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Ⅵ 迷う魔女

iv 塔を訪れる者

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 カルロスを見送り扉を閉めたアズレイアは、ふと、塔の上を通り過ぎる風の音が聞こえる気がした。
 それくらい、塔の中は空虚で、静かすぎて。

 トボトボと足取りも重くカルロスのいないテーブルに戻って座る。
 朝食の皿は帰る前に彼がきれいに片付けてくれていた。
 何もないテーブルがとても寂しく、物足りなく感じるのはなぜだろう。


「研究、しなきゃ」


 声に出してやるべきことを言ってみるも、いつものように気力が沸かない。

 書きかけの論文でも出せばやる気が戻るか。
 そう思い、テーブルの引き出しを探るアズレイア。


「った!」


 だが、それを取り出した拍子に指が滑り、論文の紙の端で中指の脇を切ってしまった。
 じんじんと痛む傷に、思わず手を引っ込める。
 痛みから目じりに軽く涙がにじみ、ついにそのまま俯いて顔を覆った。


 なぜだろう、涙が流れて止まらない。

 カルロスがいないことが、なぜこんなに心細いのか。
 彼がいないこの塔が、なんでこんなに寂しいのか。

 独りぼっちにはなれていた。
 結婚なんて、幻だ。
 守られない約束なんて、もう欲しくないと思った。

 長い嘘より短い快楽。
 一時の夢心地さえあれば、それで満たされる。

 期待なんてしてもムダ、したくない。


 そう、思っていたはずだった。

 なのになぜいま自分は、こんなにも彼を想ってしまうんだろう。

 気づきたくなかった自分の気持ち。
 とっくの昔に、アズレイアの心は、カルロスの求愛を受け入れてしまっていた。


   ☆   ☆   ☆


── トントントン


 どのくらいそうして過ごしていたのだろう。
 俯くアズレイアの耳に、扉をたたく音が響いた。

 弾かれるように顔を上げたアズレイアは、涙に濡れた顔を見られまいと精霊の柱で洗浄を受けた。
 そのまま飛びつくように扉へと駆けていく。


 思いの外時間がたってしまっていたのだろうか。
 それともカルロスの用事が短く済んだのか。


 喜びを隠しきれず、思わず勢いよく扉を開く、と──


「久しぶりだね」


 ──柔らかい声とともに、見覚えのある人影がスルリと扉をすり抜ける。

 軽くカールする美しい金髪と、涼やかなアイスグレーの瞳の持ち主。
 その昔、アズレイアが何度となく見惚れた、その秀麗な顔立ち。

 それはカルロスではなく、レイモンドだった。


「え……」


 なんで?
 なぜ今、私の目の前にこの人が立っているの??


 アズレイアが戸惑い答えを出せぬ間に、レイモンドはアズレイアの横を通り過ぎ、そのままテーブルへと向かう。

 そしてまるで当たり前というように、そこに置かれていたアズレイアの研究論文の束に手をのばした。


「な、なにをしてるの!」


 一瞬ただそれを見守ってしまったアズレイアは、だけど振り返ったレイモンドの手に自分の論文が握られていることに気が付いて、慌ててそれを取りかえす。

 抵抗されるかと覚悟していたが、レイモンドはアズレイアに取られるに任せた。


「なにって、論文を取りにきたんだよ」


 今自分がしていることになんの疑問も抱かぬ顔で、レイモンドが肩をすくめて当たり前のように答える。


「だって君、チャールズを追い返したんでしょう」


 論文を胸に抱きしめるアズレイア、それをまるで駄々をこねる幼い子供を見るような目で見下ろすレイモンド。
 その姿はあの頃とそれほど変わらない。

 薄い金髪は今も美しく整えられ、ただ少し前よりも長く伸びた。
 アイスグレーの瞳は今も輝きを灯してる。
 ただ、その薄い唇は、あの頃アズレイアが思っていたよりも軽薄で冷酷に見えた。

 王城魔術士の紫のローブを羽織り、その下には副長官が身につける金糸の入ったシャツが覗く。

 やはり出世はしてるらしい。
 だがそれは今どうでもいい。


 その彼が今、まるで自分の部屋だとでもいうように、先ほどまでカルロスが座っていた客用の椅子に腰かけ、当たり前にくつろいでいる。

 その現状がどうにもまだ受け入れられないアズレイアを、アイスグレーの瞳が射貫く。


「困ったねぇ。あれだけ無茶はしないように言っておいたのに。君に薬を盛ったんだって?」


 なぜこの人は、こんな何年もたった今、私の前に姿を現し、こんな顔でこんな話ができるんだろう?


 アズレイアにはあまりにも理解不能で、返す言葉が出てこない。


「そんな足のつくものを選ぶなんて、やっぱり彼は軽率だね」


 そう言いながら立ち上がると、彼女の心中など構うことなく一歩近づいて、すっとアズレイアの頬に手を伸ばした。


「薬なんてなくても、君は簡単に落ちるのに……ほら」
「やめて!」


 まるであの頃から何も変わっていないとでもいうかのように、レイモンドがそのままアズレイアにキスしようとする。
 それを突き飛ばし、叫んだアズレイアを、レイモンドが楽しそうに見返した。


「その初心な反応、全然かわってないね。ほんの少しの手管さえあれば、だれにだって簡単に落とせるだろうに」
「あなた、なんでそんなこと、言えるの?」


 レイモンドの言動のすべてがアズレイアには不快で気持ち悪い。

 どう考えても自分はおかしくない。

 そう思うのと同時に、レイモンドがこうも完全におかしいのなら、自分の中に今まで残っていた最低限の信頼さえ愚かしい。
 言い換えれば、自分が一度は愛したこの男が、最低最悪な下衆だったのだと。

 そう認めるのは決して楽ではなくて。 


「まあそう怒るなって。チャールズだって君にはいい物件だと思うよ」
「…………」


 黙って睨みつけるアズレイアに、レイモンドがまたも肩をすくめて部屋を物色し始めた。


 私は今まで一体この人の何を見ていたんだろう。
 こんなにも自分勝手な人だったのだろうか?


 そうだったのだろう、と思い直す。
 彼がアズレイアの予定を聞いたことはない。
 来たいときに部屋に来て、いたいだけ部屋にいて、飽きれば帰る。
 そうだったじゃないか。

 惚れた弱みで当時は目につかなかっただけで、今思えば思い当たることも沢山ある。

 それを理解した今、自分の中の淡い恋の残滓が、朝の日に消える夢のごとく色あせていくのを、アズレイアは冷めた気持ちで見守った。
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