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51. 鬼哭の夜
しおりを挟む古淑媛―――愁月は、その夜、異様な声が聞こえてくるのが聞こえて、耳を塞いで褥の中に潜り込んで、念仏を唱えていた。
夜が更けた頃合いに、皇后が玄溟殿に帰還したのは知って居るが、『皇后様はお疲れですので、拝礼はご遠慮下さいませ』と筆頭侍女の祁瑛漣が告げに来た為、拝礼も出来なかった。
そして、それから、皇后の寝室は灯りが落とされたが―――その後である。
う、っふっ、ふっ、ひっ、……っ。
女の不気味な声が聞こえてくる。
そして、女官時代に、聞いた話を思い出した。
掖庭宮には、全部で殿舎は十三。
皇后の住まいである、玄溟殿を筆頭に、椒蘭殿、藍玉殿、琉梨殿……などと続く。
殿殿舎でも、長い游帝国の歴史をひもとけば、一人二人の毒殺された妃、自死した(或いは自死したと見られる妃)がいるという。そして、それは、夜な夜な、幸福な妃を呪い殺す為に、闇の中をさまよい歩いているのだと……。
(まさか、幽鬼となった、妃では……)
もし、そうならば、幽鬼は、皇后の命を狙っているかも知れない。そう思ったら、居ても立っても居られなくなった。
(皇后陛下は、こんなわたくしに、優しくして下さった、唯一の方だもの……)
掖庭宮の下働きに落とされてから、たった一度だけで良いから、皇帝に逢いたかった。伝えたい事があったのだ。
『わたくしの為に、済みません』
それだけ、伝えたかった。本当は、命を賭けて、お詫びしなければと思っていたが、一人で死ぬのも怖かった。皇帝とは、じつは、あまり面識がなかった。現在の皇太后の女官だったおかげで、少し話が出来たくらいだ。
当時、恋い慕っていた男と婚約出来たと聞いたときも、皇帝は、『それはよかった』と喜んでくれたものだった。
それが、兄の事件のおかげで、運命が狂い、―――愁月は、婚家に売られるところだった。皇帝には知らないふりをしていたのは、婚家の名誉を守る為だ。
(あなたのことは……多分、ずっと気に掛けていたよ)
だから、皇帝の寝所で過ごした日々を、愁月は、寵愛だったとは思えない。だが、哀れみを覚えて、情を掛けたのだろう。それは、どこにも行く当てのなくなった愁月を、気遣っての事だったと思う。
そこに、全く愛着がなかったのかと言われれば解らないが、それでも、琇華と皇帝の様子を見ていれば解る。
(陛下が、本当にお好きなのは、皇后陛下だわ……)
皇帝は、真実を告げる勇気が無い。
そして、救民と財政立て直しに向かう琇華もまた、真実に向き合う勇気が無い。
おふたりとも、逃げていらっしゃるから。―――本当の気持ちに気がつかない。本当は、互いに惹かれあっていて、幸せになる道があるというのに、気がつかないのだ。
それは、端で見ている愁月のほうがもどかしく感じていることだった。
(皇后陛下は、誰よりも幸せになって良いはずよ……)
そう思った愁月は、褥から這い出た。脚がガクガクとふるえていたが、仕方がない。愁月が起き出した気配に、侍女が「小用でございますか?」と声を掛ける。
「いいえ……なにやら、不気味に声が聞こえてくるので、幽鬼のモノではないかと……それならば、皇后陛下の御身が、あぶないと思ったのです」
「たしかに……」
う、っふっ、ふっ、ひっ、……っ。
女の不気味な声が聞こえてくる。
「皇后陛下を、お守りしなきゃ……ならないわ」
「淑妃さま、わたくしも、……参りますっ!」
かくて、夜の玄溟殿を、夜着姿の愁月と、侍女は二人で行くことになった。声は、皇后の部屋に近づくにつれて、大きくなっているように思える。
「淑媛さま……やはり、声、いたします、わね」
侍女の声は震えている。燭台も持たず、足音を忍ばせて皇后の寝所近くに来たとき、回廊の向こうで、すう……っ、と動く白い影を見たような気がした。
「きゃっ……っ!」
白い影が、歩みを止める。
「淑媛さまっ! き、気付かれてしまいましたわっ!」
「ど、どうしましょう……っ! でも、お、追い払わなければっ………っ!」
愁月の恐怖心は、この時、限界を振り切っていた。それで、いつもとは逆に、大胆な行動に出ることが出来たのだ。
「わたくし、行きます! どうせ、両陛下に救っていただいた命ですもの、惜しくはないわっ………っ!」
そのまま、愁月は白い影向かって駆け出した。
白い影は、愁月が負ってくるとは思わなかったようで、焦ったのか、その身が傾ぐのが解った。傾いでから、すぐに持ち直し、もの凄い勢いで逃げていく。
(逃げる?)
愁月は不思議に思った。
(幽鬼ならば、逃げる必要はない……)
愁月を取り殺してしまえば良いのだ。
つまり。
(あれは、幽鬼ではないのでは……?)
そう考えたら、ぞっとした。
急いで、掖庭宮の門へと走る。衛士に、ここを通り抜けたものが以内か確認する為だ。
掖庭宮の衛士は、一度、あったことがある。皇后が親しく声を掛けていた、彭機鏡というものがいるはずだった。
「衛士殿! ここを出入りしたものに、不審なモノはおりませんでしたか?」
彭機鏡が、駆け込んできた愁月を見て、目を剥いた。「ええと、不審なモノは、おりませんでした」と目をそらして行ってから、彭機鏡は自らの円領の衣装を脱いで、愁月に手渡す。
「この衣が……どうかしましたか?」
不思議に思って問い掛けると、彭機鏡は、「あの、夜着のままでは、こちらには、その……目の毒でして……」としどろもどろになって言うのを聞いて、愁月は、青くなった。
「きゃぁぁぁぁっ!」
胸元ははだけ、脚まで見えて居る。あまりにも、はしたない姿だった。急いで、彭機鏡の衣装を身に纏う。まだ、彼のぬくもりが残っていた。季節が季節なので、少し、汗の湿り気を感じたが、不思議な事に、嫌な感じはしなかった。
「愁月! 愁月、なにがあったのっ!」
悲鳴や異変に気付いた皇后が、やはり、夜着のままで飛び出してきた。愁月の無事な姿を見て、愁月は安堵して腰が砕けた。ぺたん、と地面に尻餅をついてしまう。なんとか、遠のきそうな意識を、必死でつなぎ止めて、
「幽鬼が、でたのですもの……」
と、琇華に告げた。
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