30 / 66
30. 温泉へ・・・
しおりを挟む思い立って温泉へ行くことを決めた皇帝に供することになって、琇華は急いで瑛漣に仕度をさせていた。
「温泉と言うことは、妾も、湯殿へはいるのよね?」
「たぶん、皇帝陛下とご一緒されるのだと思いますけれど」
皇帝と一緒に浴槽に入るのを想像してしまった琇華は、額を押さえた。想像しただけで、クラクラする。
「湯着は、換えのものも含めて、何枚かお持ちしましょう……それと……お召し替えもあるでしょうから、わたくしも、ご一緒致します」
瑛漣の申し出を受けて、琇華は、ほっと安堵の吐息をもらした。
「ああ、そう、それならば良かったわ。一緒の俥にのって行きましょう」
「まあ、皇后陛下。なにを仰せになりますか。皇后陛下は、皇帝陛下とご一緒の俥ですよ。わたくしは、その後を追いかけていきますので」
「そうなのかしらね……」
「ええ、そうですよ。大丈夫です、皇后陛下。……温泉のある山は、ここから見える程近うございます。片道、一刻も掛かりませんわ」
一刻も、二人だけの俥に乗るのは、初めてのことではないだろうか。
「靡山と申しまして、そこにいにしえ、この游帝国に守護を与えたと言われる竜女が人間との間に儲けた子を育てたという、神聖なる温泉『翡翠池』がございます」
横から口を挟んできたのは、愁月だった。
(そうね。愁月は、陛下と共に、温泉に行ったことがあったのだわ)
「人と、竜が交わって子を産むなんて……素敵な伝説があるのね」
「そのおかげもあって、この温泉は、子宝に恵まれるという言い伝えがあります。……女の肌を滑らかにして、身体を温め、女の胎内にある子の宿る場所を、産褥のように柔らかく温かく整える作用があるのだとか。男のほうも、陽の気を整え、精気還流を強める作用が有るとのことで御座います」
「まあ……」
琇華は驚いたが、次の瞬間には、その気持ちが、沈んでいく。
「……折角の温泉だというのに、妾には、縁のない場所ね……」
子供など、出来ない方が身の為だ。どうせ産んでも殺される―――あるいは、堕胎薬でも食事に混ぜられるのだから、琇華が子供を持つことは有り得ない。
頼みの綱は、愁月が産んだ男児を、皇子として正式にひきとり、琇華自身が、扶育することだが、これについても、まだ、調整が付いていない。
ようは、皇子の後見が付くのは結構だが、それが堋国であってはならないと言うことだ。
(あわれな妾。……結局、偽りの子も持つことは出来ないんだわ)
◇◇◇
皇帝からの迎えが来たのは、朝餉を終えて一刻もしないうちだった。
「随分早いお越しですのね……」
慌ただしく仕度をして出て行くと、車から降りた皇帝が待ち構えていた。皇帝は、常の黒衣ではなく、軽装の短衣を着ていて、色も若草色の明るい色合いのものだったので、いつもと大分印象が違う。琇華は、拱手して拝謁しようとすると「そんなものは良い」と強引に琇華の手を引いて、抱え上げて、俥に乗り込んでしまう。
「きゃっ! ……っ陛下っ?」
「暴れないように。……俥に頭をぶつけるよ」
やはり、真意の掴めない皇帝の態度に戸惑いながら、琇華は、皇帝を見上げる。
至近距離で見上げる皇帝は、やはり、役者のように整った顔をしていて、いつも通りに、薄い微笑をたたえているだけだから、表情を読むことは出来ない。
俥の中に入ったときも、皇帝の向かいに座ろうとしたら、「このままで」と告げられて、皇帝の膝上に乗ったまま連れられることになった。
(こんなことが以前にもあったような気がしたけれど……)
あの時は、殿舎までの短い間だったから良いようなものの、温泉までは一刻もある。
「陛下……このままでは、お疲れになるかと……」
「いや、構わないよ。あなたは、軽いのだから、べつに、疲れることもないだろう」
そのまま、皇帝は、琇華の頬に軽く口づける。驚いた琇華の呼気を奪うように、深く口づけられて、琇華は、頭の芯がぼうっとしてくる。口づけを受けるのすら、久しぶりのことだったのだ。
「……あ、陛下……」
一度離れたときに、琇華は、皇帝の胸を押し返す。
「なんだい、皇后」
琇華は(こんなところでおやめ下さい)と言うつもりだったのに、皇后、という呼び名を、嫌だと思ってしまった。
(だって、あなたは、愁月を……名前で呼ぶのでしょう?)
琇華の前では、気を遣って、『古淑媛』と呼んでいたはずだが、二人の時は、きっと、あの美しい女の白く甘い肌に、その名を囁くのだろう。
(妾も、名前で呼んで欲しい……)
その思いを隠して、琇華は、「外……」と呟いていた。
「外? 外から見えると言いたいの? 大丈夫だよ。皇帝の俥の中を覗こうという不埒な輩は居ないよ」
やんわりと、皇帝は笑う。
「そ、そうではなくて……」と琇華は、しどろもどろになりながらも、答えていた。「妾は、あまり、この国のことを知りませんから、ぜひ、俥の中からでも外の様子を見たいのです」
「ああ……そうだったね。あなたは、ずっと、皇宮で過ごしていたのだった」
納得しながら、皇帝は、窓を開けた。
俥は、まさに今、皇城を出て、瀋都の街へと出るところだった。
「存分に、見物しなさい」
0
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
【完結済】25億で極道に売られた女。姐になります!
satomi
恋愛
昼夜問わずに働く18才の主人公南ユキ。
働けども働けどもその収入は両親に搾取されるだけ…。睡眠時間だって2時間程度しかないのに、それでもまだ働き口を増やせと言う両親。
早朝のバイトで頭は朦朧としていたけれど、そんな時にうちにやってきたのは白虎商事CEOの白川大雄さん。ポーンっと25億で私を買っていった。
そんな大雄さん、白虎商事のCEOとは別に白虎組組長の顔を持っていて、私に『姐』になれとのこと。
大丈夫なのかなぁ?
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる