伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

文字の大きさ
34 / 66

34. あなたという嵐

しおりを挟む


『あなたは、存外、変な方なんだね』

 耳許で囁かれた言葉が、甘く留まっているようで、琇華しゅうかは、ぼんやりしながら湯着に着替えていた。

 皇帝の煎れたお茶が一番美味しい。それはお世辞でも何でもない、琇華の本心である。

(また、妾のことを騙しているのかしら……)

 それで、甘い言葉を耳許に囁いて、琇華をぼうっとさせているのではなかろうか。愁月のことが心配だから、苛められないように皇后の機嫌を取っておこうという腹なのかも知れない。琇華は、そう思うことにして、熱を持って熱くなっている頬を掌で包み込んだ。

 温泉に入る前から、湯あたりを起こしたように熱い。

「さあ、皇后さま、仕度が出来ましたよ。それでは、参りましょう。皇帝陛下は、既に『翡翠池』においでのようですから」

 瑛漣に手を引かれて、湯着のまま、浴室へと向かう。

 あちこちから楽しげな声が聞こえてくるのは、琇華が申し出て、ここに随行したものたちへの入浴が許可されたので、きっと、そのせいだろう。随行してきた者たちも、入浴を楽しんでいるに違いない。

「みんな、温泉に入っているのかしら」

 琇華が問い掛けると、瑛漣は「ええ。殿方はお入りのようですわ」と答える。

「あなたは、入らないの?」

「わたくしは……化粧の道具も持ってきておりませんし」

 だが、言葉の端に、残念そうな響きがあったので、琇華は「では、せめて、足だけでも温めてきたらどうかしら」と提案した。

「足だけ……、でございますか?」

「ええ。足だけでも、ゆっくりお湯につかると、全身が温まるそうよ? だから、もし良ければ、あなたも、湯を使っていらっしゃい。妾は、自分のことは自分で出来るし、皇帝陛下のお着替えも、お世話できるわ」

 男ものの服を着せてやることが出来なければ、相手の男が、裸で人前に出なければならなくなる。なので、どんな深窓の姫君でも、男の着替えを手伝うくらいは、実家にて指導されている。

「まあ……そうでしょうけれど」

 瑛漣は不満そうだった。その瑛漣の手を取って琇華は訴える。「お願いだから、あなたも、ちゃんと身体を癒やして頂戴。いつも、あなたには、いろいろと苦労を掛けているのだから……」

「わかりました、そこまでおおせでしたら」

 渋々承諾した瑛漣を伴って、琇華は浴室へ向かう。皇帝や皇族が使うのが、『翡翠池』と呼ばれる浴室である。靡山びざんの温泉地の中でも、黒檀の柱、漆黒の瓦で彩られ、西域から渡来した瑠璃などがふんだんにあしらわれた豪華な浴室である。

「素晴らしい浴室だわ……」

 簡単の息を漏らした琇華の耳に、思いがけない音が飛び込んで来た。


 ―――べべん、へべん。


「陛下は……琵琶を弾いておいでなのね。相変わらず……」

 物の怪でも憑いたような音だと言おうとして琇華は止めた。どんなものでも、最初から上手く出来る者はいない。皇帝も、時間を見つけて懸命に練習しているのだとしたら、それを笑ってはいけないはずだ。

「まあ、これは、琵琶でしたの……なんとも、特徴的な音ですわね。次からは、すぐに陛下の演奏だと解りますわ」

 驚く瑛漣に「では、ここからは、妾一人で行くわ。あなたも、寛いで頂戴」と言い残して、『翡翠池』へと入って行く。

 黒檀に、竜が彫刻された重たそうな扉の前で、「皇帝陛下。妾が参りましたわ!」と呼びかける。

 ほどなくして、琵琶の音が止まった。内側から、扉が開かれる。皇帝が、自ら扉を開けたようだった。肌が透けるほどに薄い湯着を着ているので、なんとなく目のやり場に困る。いつもならば、重苦しい衣装に包み隠されている逞しい胸板が見えて、琇華は胸が跳ねるのを感じていた。

「あら? 従者や女官はおりませんの?」

「ん? みな、温泉にやったよ。着替えを持ってきていないと言うから、足だけでも温まるから入りなさいと言ったんだ」

「まあ……妾も、同じことを瑛漣に言いましたのよ?」

「おや、そうだったのか……なかなか、気が合うね。我が皇后殿……さ、おいで。あなたがあまりに遅いから、たっぷりと琵琶の練習が出来たよ」

「聞こえてましたわ……あとで、妾と合奏して下さいませ」

「いや……流石に、あなたと合奏は無理だろう。私も、身は弁えているよ。あなたの腕前は、天帝の楽師も裸足で逃げ出すほどだ。私のは、せいぜい、子供がふざけて弾いているくらいだよ」

 たしかに、酷い音だが……不思議と、耳障りではなかったはずだ。面白い、のであって、不愉快ではない。それは、皇帝が、誰かに見せつけるように演奏していないからだろう。過剰な自意識は見苦しいものだ。

「そんなに仰せにならずとも、よろしゅうございましょう。妾は、嫌いではありませんもの」

「あなたは、変わり者だな。……薄いお茶が良いと言ったり、私の琵琶が好きだと言ったり」

 はは、と皇帝は笑う。

(あなたの、だから、妾は好きなのよ)

 心に秘めた思いは、伝えない。今日、こうして、穏やかで幸せな時間を過ごしていても、明日どうなるか解らない。

(あなたは、きまぐれなのか、なんなのか……妾は、ずっとあなたという嵐に乱されてばかりだわ)

 皇帝の表情を探りたくても、表情を読ませないと言うことに掛けては、この皇帝は、誰よりも優れていた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎ ギルドで働くおっとり回復役リィナは、 自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。 ……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!? 「転ばないで」 「可愛いって言うのは僕の役目」 「固定回復役だから。僕の」 優しいのに過保護。 仲間のはずなのに距離が近い。 しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。 鈍感で頑張り屋なリィナと、 策を捨てるほど恋に負けていくカイの、 コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕! 「遅いままでいい――置いていかないから。」

【完結】こっち向いて!少尉さん - My girl, you are my sweetest! - 

文野さと@書籍化・コミカライズ
恋愛
今日もアンは広い背中を追いかける。 美しい近衛士官のレイルダー少尉。彼の視界に入りたくて、アンはいつも背伸びをするのだ。 彼はいつも自分とは違うところを見ている。 でも、それがなんだというのか。 「大好き」は誰にも止められない! いつか自分を見てもらいたくて、今日もアンは心の中で呼びかけるのだ。 「こっち向いて! 少尉さん」 ※30話くらいの予定。イメージイラストはバツ様です。掲載の許可はいただいております。 物語の最後の方に戦闘描写があります。

魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】

iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。 小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。 両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。 両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。 しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。 魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。 自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。 一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。 初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。 恋人になりたいが、年上で雇い主。 もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。 そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。 そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。 レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか? 両片思いのすれ違いのお話です。

異国には嫁に行きたくないので、空を渡ることにしました

七宮叶歌
恋愛
 政略結婚が決まった王女・メヌエッタは、決められた未来に従うだけの人生を拒んで王宮を飛び出した。逃げ込んだのは、侯爵令息・アルフレッドの操る飛空船だった。  ところが逃亡の途中、「王女は事故死した」「アルフレッドは指名手配」という報道が流れ、二人は一転して国中から追われる立場になる。更にアルフレッドの父から提示された逃亡の手助けの条件は、逃げ切ることが出来たなら、アルフレッドと『契約結婚』するというものだった。  結婚から逃げてきたはずなのに、行きついた先もまた結婚。けれど、空の旅の中で触れ合う彼の優しさや弱さに、メヌエッタの心は少しずつ揺れ始める。  追手、暗殺の影、契約から始まる恋――。  二人は無事に逃げ切り、幸せを掴むことができるのか。ちょっぴりコミカルで、ときどき切ない空の逃避行恋愛ストーリーです。

田舎暮らしの貧乏令嬢、幽閉王子のお世話係になりました〜七年後の殿下が甘すぎるのですが!〜

侑子
恋愛
「リーシャ。僕がどれだけ君に会いたかったかわかる? 一人前と認められるまで魔塔から出られないのは知っていたけど、まさか七年もかかるなんて思っていなくて、リーシャに会いたくて死ぬかと思ったよ」  十五歳の時、父が作った借金のために、いつ魔力暴走を起こすかわからない危険な第二王子のお世話係をしていたリーシャ。  弟と同じ四つ年下の彼は、とても賢くて優しく、可愛らしい王子様だった。  お世話をする内に仲良くなれたと思っていたのに、彼はある日突然、世界最高の魔法使いたちが集うという魔塔へと旅立ってしまう。  七年後、二十二歳になったリーシャの前に現れたのは、成長し、十八歳になって成人した彼だった!  以前とは全く違う姿に戸惑うリーシャ。  その上、七年も音沙汰がなかったのに、彼は昔のことを忘れていないどころか、とんでもなく甘々な態度で接してくる。  一方、自分の息子ではない第二王子を疎んで幽閉状態に追い込んでいた王妃は、戻ってきた彼のことが気に入らないようで……。

求婚されても困ります!~One Night Mistake~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「責任は取る。僕と結婚しよう」 隣にイケメンが引っ越してきたと思ったら、新しく赴任してきた課長だった。 歓迎会で女性陣にお酒を飲まされ、彼は撃沈。 お隣さんの私が送っていくことになったんだけど。 鍵を出してくれないもんだから仕方なく家にあげたらば。 ……唇を奪われた。 さらにその先も彼は迫ろうとしたものの、あえなく寝落ち。 翌朝、大混乱の課長は誤解していると気づいたものの、昨晩、あれだけ迷惑かけられたのでちょーっとからかってやろうと思ったのが間違いだった。 あろうことか課長は、私に求婚してきたのだ! 香坂麻里恵(26) 内装業SUNH(株)福岡支社第一営業部営業 サバサバした性格で、若干の世話焼き。 女性らしく、が超苦手。 女子社員のグループよりもおじさん社員の方が話があう。 恋愛?しなくていいんじゃない?の、人。 グッズ収集癖ははない、オタク。 × 楠木侑(28) 内装業SUNH(株)福岡支社第一営業部課長 イケメン、エリート。 あからさまにアプローチをかける女性には塩対応。 仕事に厳しくてあまり笑わない。 実は酔うとキス魔? web小説を読み、アニメ化作品をチェックする、ライトオタク。 人の話をまったく聞かない課長に、いつになったら真実を告げられるのか!?

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

処理中です...