伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

文字の大きさ
51 / 66

51. 鬼哭の夜

しおりを挟む


 淑媛しゅくえん―――愁月しゅうげつは、その夜、異様な声が聞こえてくるのが聞こえて、耳を塞いでしとねの中に潜り込んで、念仏を唱えていた。

 夜が更けた頃合いに、皇后が玄溟げんめい殿に帰還したのは知って居るが、『皇后様はお疲れですので、拝礼はご遠慮下さいませ』と筆頭侍女の瑛漣えいれんが告げに来た為、拝礼も出来なかった。

 そして、それから、皇后の寝室は灯りが落とされたが―――その後である。


  う、っふっ、ふっ、ひっ、……っ。


 女の不気味な声が聞こえてくる。

 そして、女官時代に、聞いた話を思い出した。

 掖庭えきてい宮には、全部で殿舎は十三。

 皇后の住まいである、玄溟げんめい殿を筆頭に、椒蘭しょうらん殿、藍玉らんぎょく殿、琉梨りゅうり殿……などと続く。

 殿殿舎でも、長い游帝国の歴史をひもとけば、一人二人の毒殺された妃、自死した(或いは自死したと見られる妃)がいるという。そして、それは、夜な夜な、幸福な妃を呪い殺す為に、闇の中をさまよい歩いているのだと……。

(まさか、幽鬼となった、妃では……)

 もし、そうならば、幽鬼は、皇后の命を狙っているかも知れない。そう思ったら、居ても立っても居られなくなった。

(皇后陛下は、こんなわたくしに、優しくして下さった、唯一の方だもの……)

 掖庭宮の下働きに落とされてから、たった一度だけで良いから、皇帝に逢いたかった。伝えたい事があったのだ。


『わたくしの為に、済みません』


 それだけ、伝えたかった。本当は、命を賭けて、お詫びしなければと思っていたが、一人で死ぬのも怖かった。皇帝とは、じつは、あまり面識がなかった。現在の皇太后の女官だったおかげで、少し話が出来たくらいだ。

 当時、恋い慕っていた男と婚約出来たと聞いたときも、皇帝は、『それはよかった』と喜んでくれたものだった。

 それが、兄の事件のおかげで、運命が狂い、―――愁月は、婚家に売られるところだった。皇帝には知らないふりをしていたのは、婚家の名誉を守る為だ。

(あなたのことは……多分、ずっと気に掛けていたよ)

 だから、皇帝の寝所で過ごした日々を、愁月は、寵愛だったとは思えない。だが、哀れみを覚えて、情を掛けたのだろう。それは、どこにも行く当てのなくなった愁月を、気遣っての事だったと思う。

 そこに、全く愛着がなかったのかと言われれば解らないが、それでも、琇華と皇帝の様子を見ていれば解る。

(陛下が、本当にお好きなのは、皇后陛下だわ……)

 皇帝は、真実を告げる勇気が無い。

 そして、救民と財政立て直しに向かう琇華もまた、真実に向き合う勇気が無い。

 おふたりとも、逃げていらっしゃるから。―――本当の気持ちに気がつかない。本当は、互いに惹かれあっていて、幸せになる道があるというのに、気がつかないのだ。

 それは、端で見ている愁月のほうがもどかしく感じていることだった。

(皇后陛下は、誰よりも幸せになって良いはずよ……)

 そう思った愁月は、褥から這い出た。脚がガクガクとふるえていたが、仕方がない。愁月が起き出した気配に、侍女が「小用でございますか?」と声を掛ける。

「いいえ……なにやら、不気味に声が聞こえてくるので、幽鬼のモノではないかと……それならば、皇后陛下の御身が、あぶないと思ったのです」

「たしかに……」


  う、っふっ、ふっ、ひっ、……っ。


 女の不気味な声が聞こえてくる。

「皇后陛下を、お守りしなきゃ……ならないわ」

「淑妃さま、わたくしも、……参りますっ!」

 かくて、夜の玄溟殿を、夜着姿の愁月と、侍女は二人で行くことになった。声は、皇后の部屋に近づくにつれて、大きくなっているように思える。

「淑媛さま……やはり、声、いたします、わね」

 侍女の声は震えている。燭台も持たず、足音を忍ばせて皇后の寝所近くに来たとき、回廊の向こうで、すう……っ、と動く白い影を見たような気がした。

「きゃっ……っ!」

 白い影が、歩みを止める。

「淑媛さまっ! き、気付かれてしまいましたわっ!」

「ど、どうしましょう……っ! でも、お、追い払わなければっ………っ!」

 愁月の恐怖心は、この時、限界を振り切っていた。それで、いつもとは逆に、大胆な行動に出ることが出来たのだ。

「わたくし、行きます! どうせ、両陛下に救っていただいた命ですもの、惜しくはないわっ………っ!」

 そのまま、愁月は白い影向かって駆け出した。

 白い影は、愁月が負ってくるとは思わなかったようで、焦ったのか、その身が傾ぐのが解った。傾いでから、すぐに持ち直し、もの凄い勢いで逃げていく。

(逃げる?)

 愁月は不思議に思った。

(幽鬼ならば、逃げる必要はない……)

 愁月を取り殺してしまえば良いのだ。


 つまり。



(あれは、幽鬼ではないのでは……?)

 そう考えたら、ぞっとした。

 急いで、掖庭宮の門へと走る。衛士に、ここを通り抜けたものが以内か確認する為だ。

 掖庭宮の衛士は、一度、あったことがある。皇后が親しく声を掛けていた、ほう機鏡ききょうというものがいるはずだった。

「衛士殿! ここを出入りしたものに、不審なモノはおりませんでしたか?」

 ほう機鏡ききょうが、駆け込んできた愁月を見て、目を剥いた。「ええと、不審なモノは、おりませんでした」と目をそらして行ってから、ほう機鏡ききょうは自らの円領の衣装を脱いで、愁月に手渡す。

「この衣が……どうかしましたか?」

 不思議に思って問い掛けると、ほう機鏡ききょうは、「あの、夜着のままでは、こちらには、その……目の毒でして……」としどろもどろになって言うのを聞いて、愁月は、青くなった。

「きゃぁぁぁぁっ!」

 胸元ははだけ、脚まで見えて居る。あまりにも、はしたない姿だった。急いで、ほう機鏡ききょうの衣装を身に纏う。まだ、彼のぬくもりが残っていた。季節が季節なので、少し、汗の湿り気を感じたが、不思議な事に、嫌な感じはしなかった。

「愁月! 愁月、なにがあったのっ!」

 悲鳴や異変に気付いた皇后が、やはり、夜着のままで飛び出してきた。愁月の無事な姿を見て、愁月は安堵して腰が砕けた。ぺたん、と地面に尻餅をついてしまう。なんとか、遠のきそうな意識を、必死でつなぎ止めて、

「幽鬼が、でたのですもの……」

 と、琇華に告げた。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

仕事で疲れて会えないと、恋人に距離を置かれましたが、彼の上司に溺愛されているので幸せです!

ぽんちゃん
恋愛
 ――仕事で疲れて会えない。  十年付き合ってきた恋人を支えてきたけど、いつも後回しにされる日々。  記念日すら仕事を優先する彼に、十分だけでいいから会いたいとお願いすると、『距離を置こう』と言われてしまう。  そして、思い出の高級レストランで、予約した席に座る恋人が、他の女性と食事をしているところを目撃してしまい――!?

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...