紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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一章 春風とともに

第三話 秘密の木陰

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ガシャーンッ!!

鈍く大きな音が響き、ふたりは思わず書房の方を振り返る。
どうやら、室内で誰かが何かを落としたようだった。

「……失礼。少し見てまいります」

芳蘭が静かにそう言うと、音の聞こえたほうへ足早に戻っていく。

「も、申し訳ありませんっ……! 強い風が吹いて……!」

すぐに、書房の方から、涙ぐんだ女官の声が聞こえてきた。

「お二人ともっ、そこでお勉強を続けてくださいませ!」

芳蘭が一瞬だけ顔をのぞかせ、中庭に向けて言い残すや否や、ばたばたと裾を翻し、慌てて室内へ戻っていった。

その背中が奥へと消えた瞬間。

「……!」

伽耶の顔が、ぱっと明るくなった。

「こっちよ!」

そのまま、誠の袖をきゅっとつまむと、中庭の隅へと駆け出していく。

「えっ、姫様――?」

何が起きているのか理解する間もなく、誠は伽耶に引っ張られるようにして走り出した。

塀に囲まれた中庭の片隅。
そこには、大きな木と岩が寄り添うように並ぶ一角があった。

伽耶は、一度も振り返ることなく、まるで長年の習慣であるかのように、木の根元に置かれた大きな岩をひょいと踏み台にし、するすると木の幹へと手をかける。

「姫様っ……!? そ、そこは……!」

誠は目を見開いたまま、思わず声を上げた。

しかし伽耶はお構いなしに、軽やかな動きで枝をよじ登り、あっという間に塀の上へと腰を下ろす。

その姿は、まるで塀の上に咲いた花のようだった。

「こっち!」

陽にきらめく笑顔のまま、
伽耶は手を振って、誠に登るよう合図した。

誠は慌てて室内を振り返ったが、
書房の中はいまだ慌ただしく、芳蘭の姿も見えない。

(……今のうち、なら)

誰にも見られていないことを、もう一度だけ確かめて。

小さく息を吸い込み、意を決したように歩み寄ると、誠は岩に足をかけ、木の幹へと手を伸ばした。

しかし、思っていたより高い。

(木登りなんて、したことがない……)

誠が戸惑っていると、上から伽耶の声が降ってきた。

「ほら、早くっ!」

木に戻った伽耶のその手が、ぐっと伸ばされている。

一瞬、迷うようにその手を見つめたあと――  
誠は小さく息を吸い、覚悟を決めたように、その手をしっかりと取った。

ぐいっと引き上げられ、塀の縁にようやく手がかかる。

そして、よじ登るようにして身体を引き上げ、
ついに、誠も塀の上に腰を下ろした。

「見て。素敵でしょう?」

伽耶は塀の上でにっこりと笑い、
隣に腰かけた誠へと視線を向けた。

城の建物がいくつも重なり合い、さらに遠くに、色とりどりの屋根が小さく並んでいる。


城下の町並みだった。


誠にとっては見慣れた景色。

だが、伽耶の瞳はそれを、
まるで、大切にしまってあった宝石のように見つめていた。

「ここはね、烈翔兄様が教えてくれた、わたしの秘密の場所なの」

さぁっと風が吹いた。
大木の枝が揺れ、葉擦れの音がふたりを包む。
まるで、この場所を大人たちから隠してくれるように。

音に紛れるように、伽耶がぽつりとつぶやいた。

「……いつかわたしも、あそこに行けるかしら」

その横顔は、先ほどまでの無邪気な笑顔とは違っていた。
視線は城下へ向けられたまま、ほんの少しだけ、寂しさをまとっているように見えた。

誠はその横顔を見つめたまま、少しだけ考え、そして静かに口を開いた。

「……すぐには、難しいかもしれません」

伽耶が、ふとこちらを振り向く。

「ですが――
学を重ね、いずれ姫様への評価が“守るべき存在”から、“頼られるお方”へと変わるとき、その日も、きっとやって来ます」

春の風が、またひとつ吹き抜けた。

「……その折には、わたしも、お供しましょう」

「ほんとに?」

伽耶が、ゆっくりと顔を向けて言う。

誠はまっすぐ頷いた。

「お約束いたします」

それだけを、真っ直ぐに。

伽耶はぱっと笑った。
太陽の下で、それはまるで、花が咲いたように見えた。

風が吹き、伽耶の髪がふわりと揺れる。
誠は、その横顔から目を離せずにいた。


その時、池からぽちゃんと鯉が跳ねる音。


誠が室内のほうを振り返る。

「姫様、そろそろ……降りられた方がよろしいかと」

「あっ、そうだ!」

伽耶が小さく手を打つと、身体をくるりと中庭の方へ向けた。

誠は頷き、低く伸びた木の枝に手をかける。

枝から枝へと手を伸ばし、慣れた動きで、雲梯を渡るように降りていく。

地面すれすれの枝まで来ると、ふっと体を預けるように跳ね、軽やかに着地した。

「……!」

塀の上からその様子を見ていた伽耶は、目を輝かせた。

「あなたって、すごいのね!」

笑みを浮かべた伽耶も、慣れた手つきで枝と岩を伝って、するすると降りていく。

その様子は、まるで小鳥が枝を渡るようだった。

けれど、最後の足場である、岩の端が少し不安定だった。

伽耶が躊躇するように足をとどめた、その瞬間。
下にいた誠が、何も言わず、そっと手を差し出した。

伽耶はその手を見つめ、ほんの少しだけ恥ずかしそうに目を逸らしながら、

それでも、その手を取った。

ぽん、とやさしい音を立てて、地面に降り立つ。
伽耶は、顔を上げて微笑んだ。

「ありがとう」

小さなその声は、ふたりだけの秘密のように、
春の空気に、そっと溶けていった。

誠も、静かに頷いた。

伽耶はその手を、少しだけ名残惜しそうに離す。


そして、再び春の風が吹く。
枝が揺れ、葉が舞い、ふたりの間を光と緑がすり抜けていった。


そのときだった。

「姫様?」

書房の方から、芳蘭の声が聞こえた。

誠と伽耶は、ぴしっ、と姿勢をただし目を合わせる。

「ここよ!」

伽耶が声を返す。

「中庭で蝶を見つけたの。追いかけてたら、こんなところまで来ちゃって」

「……蝶、でございますか?」

ほんの少し疑うような声が返ってきたが、やがて芳蘭は咳払い一つ。

「おふたりとも、そろそろ書房へお戻りくださいませ。お勉強の続きを」

「はーい!」

伽耶が明るく返事をし、ふたりは歩いて戻り始める。



そうして、午前の課程はひとまず終わりを迎えた。

「また明日も、よろしくね!」

伽耶は、教本を抱えた誠に明るく手を振る。

「はい。明日も、変わらず伺います」

そう応じて、書房の扉を静かに閉める。







行きには、どこか重たく感じたはずの扉。

けれど帰り道、誠はふと振り返り、その扉がなぜか少し名残惜しく思えた。

(……やはりあの方は、“ただの姫君”ではないのだな)

誠は朝の出来事を思い返す。

木を伝って降りた動き、塀に登った身軽さ。
そのひとつひとつが、伽耶の“強さ”と“自由さ”を物語っていた。

そして同時に――

(……もう少し、武術の稽古を増やしてもらおう)

父に願い出る自分の姿を思い浮かべながら、
誠は陽の差し込む廊下を、朝よりずっと軽やかな足取りで歩いていった。
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