紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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三章 ただ、君を信じて

第三話 暗闇に落ちる

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揺れる馬車の中で、伽耶は窓の外を見つめていた。
景色はゆるやかに流れていく。

けれど、胸の奥に広がるざわめきが、抑えられない。

(……なんだか、今日は風の音が強い気がする)

そう思ってしまった自分に、思わず小さく笑ってしまう。

(……なに言ってるのよ、わたし)

外の空気は穏やか。
空も晴れている。

視察としては、これ以上ないくらい平和な日のはず。

それなのに、ほんのひとかけらだけ、胸の奥が冷たい。

思わず指先で、帯に触れる。

それはかつて、伽耶が誠の誕生日に贈った飾り紐のお返しとして送られてきた、細工帯だった。

今日の衣に合わせ、その帯を身につけている。

(平気よ。わたしなら、大丈夫)

そう自分に言い聞かせるように、そっと目を閉じた。

「姫様。ご気分でも……?」

静かな声に、伽耶ははっとして振り返る。
馬車の隣に控えていた、若い女官だった。

「いいえ。そんなのではないの。ただ……少し考え事をしていただけ」

「考え事、ですか?」

女官が首をかしげる。
伽耶が笑って言葉を濁そうとすると、彼女がふと小声で尋ねた。

「もしかして……陸誠様がご一緒でないから、寂しいとか?」

「なっ……そ、そんなこと……っ!」

「ふふ、冗談です。でも、わたくしは知ってますよ?姫様、いつも陸誠様とご一緒のときは、とても嬉しそうなお顔をしてらっしゃいますもの」

「……!」

頬が熱くなる。
思わず帯の飾り紐に指を絡めてしまう。

だが。

『あなたは、この国の姫君なのです。
誰かひとりに心を寄せては、ならないお立場なのですよ』

いつかの芳蘭の言葉が脳裏を刺す。
伽耶はすっと目を伏せると、貼り付けたような笑顔を浮かべた。

「そんなこと、なくってよ」

「姫様……」

女官が息を呑んだ、そのときだった。

馬車がすっと緩やかに減速し、窓の外から近衛兵の声が響く。

「姫様、お時間もよろしいかと存じます。ここで一旦、休憩を取りましょう」

伽耶は笑みを浮かべたまま静かに頷いた。






その後。

野営地に整えられた布を敷いた食卓で、兵士たちには簡易な昼食が振る舞われる。
いつも通りの手順、いつも通りの警戒。

「……わたしも、みんなと同じ食事でいいのに」

ぽつりとこぼすその声は、静かに春の風に溶けていった。
だが、それに答えた近衛兵の声音は、ややきつめだった。

「いけません、姫様。姫様のお身体になにかあったら、我らの首が飛ぶだけではすみません。毒でも混ぜられていれば……」

「そんなこと、ないわ。みんなを信用しているもの」

「それでも、お守りするのが我らの務めにございます」

苦笑する伽耶の手には、携行用の専用食。
徹底管理された王族用の食事。

一方、兵たちは中央の大鍋で調理されたあたたかい昼食を囲んでいる。

伽耶は微笑んだまま、けれどその距離感にふとさみしさを覚える。

(……これが“姫”って立場なんだものね)

自分の食事に視線を落としながら、心の奥ではずっと誠の言葉を思い出していた。

(──ご立派になられましたね、姫様)

"そう見えるなら、あなたのおかげよ"
そう答えた時の自分の笑顔は、きっと今よりまっすぐだった。

だけど。

どうしてだろう。
胸の奥に、冷たいものが残る。

(……寂しい)

そう思ってしまった。






その夜。

野営地にはあたたかな焚き火と笑い声が灯っていた。
中央の大鍋から配られた湯気立つスープに、兵たちは舌鼓を打つ。

伽耶は火を囲んだ兵たちの姿を少し離れた場所から見守っていた。
2人の女官は伽耶のそばに寄り添い、そっと上着をかけてくれる。

夜の空気はどこかざわついていた。

「姫様、お飲み物をお持ちしますね。……すぐ戻りますので」

若い女官の1人がそう告げて、焚き火の脇を離れていく。

その背を見送りながら、伽耶はふと胸元に手を当てた。

(……なぜか、胸騒ぎがする)

理由のわからない不安に、ぎゅっと手が強くなる。
その瞬間だった。



──どさっ。



火のそばで談笑していた兵のひとりが、何の前触れもなく崩れ落ちた。
続いて、またひとり。
さらにまた、ひとり。

「な、なにが……!?」

「隊長!!兵士たちが倒れていきます!!」

ざわめく声の中、慌てて駆け寄る者も、そこで力尽きたように崩れていく。
異変は、瞬く間に広がった。

「毒……!?食事に何かが……!!」

残った兵たちのうち、意識を保っていたのはわずか十数名。
彼らは即座に剣を抜き、姫のもとへと駆け寄る。

「姫様、馬車へお戻りください!!急いで!!」

「な、何が起きているの!?」

「ご説明は後ほど!まずは馬車の中に!」

伽耶は、引っ張られるように残っていた女官と共に馬車へと乗り込む。
そのすぐ後ろで、近衛兵の一人が刃を構えて叫んだ。

「来たぞ!!四方より、武装した集団!!
数、二十を超えます!!」

焚き火の灯りの中、黒い影が迫ってくる。
顔を覆い、装備一式を身に纏った一団は、明らかに“ただの盗賊”ではない。

その異様な統率力と機動性に、近衛兵たちは即座に気づく。

「……っ、これ、ただの山賊じゃない!」

「姫様を馬車の中から出すな!!」

兵たちは、数で勝る敵に向かって陣形を敷く。
風が唸りを上げ、夜の闇が、一気に戦場へと変わった。

その中で、伽耶は馬車の中、女官と肩を寄せ合いながらぎゅっと、膝の上で手を組みしめた。



剣戟の音が、遠ざかっていく。
叫びも、怒号も、地を蹴る足音も、やがて、何も聞こえなくなった。



ただ、静けさだけが満ちていた。

敵が倒れたのか。
味方が倒されたのか。

この静寂が何を意味するのか、伽耶には何もわからない。

「……っ」

馬車の中。
伽耶が膝の上で組んだ手は白く、震えていた。
心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほどに鳴っている。

「姫様……」

女官が高く小さな声で名を呼ぶ。

その声に応えることはできなかった。
できることは、布地越しの外を、ただ見つめることだけ。

(どうなっているの……?)

敵が来た。
近衛兵が剣を構えた。
そこまでしか、わからない。

「……大丈夫……」

小さな声で、呟いた。
それは祈りのようであり、自分に言い聞かせるようでもあった。

闇の中、火の明かりさえ見えない。
月の光すら遮られるような暗闇の中で、視界の代わりに感覚だけが鋭くなっていく。

──ぎ……。

馬車の、戸の蝶番が軋む音がした。
伽耶は、心臓が跳ね上がるのを感じた。


扉は、乱暴に押し開けられた。
布地がめくれ、外の冷たい空気が一気に流れ込む。
その向こうには、剣を携えた見知らぬ男たちが立っていた。
目は濁っており、口元には嗤うような笑み。

「――こんばんは、お姫様?」

ぞっとするほど下卑た声音に、女官がとっさに伽耶の前に立ちはだかった。

「ひ、姫様……」

ほんの少しの間にも、女官の呼吸が速くなるのが分かる。

その背中越しに、粗雑な声が響いた。

「へぇ、まだ起きてたか。よく躾けられてんな、姫様は」

「お下がりください姫様! きゃ……っ!!」

乾いた音が響いた。
男の手が女官の頬を打ち、女官の体が横に倒れ込む。

「やめなさい!!」

伽耶が声を上げ、倒れた女官の前にすっと立ちふさがった。
足は震えている。
けれど、瞳だけは、怯えてなどいなかった。

「この子に手を出せば、舌を噛み切って死にます。あなたたちの狙いは、私でしょう?」

伽耶は、静かに、だが確かな声でそう言った。

戸の隙間から入る冷たい風が、彼女の髪を揺らす。

行かせまいと伽耶の手をつかむ女官の腕をそっとほどき、自らの足で、静かに馬車の外へ降り立つ。

衣擦れの音と共に現れたその姿に、盗賊たちは一瞬、息を呑む。

たとえ震えていたとしても、
たとえ足元がふらついていたとしても、
彼女は王族の姫として、誇りと気高さをその背にまとっていた。

「手は出すなよ」

一人の盗賊が、嘲るように言った。

「傷をつければ減額とのお達しだ」

言いながら、ゆっくりと腰の袋から、小瓶を取り出す。

「では――お姫様には、眠っていただくとしましょうか?」

その言葉と同時に、手にした布が伽耶の顔へ押し当てられる。

「っ……!」

思わず顔を背けようとしたが、男たちは容赦なく腕を掴んだ。

(抵抗すればあの子がまた……)

そう思った瞬間、伽耶の身体は自然と力を抜いた。

仄かに甘い香りが、意識を曇らせていく。

(……誠……)

目の前が、滲んだ。

(……わたし………)

布の下で、瞼が落ちていった。

ふわり、と風が吹いた。
まるで、誰かがすぐ傍まで駆け寄ってきたかのように。








場面は変わる。
夜の城に、重く冷たい報が届けられるのは、
このすぐ後だった。
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