い位置で結んだポニーテールが楽しげに揺れている。ぱきりとした色合いが似合うひとだった。

「美声の彼氏いたっけ、っていい気分になるけど、直後に現実を思い出して泣きたくなる。うさぎじゃん、って」
「あはは。でしょー」

 はい、と茶碗を渡されて、炊飯器からご飯を盛る。つぎにみそ汁。ちゃぶ台の上には、すでに玉子焼きが載っていた。

「うさぎではいけませんか?」

 すこし不服そうなお雪さんの声に、ふたりで笑った。

「さて! 地味な朝食ですみませんが、どうぞー」
「いやいや、豪華だよ。わたしなんて毎日トースト一枚だったもん。朝からすごいね、彩乃さん」
「ありがと。夜ご飯は絵莉の担当だからね」
「はーい」

 彩乃と向かい合ってこたつに入る。あったかい。
 お雪さんもテーブルにとんっと乗った。彩乃が、お雪さん用の小さなおにぎりが盛られた皿を差し出す。

「いただきます」

 長野県松本市、中町通り。ぜんこうかいどう沿いにある商店街だ。
 松本駅から松本城に向かう間の道にあるため、観光で訪れるひとも多い。蔵のある街、と言われているくらいで、白壁の蔵造りの建物が並ぶレトロな通りだった。
 兎ノ書房は、その一角にある小さな本屋。
 数年前までは祖父母が営んでいたが、ふたりが他界してからはいとこの彩乃が継いでいる。一階は本屋。二階は地域のひとびとから寄贈された本や祖父母が収集していた本を並べて、私設の図書室として開放している。

「絵莉には二階の図書室をお願いするね。まあ、ほとんど仕事なんてないから、気楽にしてて」

 朝食が終わると、さっそく仕事に駆り出された。
 祖父母の他界後、店は彩乃がひとりで切り盛りしていた。一階の本屋はレジ打ちや品出しなど仕事があるけれど、二階はそれほど利用者もいないから、どうにか彩乃だけで回せていたらしい。
 中町通りらしい蔵造りの外観をした兎ノ書房の図書室は、畳の部屋だった。靴を脱いであがると、ちゃぶ台が四つと、壁際には本棚。
 並べられた本は児童書が多い。
 だから利用者も子どもが多かった。平日の昼間なんて、子どもは学校に行っているわけだから、暇になって当然。
 貸出方法を彩乃に教えられたが、発揮する機会はなかなかない。
 棚の整理だとか、新しく寄贈された本の選別だとかをしてみたけれど、二日で仕事に慣れ、一週間もすれば悟りが開けそうになった。

「暇そうですね、絵莉さん」
「まあ、ほとんどボランティアみたいなものだからね。彩乃さんも、わたしに仕事は期待してないだろうし」

 ちゃぶ台の前に座っていると、膝の上にお雪さんが乗ってきた。
 その真っ白な背中をなでてやる。
 窓の外に広がる街並みは、白い冬の気配に染まりつつあった。

「夏に仕事やめるべきだったなあ。長野寒い」
「風邪をひかないように、わたしがあたためてあげますよ」
「ああ、いいね。うさぎカイロだ」

 高い高いするように、お雪さんを抱きあげる。うさぎは丸いフォルムの印象があるけれど、意外と身体が長い。みょーんと伸びる。
 真っ白なお雪さんは、なキャンバスを思わせた。

「ときに絵莉さん」
「ん、なに?」

 ふいに真面目な雰囲気をまとうお雪さんに、首をかしげる。

「東京にいる間、恋人なんていませんでしたよね?」
「へ?」

 突然、なんだ。

「昨日、彩乃さんと話していたのです。絵莉さんに恋人がいたのか否か」
「……なに話してるの」

 顔がひきつる。親戚と会ったときに、されたくない話トップスリーには入る質問をされてしまった。

「いないけど、それがなにか?」

 きらっとお雪さんの黒い瞳が輝く。

「ああ、よかったです! 絵莉さんに恋人なんてまだ早いですからね!」

 膝の上に乗せると、お雪さんは頬ずりをしてきた。
 そういえばこのうさぎ、絵莉と彩乃にはとことん過保護でおせっかいだったような気がする。

「わたしのかわいい絵莉さんは、そんじょそこらの男には渡しません」

 目を閉じれば、美声なイケメンに心ときめくことを言われているとドキドキできるのだけど、現実はその台詞せりふを発しているのが白うさぎだ。なんだかむなしい。
 と、そのとき階段をだれかがのぼってくる音がして、絵莉は姿勢を正した。

「こんにちは。いらっしゃい」

 現れた少年に、微笑ほほえみかける。一応、この図書室を任されているのだから、愛想よくしておかなければ。
 少年は返事をしないで本棚に向かっていった。お雪さんが、ととと、と駆けよると、小さな手が白うさぎの頭をなでる。ほんのすこし少年の口もとが弧を描いた。
 お雪さんはいつも積極的に来訪者にすり寄っていく。かわいさをふりまくサービスなのだそうだ。事実、兎ノ書房のひとなつっこいうさぎは客から愛されているし、集客にもなっているらしい。
 そんなことを思いながら、絵莉は少年の様子をうかがう。
 小学校低学年くらい、小柄だから幼稚園児にも見える。外が寒かったようで、鼻の頭が赤く色づいていた。いつも着ている上着のフードは、うさぎ耳つき。
 図書室を任されてから一週間。
 絵莉はこの物静かな少年とほとんど毎日、何時間も顔を合わせていた。
 うさぎと本と、絵莉と少年。
 なんとなく定番化してきた光景だ。



   第一章 無口な少年と、桜色


 少年は、相良さがらとわ、という名前だそうだ。
 この図書室を一番多く利用している子どもだと、絵莉は自信を持って言える。無口な子で、絵莉があいさつをしても返されたことはない。もっと話しかけてみたいような気もするけれど、きっかけがつかめずにいた。
 だって子どもとの接し方なんて、わからないし……
 あと訳ありっぽい空気を感じて、近づきにくい。なにせとわは、平日の昼間からずっとひとりで図書室にいるのだ。なにかしら事情があるのはたしかだろう。
 ――あれ、めずらしい。利用者さん、追加だ。
 それからすこしして、べつの男性がやってきたため、絵莉は目を丸くした。コートとマフラーを脇に抱える男性の姿に、寒いからなあと思いながら「こんにちは」と声をかける。とわ以外の利用者はレアだった。
 絵莉と同じ年ごろの男性だ。短めの黒髪に、黒いフレームの眼鏡をかけている。服は黒一色で色彩に欠けるものの、スマートなよそおいだ。
 そして美形。塩顔イケメンだった。
 薄い唇は真一文字に引き絞られていて仏頂面にも見えるが、彼は丁寧に頭をさげてから、とわのとなりに座った。ふたりでちゃぶ台の上にノートやタブレットを広げる。
 言葉はないけれど、険悪ではなさそうだ。
 親子、かな……? あんまり似ていないけど。

「絵莉、ちょっと来て。本棚の整理、手伝ってくれない?」

 階段からひょっこりと彩乃が顔を出す。

「はーい」

 一階は板張りで、本棚がずらりと並んでいる。さして広くもない店内だけれど、みつのような色のランプはあたたかくて、ゆっくりくつろぎたくなる雰囲気に包まれている。
 本棚のあちこちに、彩乃お手製ポップで本の紹介がされているのも、すてきだ。彩乃はセンスがいい。店内の雰囲気を壊すことなく溶け込むように、しかしきちんと目立って本のよさを伝えるポップに仕上がっていた。
 客の姿がないことを確認して、こそっと彩乃に問いかける。

「ねえ、彩乃さん。二階にいるひとたちって」
「とわくんと、いっしきさん?」

 あの男性は一色というらしい。

「あのふたり、親子?」
「いや、友だち。仲いいよ」
「友だち……、へえ……」
「なに? 変な声出して」
「いや、かなり年の離れた友だちだなあと思って」

 彩乃は「変な顔」と絵莉の鼻をつまんだ。ぺしっとその手を払って、せっかくだからと、つづけていてみる。

「とわくんってさ、毎日来るよね」
「うん。ありがたい利用者さんだよ。とわくんいなかったら、あそこ、平日の昼なんてほぼ無人だからね。もっと利用者さんが増えてくれればうれしいんだけどさ。そしたら、ついでに一階で本買ってくれるかもだし」

 二階の図書室はあくまでついで、本業は一階の本屋ということらしい。彩乃にとっては生活がかかっている商売なのだから、当然だろう。
 というか、話がずれてきている。
 せっかくだから訊きたいと思ったのは、そういう話ではない。
 絵莉は身を乗り出して、声をひそめる。

「あのさ。とわくんは学校に――」
「絵莉だって、昼間からぶらぶらしてるでしょ」

 学校に行かなくてもいいのかな。そう言おうとした絵莉の鼻を、ふたたび彩乃がむぎゅっとつまんだ。まさしく出鼻をくじかれて、絵莉はうめき声をあげる。
 彩乃の瞳に、一瞬真剣な色がともった。

「あんたたち、似た者同士よ。とやかく言う資格は、絵莉にはないよね。余計な詮索しないの」

 絵莉がぐっと口を結ぶと、彩乃の表情に笑顔がもどった。

「とわくんのことは、保護者からも頼まれてるよ。二階が気に入ってるみたいだからよろしく、ってね。心配しなくてよし」
「ひとには、いろいろと事情があるのですよ」

 ととと、とお雪さんが階段をおりてきた。多少声をひそめているのは、二階の彼らを気にしているのだろう。お雪さんは身内以外を前にしたとき、普通のうさぎをよそおうから。

「絵莉さんだって、『あのひと無職なんだってー』といった具合に、じろじろ見られたくはないでしょう」
「それは……、そうだね。心にくるわ」
「ですから、とわくんのことも、あまり気にしないことです」

 自分は気にしすぎていたのだろうか。
 詮索されたくないことは、だれにだってあるだろう。
 ……うん、そうかもしれない。
 二階はだれでも自由に過ごせる場所だ。絵莉はあの空気が好きだった。だから、とわが毎日いようと構わないし、自分は迎え入れるだけでいい。そういうことなのだろう。絵莉が詮索することで、とわが来づらくなってはいけない気がした。

「わかった。もっとウェルカムな感じでいく」
「そうそう。両手広げて、おいでーってしてあげればいいの」

 彩乃が笑って背中をたたいてくる。

「さーて、そろそろ働いてくださーい!」
「ちょっ、痛いって、彩乃さん」
「では、わたしも働くとしましょうかね」
「え、お雪さんも?」

 絵莉が首をかしげたとき、新しい客が訪れた。松本城にでも行っていた旅行客だろうか。大きな荷物を持ったご夫婦が、お雪さんを見てぱっと笑顔になる。

「あら、かわいいうさぎさん」
「いらっしゃいませー。うちの看板うさぎです。どうぞお好きになでまわしていってくださいね」

 慣れたように言う彩乃の頭で、ポニーテールが楽しそうに揺れた。
 ひとしきりご夫婦にかわいがられたあと、お雪さんは絵莉のもとにもどってきた。
 本棚を整理しながら小声でささやく。

「お雪さんって、お客さんが来ると、すぐ気づくよね」
「うさぎですから、耳はいいのです。よく耳を澄ませば、セールスチャンスをのがさずにすみます。うさぎは便利ですよ」
「セールスチャンスを気にするうさぎは、お雪さんくらいだよ」

 ご夫婦は本を一冊購入して帰っていった。お雪さんのサービスのおかげかもしれない。さすがだ。

「……でも耳を澄ましているとさ、嫌なことも聞こえない?」

 本棚を整理する手を止めないまま、絵莉が言う。

「そういうときは、耳をふさぐのです」

 お雪さんは、前脚で耳をふさいでみせた。ファンシーな仕草だけれど、つづく言葉はなかなかにかわいくない。

「自衛も大切ですよ。生きていくうえではね」
「自衛とか言ううさぎも、お雪さんくらいだね」

 とわと一色は、閉店間際まで二階で過ごしていた。ふたりしておじぎだけをして、物静かに帰っていく。絵莉も「またどうぞ」と頭をさげ、ふたりの背中を見つめた。
 去り際目が合った一色は、やはり不機嫌にも見えるけれど、きれいな夜色の瞳をしていた。このひとは悪いひとじゃないな、と思わせられる色だ。
 それになにより。

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