伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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30. 温泉へ・・・

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 思い立って温泉へ行くことを決めた皇帝に供することになって、琇華しゅうかは急いで瑛漣えいれんに仕度をさせていた。

「温泉と言うことは、妾も、湯殿へはいるのよね?」

「たぶん、皇帝陛下とご一緒されるのだと思いますけれど」

 皇帝と一緒に浴槽に入るのを想像してしまった琇華は、額を押さえた。想像しただけで、クラクラする。

「湯着は、換えのものも含めて、何枚かお持ちしましょう……それと……お召し替えもあるでしょうから、わたくしも、ご一緒致します」

 瑛漣の申し出を受けて、琇華は、ほっと安堵の吐息をもらした。

「ああ、そう、それならば良かったわ。一緒のくるまにのって行きましょう」

「まあ、皇后陛下。なにを仰せになりますか。皇后陛下は、皇帝陛下とご一緒の俥ですよ。わたくしは、その後を追いかけていきますので」

「そうなのかしらね……」

「ええ、そうですよ。大丈夫です、皇后陛下。……温泉のある山は、ここから見える程近うございます。片道、一刻も掛かりませんわ」

 一刻も、二人だけの俥に乗るのは、初めてのことではないだろうか。

靡山びざんと申しまして、そこにいにしえ、このゆう帝国に守護を与えたと言われる竜女りゅうじょが人間との間に儲けた子を育てたという、神聖なる温泉『翡翠池ひすいち』がございます」

 横から口を挟んできたのは、愁月だった。

(そうね。愁月は、陛下と共に、温泉に行ったことがあったのだわ)

「人と、竜が交わって子を産むなんて……素敵な伝説があるのね」

「そのおかげもあって、この温泉は、子宝に恵まれるという言い伝えがあります。……女の肌を滑らかにして、身体を温め、女の胎内にある子の宿る場所を、産褥のように柔らかく温かく整える作用があるのだとか。男のほうも、陽の気を整え、精気還流を強める作用が有るとのことで御座います」

「まあ……」

 琇華は驚いたが、次の瞬間には、その気持ちが、沈んでいく。

「……折角の温泉だというのに、妾には、縁のない場所ね……」

 子供など、出来ない方が身の為だ。どうせ産んでも殺される―――あるいは、堕胎薬でも食事に混ぜられるのだから、琇華が子供を持つことは有り得ない。

 頼みの綱は、愁月が産んだ男児を、皇子として正式にひきとり、琇華自身が、扶育することだが、これについても、まだ、調整が付いていない。

 ようは、皇子の後見うしろみが付くのは結構だが、それがほう国であってはならないと言うことだ。

(あわれな妾。……結局、偽りの子も持つことは出来ないんだわ)


 ◇◇◇


 皇帝からの迎えが来たのは、朝餉を終えて一刻もしないうちだった。

「随分早いお越しですのね……」

 慌ただしく仕度をして出て行くと、車から降りた皇帝が待ち構えていた。皇帝は、常の黒衣ではなく、軽装の短衣を着ていて、色も若草色の明るい色合いのものだったので、いつもと大分印象が違う。琇華は、拱手して拝謁しようとすると「そんなものは良い」と強引に琇華の手を引いて、抱え上げて、俥に乗り込んでしまう。

「きゃっ! ……っ陛下っ?」

「暴れないように。……俥に頭をぶつけるよ」

 やはり、真意の掴めない皇帝の態度に戸惑いながら、琇華は、皇帝を見上げる。

 至近距離で見上げる皇帝は、やはり、役者のように整った顔をしていて、いつも通りに、薄い微笑をたたえているだけだから、表情を読むことは出来ない。

 俥の中に入ったときも、皇帝の向かいに座ろうとしたら、「このままで」と告げられて、皇帝の膝上に乗ったまま連れられることになった。

(こんなことが以前にもあったような気がしたけれど……)

 あの時は、殿舎までの短い間だったから良いようなものの、温泉までは一刻もある。

「陛下……このままでは、お疲れになるかと……」

「いや、構わないよ。あなたは、軽いのだから、べつに、疲れることもないだろう」

 そのまま、皇帝は、琇華の頬に軽く口づける。驚いた琇華の呼気を奪うように、深く口づけられて、琇華は、頭の芯がぼうっとしてくる。口づけを受けるのすら、久しぶりのことだったのだ。

「……あ、陛下……」

 一度離れたときに、琇華は、皇帝の胸を押し返す。

「なんだい、皇后」

 琇華は(こんなところでおやめ下さい)と言うつもりだったのに、皇后、という呼び名を、嫌だと思ってしまった。

(だって、あなたは、愁月を……名前で呼ぶのでしょう?)

 琇華の前では、気を遣って、『淑媛しゅくえん』と呼んでいたはずだが、二人の時は、きっと、あの美しい女の白く甘い肌に、その名を囁くのだろう。

(妾も、名前で呼んで欲しい……)

 その思いを隠して、琇華は、「外……」と呟いていた。

「外? 外から見えると言いたいの? 大丈夫だよ。皇帝の俥の中を覗こうという不埒な輩は居ないよ」

 やんわりと、皇帝は笑う。

「そ、そうではなくて……」と琇華は、しどろもどろになりながらも、答えていた。「妾は、あまり、この国のことを知りませんから、ぜひ、俥の中からでも外の様子を見たいのです」

「ああ……そうだったね。あなたは、ずっと、皇宮で過ごしていたのだった」

 納得しながら、皇帝は、窓を開けた。

 俥は、まさに今、皇城を出て、瀋都しんとの街へと出るところだった。

「存分に、見物しなさい」




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