あやかし古民家暮らし-ゆるっとカップル、田舎で生きなおしてみる-

橘花やよい

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大きなお鍋と迷子のアリス

(十九)

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 庭で物音がして、穂乃花は居間を抜けだした。朱里たちの盛り上がっている声が外にまで聞こえている。というかほとんど朱里の声だ。障子越しに居間の明かりが視える。朱里の大げさな身ぶりがシルエットになって浮き上がった。

「あ、龍神さま。能面さんも。いらっしゃい」

 龍の姿の龍神と、傍らには能面女性が立っていた。能面女性は重そうな平安貴族の十二単ではなく、旅装――壺装束というらしい――をしている。市女笠からのぞく顔には、お決まりの微笑の能面。

「龍神さま、今日はお世話になりました。中でお鍋してるんですよ。ふたりも食べていきません?」

 龍神は首を振る。水色の鱗が月明かりにきらきら光った。そこに、てててっと親指少女が駆けてきた。穂乃花にぺこりと頭を下げてから、能面女性の差し出す手のひらにぴょんっと乗る。

「ああ。親指ちゃんのこと、迎えに来たんですね」

 龍神と能面女性が同時に頷く。以前から思っていたが、龍神ファミリーは仲がいい。

「いいですねえ、仲良し家族。今日は賑やかだなあ」

 居間から届く朱里たちの声に耳を傾け、龍神たちが寄り添う姿を見る。昔は、こんな風に隣人や周りの人と笑いあえるなんて思わなかった。微笑ましくてあたたかくて――。

 すこし、苦い。

 ――ちりりん。

 音が、聞こえた。
 桜の意匠が施された、あの鈴。

 ふっと瞼の裏に、過去がよみがえる。とたんに胸が締め付けられて、穂乃花は苦笑を浮かべた。優たちを見ていると、いろいろ思い出してしまう。穂乃花は、母とああやって話せなかったし、一番仲の良かった隣人とも喧嘩……というより、一方的にひどいことを言って別れてしまった。

 鍋で温まったお腹に、すうっと冷たさが広がっていく。

 穂乃花はこの家に逃げてきた。雪斗の母の視線から。でも本当は、もっとずっと前から逃げ続けていた。自分の母親からも、昔の隣人からも。

「いいなあ、優ちゃん。わたしも、あんな風になれたらよかったのになぁ――……」

 ふと、泣きそうになった。穂乃花の母はもういない。後悔しても、分かり合える機会は巡ってこない。朱里や和真や優のようには、どうやったってなれない。なれない。なれない――。

 夜の庭は静かだ。そのせいで自分だけ明るい世界から取りこぼされて、置いて行かれたような心地がした。

「やだなあ、思い出しちゃった」

 そのとき、龍神が急に穂乃花を家の方へと押し出した。

「わっ、え、なんですか……!」

 不思議に思って振り返ろうとする。ちらりと山の木々のなかに、黒い影が見えた。
 鳥肌が立った。
 なんだろう、あれ。

 とても黒々として、いやな感じだ。闇より濃い、真っ黒の影。おいでおいでと誘ってくる。見てはいけない気がするのに、目が離せない。

 おいで、おいで。

 ――もうやめて。

 頭の中で、母の声がよみがえった。

「穂乃花さん、どうかした?」

 気づけば雪斗が立っていた。穂乃花は呆然と雪斗を見つめる。

「風邪ひくよ? 中に入ろう。朱里さんたち、そろそろ帰るって」

 雪斗の手首で、鈴が鳴る。その音がしたとたん、影は消えてしまった。

「穂乃花さん? 大丈夫?」
「あ、いえ……」

 龍神ファミリーも、すでに消えていた。
 穂乃花もようやく動けるようになって、なんでもないです、と雪斗に微笑む。

 朱里たちは帰る前に皿の片づけまでしっかり手伝い、そのころにはすっかり眠ってしまった優を和真が抱いて、家に帰っていった。和菓子屋親子が去ってしまうと、家の中がとたんに静かになる。雪斗と「なんだか寂しいね」なんて話をした。

 穂乃花は一瞬見たあの影が、頭から離れなかった。

 その夜、叔母から電話があった。
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