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第四章 ヨミ、癒しの姉を抱きしめたい

(三)

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「ヨミちゃん、ほっぺゆるゆるだね」
「沙希さんとお話しできて嬉しいので」
「もう、かわいいんだから」

 よしよしと頭を撫でられる。二十代になってそんな褒められ方をされるのは久しぶりで、ヨミはぽっと頬が熱くなった。

 沙希さんは昔からヨミの「お姉さん」だった。沙希さんといるときだけは、自分の精神年齢が幼くなることを自覚する。でも仕方ない。沙希さんからあふれる優しさは、ひとをとろけさせるのだ。魔力がある。普段は姉属性のヨミを、すっかり妹属性にしてしまうのだから、恐ろしい。

「あ、でも、旦那さんは大丈夫なんですか?」

 ふっと気になって訊いたヨミに、沙希さんは「なにが?」と返す。

「沙希さんがこっちでゆっくりしすぎると、旦那さん、寂しがるんじゃないですかね」
「ああ、いいのいいの、あの人は」

 沙希さんはため息まじりに首を振った。沙希さんにしては、ひどくぞんざいな態度だった。けれどそれは、親しんでいるからこそなのだと思う。呆れた顔をしてはいるけれど、沙希さんの瞳は冷めていなかった。

「親のためだからって言えば、文句は言わないと思うわ。親孝行って言葉は強いのよ、ヨミちゃん」
「親孝行ですか」
「そう。便利な言葉よね」

 たしかに。

 親孝行すべしという世の中で育ってきたヨミには、その単語というか心構えというか概念みたいなものが身体にしみついている気がする。親を大切にすること。親に尽くすこと。親から受けた恩に報いること。それはあるべき姿――しかし、よくよく考えてみると不思議な言葉だ。

「ヨミちゃん、難しい顔してるね」
「え?」

 沙希さんはアイスコーヒーを飲んで、目を細めた。

「昔からそうだった。話していても突然思考が別の方に向いちゃう」
「変ですか?」
「ううん、悪く言ってるんじゃないの。むしろ褒めてる。面白くて好きよ。それで、今日はどんな難しい思案をしていたんですか、ヨミ先生」
「そんなそんな、たいしたことは考えてないです」

 ヨミは恥ずかしくなって頬をかく。思考回路が人とずれているらしいことは、ヨミもわかっているのだ。それでも沙希さんはにこにことヨミを促した。こうなったら仕方ない。

「親から受けた恩って、なんなのかなあと思いまして」

 沙希さんは小首をかしげた。

「親孝行の話よね?」
「はい。親孝行って、親に恩を返すって意味で使われることあるじゃないですか。その恩ってなんなんだろうなあと思ったんです」

 それは、と沙希さんが窓の外を見ながら考える。うーんとうなってから、言った。

「ずっと育ててくれたことを、恩って呼ぶんじゃない?」
「うん、わたしもそう思います」
「あら、解決しちゃった?」

 目をパチパチっとさせる沙希さんに、残念ながらと首を振る。

「それが、解決しないんです。むしろ思考の沼にはまっていきます」
「それは大変。具体的にはどんな沼?」
「ずるいよなあ、と思うんです」

 沙希さんはふたたび首をかしげた。

「ずるいっていうのは、うーん、どういうこと?」
「だって、子どもがそれを願ったわけじゃないでしょう」

 生まれてすぐの赤ちゃんは言葉を知らないし、あれしたいこれしたいという明確な意思もない。そんな状態の赤ちゃんは、わたしを育ててくださいなんて言わない。親が赤ちゃんを勝手に育てているだけだとヨミは思う。

 それ以前に、生まれるということも、子どもが望んだものじゃない。

「親が自分たちの意思で子作りしているわけで、子どもがわたしを生んでくださいって言ったわけじゃないじゃないですか。まあその、親にとっても予期していない妊娠はあるかもしれないけど、それは置いておくとして。子どもを出産するのも、育てるのも、親の意思だと思うんです。それなのに、生んでくれたことや育てられたことを恩だと思えなんて、それはちょっと違うなあという気がして」

 黙って耳をかたむけていた沙希さんは、ヨミの瞳をじーっと見つめた。

「――ヨミちゃん、遅れてやってきた反抗期?」
「えええっ、違います!」

 ヨミはぶんぶんと首を振った。
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