紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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三章 ただ、君を信じて

≪閑話≫不器用な香り袋 前編

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何も見えない真っ暗闇。
自分の手さえも、闇に呑み込まれてしまいそうな。
そんな夜の中に、伽耶はいた。

息が詰まる。胸の奥で、言いようもない恐怖が膨らんでいく。
呼吸がうまくできず、喉がひゅうと鳴った。

「だれか……いないの……?」

震える声で呼びかける。けれど、何も返ってこない。
周囲をきょろきょろと見回しても、なにも見えない。
ただ、闇。
声すら、飲み込まれていくようだった。

そのとき。

ふいに、遠くから光が差し込む。
まぶしいほどの白。目が開けられない。
けれど、そっと瞼を開けると、どこかで聞いた声が響いた。

『――こんばんは、お姫様?』







伽耶は、寝台の上で跳ね起きた。

部屋の隅に置いた灯篭が、静かに揺れている。
見慣れた寝具、帳、棚。
すべて、いつも通りの部屋。

(また……夢……)

夢とは違って、はっきり見える手をそっと見つめる。
真っ白になった指先が、かすかにふるえていた。

窓の外はまだ暗い。鳥の声すら聞こえない静寂の中、伽耶はそっと、自分の膝を抱えた。

(……いったい、何度目かしら)

異変が訪れたのは、救出されてからしばらく経った頃だった。

毎晩、あの闇に引き戻されるような夢を見るようになってしまった。

(助けてもらって、もう大丈夫って……思ったはずなのに)

日中は平気なふりができる。
笑顔も作れる。

けれど、そう言ってしまった手前、誰にも頼れず、夜毎、ひとりで朝を迎える日々が続いていた。

窓の外を見ると、どこか遠くで誰かが持った松明の揺れる光がちらちらと瞬いていた。
それが、この闇にいるのは自分だけじゃないと告げてくれるようで。

伽耶の孤独を、ほんの少しだけ和らげていた。

(だいじょうぶ。もう大丈夫……もう終わったの)

そう言い聞かせても、喉の奥に残るあの猿轡の感触が、指先の縄の跡が、頭の奥で蘇る。

ぎゅっと目を閉じて、吐息のように呟いた。

「こわくない、こわくない……」

静かな声が、夜の中に消えていく。

布団に身を横たえる。

でも。

(……眠れない……)

何度目を閉じても、すぐに胸がきゅうと締め付けられて、涙がにじんでしまう。

闇が襲ってくる。
あの夜と、あの声と、馬車の揺れが、また来る気がして。

――誰か。そばに、いて……

けれど、その願いは誰にも言えず、ただしずかに、また朝を待つ。



寝台の上で膝を抱えた伽耶の足元にうっすら光がさしこむ。

(今日も、夜があけた……)

伽耶はほっと胸を撫で下ろした。

ここ最近、夜眠れないせいで日中が辛くて仕方がなかった。
それでも、悪夢の恐怖よりはましだった。

伽耶はそっと鏡を見る。
目の下の隈に、自分でも気づかないほどの疲れが滲んでいた。

(もうじき女官がくる。そうすれば、化粧できっといつもの姫様に戻れる…)

伽耶はため息をついた。
今朝もまた、何もなかったふりをして、一日が始まる。










朝の光が差し込む書房の片隅。
いつものように誠は伽耶に挨拶をし、机に並んでいた。

けれど。

伽耶が筆を取る手元に、どこかいつもと違う気配を感じていた。

筆の進みが遅い。
焦点の合わない目。
気丈なふりをしているけれど、気づいてしまえば一目でわかる。

(眠れていないな)

誠は声をかけるか迷いながらも、そっと筆を置いた。

「……夜、眠れませんか?」

伽耶ははっとして誠を見た。
そして、一瞬だけ目を伏せ―

「平気よ」

微笑んだ。
いつも通りに美しく。

だが、誠の胸に、どこかちくりと刺さるものがあった。

(……そんな顔、しなくていいのに)

それが「いつも通りに見せようとした」笑顔だと、気づいてしまったから。

「……少し、休みませんか」

穏やかな声色で、そっと差し出すように言葉をかける。
伽耶は唇をかすかに噛み、小さく首を横に振った。

「……でも、また、夢を見そうで……」

その声はふっと弱くなり、目元に一瞬、怯えの影が落ちる。

誠は静かに、彼女のそばに膝をついた。

「私が、ここにいます。うなされていたら、お声をおかけします」

そう言って、そっとその顔を覗き込む。

伽耶は、少し強ばった表情のまましばらく黙っていたが、やがて、こくんと頷いた。

そして机に突っ伏すようにして、目を閉じる。

不安はまだ、心の奥に影を落としていた。

けれど、彼のそばなら、ほんの少しだけ、まぶたを下ろしてもいいと思えた。
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