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31. 瀋都の女
しおりを挟む瀋都の様子を見るのは、婚礼の時、皇城へ入ったとき以来だ。
(あの時は、あまり人気もなかったようだったけれど……)
俥は、皇帝専用の道を行く。都を見ていると人の姿はまばらで活気がない。
「……瀋都は、静かなのですね」
琇華が聞くと、皇帝は微苦笑した。「湖都(堋国首都)のような賑わいはないね。昔は、諸国から人がやってきて、とても栄えていたのだけれど……私の御代になってからは、どうも、こんな様子だ。私に、天子としての徳がないせいだろう」
天子としての徳―――と言う言葉を聞いて、琇華は、気がついた。
(婚約者の居る愁月を……、初夜の紅閨から奪ったと聞いたわ……)
そして、大洪水などが起きたというのだった。
掛けるべき言葉も見当たらなかった琇華は、再び外に視線を移す。どんよりとした顔つきで、ふらふらと歩いている女の姿があった。手足は、骨と皮ばかりにやせ細っていて、目だけが、ぎょろぎょろとしていたが、これも淀んでいる。
その彼女が、俥に気がついて、顔を上げた。土色に汚れた肌に、赤みが差した。憤怒だ。彼女は、目を吊り上げて、車を見ていた。ペッと痰を吐く。乾いた土の地面に一直線を描いた。
侮辱されたのだ、と琇華が気がついたのは、その時だ。そして、女は、蹌踉けて地面に倒れ込む。赤茶色の乾いた土を握りしめて、俥へと投げつけようとしたが、届かなかった。
だが、一瞬、琇華は、女と目が合ったような気がした。
「……皇后、どうかしたのか?」
「え? ……いいえ……」
なんでもありませんわ、と琇華は、笑顔で隠した。
しばらくの間、珍しいものの話などをしていたが、会話は途切れてしまった。琇華は、皇帝の胸に顔を預けながら、先ほどの女のことを考えて居た。
(あの方は、きっと、妾や皇帝陛下を、憎んでいたのだわ)
何故憎んでいたのか――――きっと、生活が立たないからだ。それは、徳のない、天から見放された皇帝の責任でもあるし、それを支えなければならない皇后のせいである。
(なぜ、妾は気がつかなかったのかしら……)
皇城で、食べるものが満足にないのならば、市井は、もっと困窮しているはずだ。
「難しい顔をしているね」
皇帝が、強張ったような顔で問い掛ける。
「……その、はじめて、みたのです。あのように……痩せほそった方を……」
「ほかの土地はまだましだが、瀋都とその周辺が著しく、状況が悪い。食糧が不足して、高騰している。普段ならば、小麦の一斗(約20リットル)など、四十銭もあれば買い求めることが出来る。だが、いま、瀋都周辺は、一万銭だ。庶民が手に出来るものではない。皆、木の根までかじり、鼠まで捕らえて生きているよ」
そんな中、皇城で、優雅に茶を飲んでいる琇華は、さぞや贅沢ものに見えるのだろう。
琇華は、足許の街のようすさえ知らなかったことを羞じた。
「あなたが嫁いできてくれたおかげで、堋国が、西域で仕入れてきたという、大量の小麦を援助してくれた。おそらく、見返りは求められるだろうが、これを市場へ開放すれば、今の小麦の値は崩れるだろう。
だから、あなたには、感謝しているのだ。先ほどの女の無礼は、私に免じて許してやって欲しい」
皇帝は、目を伏せた。
「こういう状態だから、街に活気がないのは当たり前だ、職人達が、仕事がなくて、飢えている。先ほどの女なども、あの区域の近くには織工が多いから……それで、あんなになっているのだろうね」
「織工……?」
「普段ならば、皇城からの注文などがあるはずだ。……なにを隠そう、あなたとの婚礼に着た、私の花婿の装束は、叔父上の使ったお古だったものだから、少々丈が余っていたのだよ」
「そう……だったんですか?」
「そう。あなたの、真新しい装束に比べたら、なんだか、みすぼらしくて堪らない気分になるけれど」
なんとなく、琇華は、察した。
勿論、皇帝も、冕冠を外して黒衣黒珠を脱ぎ捨てれば、ただの人だ。お古の装束にみっともない気持ちも手伝っていたし、なにもかも、上手くいかず、他国からの介入まで許したふがいなさが、あの夜の、琇華への八つ当たりになったのだろう。
(それなら、そう言って下されば良いのに、殿方は、そういうことは、仰せにならないのよね……きっと)
琇華は、微苦笑した。(仕方がないけど……可愛い方だわ)ぎゅっと、抱きつく。
「ならば、妾も、あなたの伯母上から婚礼の装束を借りれば良かった」
「えっ?」
「……どうせ、政略結婚ならば、真新しい装束を用意して、婚礼に胸をときめかせたりしなければよかったわ。ご用意して下さると言って下されば、無駄なことをしないで済みましたのに」
皇帝は、気を悪くするだろうかと思ったが、「あなたには、敵わないなあ」と深々とした嘆息を漏らして、琇華の方に、額を乗せた。
「敵わない?」
「ああ、私がふがいなさすぎるのだろうね」
「よく、解りませんけれど……」
「いや、あなたには、感謝している。ただ、それだけだよ」
皇帝は蕩けそうな微笑みを浮かべて、琇華に口づけをした。瑞鳥の羽が口唇に舞い降りたように軽やかな口づけを受けながら、琇華は、思う。
(感謝じゃないの、妾は、感謝なんか要らないわ………)
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