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四章 初恋の花束
第七話 その手は誰のもの
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櫓の近く、草原の先に広がる花畑に、ふたりはたどり着いた。
朝、櫓に登ったときに見つけ、目をつけていた場所だった。
「わぁ……」
満天の星空が、ネモフィラの群生を青く照らしている。
その幻想的な光景に、伽耶は思わず感嘆の声を漏らした。
「素晴らしいですね。……まさか、こんなところがあったとは」
隣に立つ陽珀もまた、静かに空を見上げる。
二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。
「……姫様は、星がお好きなのですか?」
ふと、翡 陽珀が問いかける。
「そうですね。……こんなに広い星空を見たのは初めてなので。とても、美しいです」
うっとりと星を見つめる伽耶の答えに、陽珀は不思議そうに眉をひそめた。
「初めて?季国でも、いくらでも見られるでしょうに」
伽耶は困ったように微笑み、陽珀を見上げた。
「わたし、みんなに心配をかけてしまうみたいで……宮の中だけで暮らしていたんです。外に出られたのは、ようやく、十歳の時でした」
その声は、大変な事実を語っているとは思えないほど、穏やかだった。
「外の世界は、素晴らしいですね。
星空はどこまでも続き、ところどころに、こんなに美しい花も咲いている。
わたし、もっともっと、世界を知りたいんです」
伽耶は、少し照れたように微笑んだ。
陽珀は、思わず息を呑んだ。
「姫様は……とても前向きで、眩しいお方ですね。
私が貴女だったら、環境を恨み、王族として腐っていたかもしれません」
「……恨んだことも、ありました。でも……」
伽耶は小さく笑った。
「きっと、そんな日々があったから。今、こうして外の世界を見たいって、思えるんだと思います」
ふわりと視線を上げ、満天の星空を見つめる。
「わたし、まだまだ知らないことばかりです。もっともっと、知りたいんです」
伽耶はにこっと笑い、陽珀を見た。
「だから、今回の訓練に来ることができて……本当によかったって、思ってます」
陽珀は息を呑み、搾り出すように声を出した。
「あなたは…外見だけでなく、その内面も……」
陽珀はそっと伽耶の手を取り、その瞳をじっと見つめる。
伽耶は驚いて目を丸くした。
「翡国にいらっしゃいませんか」
陽珀は、静かに、しかしどこまでも力強く言った。
「わたしなら、あなたをどんなところへも連れて行ける。
広い海も、連なる山々も。
……あなたが望むなら、どこへでも」
伽耶が驚きに目を瞬かせた、その瞬間。
陽珀はふっと伽耶の背後に視線を滑らせ、
その目に、ごくわずかに、挑発の色を宿した。
そして、まるで誰かへの勝利宣言のように、
にやり、と笑った。
再び伽耶へと向き直ると、その瞳を真正面から射抜くように見つめる。
「どうか――」
小さく、けれど決して逃さない熱を込めて、陽珀は囁く。
「あなたの望みを、私にも叶えさせてほしい」
その言葉は、まるで夜の静寂を破る鐘の音のように、
伽耶の胸へと深く、深く、響いていった。
「――姫様が、いない?」
誠は思わず立ち止まり、幕屋の兵に聞き返した。
「はい……!先ほどまで休まれていたはずなのですが、気づけば、お姿が……!」
血の気が引く音がした気がした。
(まさか。まさか、また何か……!)
思考よりも早く、体が動く。
胸を締めつける不安を振り払うように、誠は地面を蹴った。
(目星は、2箇所…)
誠はあらかじめ伽耶が脱走した場合の行き先を想定してあった。
それが、丘の上の花畑、そして、小川の近くの花畑。
(今朝、姫様は丘の上にいかれていた。
で、あれば…)
誠は丘の上近くの花畑へ向かって草原を一心に駆けた。
満天の星空の下。
静かに揺れる青い花の海の中で、二つの影が寄り添って立っていた。
(いた……!)
誠はその場に立ち尽くした。
伽耶が共に立っているのは、翡 陽珀その人だった。
陽珀の声が、夜の花畑にしんと響いた。
「わたしなら、あなたをあらゆるところに連れて行ける。
広い海も、連なる山々も。
あなたが望むなら、どこへでも――」
誠は、丘の影から二人を見つめていた。
月の光に照らされた伽耶と陽珀。
寄り添うように立つ姿は、絵巻物から抜け出たように美しかった。
(……美しい)
思わず、心の奥がぎゅっと音を立てる。
(……こんな光景を前に、踏み込む資格が、自分にあるのか)
そのときだった。
陽珀がふと、こちらへ視線をよこした。
目が合った。
にやりと、ほんの少し唇を持ち上げて、
明らかに、誠を挑発するように笑った。
「あなたの望みを、どうか私にも叶えさせてほしい」
その声は、まっすぐ伽耶に向けたものだった。
けれどその響きは、確かに誠の胸を打ち抜いた。
(……そうか。殿下は、わかっているのか。
わたしが、ここにいることを)
伽耶が、何かを言いかけた。
口が、ほんのわずかに開いた。
(その返事を聞くのが、怖い)
誠は、一歩、踏み出した。
そして――
「姫様」
低く、けれど決して揺るがぬ声が、夜の静寂を切り裂いた。
「誠!どうして、ここに……!」
伽耶は驚きに目を見開いた。
だが、誠は答えなかった。
迷いも逡巡も捨て去ったように、まっすぐに歩く。
花々を踏み分け、風を裂くように進み、
陽珀と伽耶の間に、ぴたりと立った。
伽耶を守るように、背にかばいながら。
そして、冷たいほど静かな声で、告げる。
「……翡 陽珀殿下。
これは、さすがに、目に余ります」
その声は、伽耶がこれまで聞いたことのないものだった。
静かで、冷たく、鋭い。
胸を凍らせるような怒りの気配が、確かにそこにあった。
伽耶はびくりと身を縮め、思わず目を伏せた。
(……誠、怒ってる……)
細く震える指先を、必死に握りしめる。
だが、陽珀は少しも動じず、ふっと笑った。
「……私はただ、姫様をお守りしていただけです。
これほど月が美しい夜に、護衛もなく歩く姫君を、見過ごせるとでも?」
ほんの一瞬、言葉を区切って、にやり、と、挑むように笑う。
「……それに。
もし、わたしが姫様を連れ去ったとして――
それが、いったい何が問題なのですか?」
一瞬、空気がきしんだ。
誠は、ぐっと拳を握った。
だが、声を荒げることはしない。
ただ静かに、言葉を絞り出す。
「……姫様。
お戻りになりましょう。夜風がお身体に障ります」
振り返り、そっと伽耶に手を差し出す。
伽耶は、一瞬だけ陽珀を振り返ったが、
すぐに誠の手を取った。
ふたりは何も言わないまま、星降る草原を、静かに歩き出した。
背後から、陽珀の視線が、いつまでも刺さるように追いかけてくるのを感じながら。
幕屋への帰り道、いつもより早足な誠に、伽耶は手を引かれていた。
「あの、誠……」
伽耶がそっと呼びかけても、誠は立ち止まることも振り返ることもなく、ただ前を向いたまま、黙々と歩き続ける。
(誠、怒ってる……)
伽耶は小さく唇を噛みしめる。
ぎゅっと繋がれた手は、いつもよりもほんの少しだけ、力がこもっているような気がした。
沈黙のまま、ただ夜風だけがふたりの間をすり抜けていった。
丘の上に立つと、眼下の幕屋で兵たちが慌ただしく動き回っているのが見えた。
(きっと……わたしがいないことに気づいて、騒ぎになってしまったのね)
伽耶は胸の奥がぎゅっと痛むのを感じた。
そのとき、誠がふいに立ち止まった。
ぎゅっと繋がれていた手が、そっと解かれる。
「姫様。このようなお時間に、おひとりで出歩かれるのは――」
誠の声は、前を向いたまま、かすかに震えていた。
「……危険です。このあたりには、野盗こそおりませんが。野生生物もおりますので」
搾り出すような声音だった。
誠の手は強く握られており、震えているように見えた。
「……ごめんなさい。どうしても、星が見たくて」
伽耶はしゅんと肩を落とした。
誠は前を向いたまま、伽耶の顔を見ることはできない。
「そうであれば、わたしにお申し付けください。……姫様には、殿下が、よろしいかもしれませんが」
最後の一言は、自分でも情けないと思うほど、かすれていた。
風にさらわれ、伽耶の耳に届いたかどうかもわからない。
「誠、わたし……」
伽耶が必死に何かを伝えようと口を開いた、その瞬間。
「さあ、帰りましょう。皆、心配していますので」
誠はそれを遮り、振り返りもせずに歩き出した。
伽耶は呆然と、ただその背中を追いかけるしかなかった。
朝、櫓に登ったときに見つけ、目をつけていた場所だった。
「わぁ……」
満天の星空が、ネモフィラの群生を青く照らしている。
その幻想的な光景に、伽耶は思わず感嘆の声を漏らした。
「素晴らしいですね。……まさか、こんなところがあったとは」
隣に立つ陽珀もまた、静かに空を見上げる。
二人の間に、柔らかな沈黙が流れた。
「……姫様は、星がお好きなのですか?」
ふと、翡 陽珀が問いかける。
「そうですね。……こんなに広い星空を見たのは初めてなので。とても、美しいです」
うっとりと星を見つめる伽耶の答えに、陽珀は不思議そうに眉をひそめた。
「初めて?季国でも、いくらでも見られるでしょうに」
伽耶は困ったように微笑み、陽珀を見上げた。
「わたし、みんなに心配をかけてしまうみたいで……宮の中だけで暮らしていたんです。外に出られたのは、ようやく、十歳の時でした」
その声は、大変な事実を語っているとは思えないほど、穏やかだった。
「外の世界は、素晴らしいですね。
星空はどこまでも続き、ところどころに、こんなに美しい花も咲いている。
わたし、もっともっと、世界を知りたいんです」
伽耶は、少し照れたように微笑んだ。
陽珀は、思わず息を呑んだ。
「姫様は……とても前向きで、眩しいお方ですね。
私が貴女だったら、環境を恨み、王族として腐っていたかもしれません」
「……恨んだことも、ありました。でも……」
伽耶は小さく笑った。
「きっと、そんな日々があったから。今、こうして外の世界を見たいって、思えるんだと思います」
ふわりと視線を上げ、満天の星空を見つめる。
「わたし、まだまだ知らないことばかりです。もっともっと、知りたいんです」
伽耶はにこっと笑い、陽珀を見た。
「だから、今回の訓練に来ることができて……本当によかったって、思ってます」
陽珀は息を呑み、搾り出すように声を出した。
「あなたは…外見だけでなく、その内面も……」
陽珀はそっと伽耶の手を取り、その瞳をじっと見つめる。
伽耶は驚いて目を丸くした。
「翡国にいらっしゃいませんか」
陽珀は、静かに、しかしどこまでも力強く言った。
「わたしなら、あなたをどんなところへも連れて行ける。
広い海も、連なる山々も。
……あなたが望むなら、どこへでも」
伽耶が驚きに目を瞬かせた、その瞬間。
陽珀はふっと伽耶の背後に視線を滑らせ、
その目に、ごくわずかに、挑発の色を宿した。
そして、まるで誰かへの勝利宣言のように、
にやり、と笑った。
再び伽耶へと向き直ると、その瞳を真正面から射抜くように見つめる。
「どうか――」
小さく、けれど決して逃さない熱を込めて、陽珀は囁く。
「あなたの望みを、私にも叶えさせてほしい」
その言葉は、まるで夜の静寂を破る鐘の音のように、
伽耶の胸へと深く、深く、響いていった。
「――姫様が、いない?」
誠は思わず立ち止まり、幕屋の兵に聞き返した。
「はい……!先ほどまで休まれていたはずなのですが、気づけば、お姿が……!」
血の気が引く音がした気がした。
(まさか。まさか、また何か……!)
思考よりも早く、体が動く。
胸を締めつける不安を振り払うように、誠は地面を蹴った。
(目星は、2箇所…)
誠はあらかじめ伽耶が脱走した場合の行き先を想定してあった。
それが、丘の上の花畑、そして、小川の近くの花畑。
(今朝、姫様は丘の上にいかれていた。
で、あれば…)
誠は丘の上近くの花畑へ向かって草原を一心に駆けた。
満天の星空の下。
静かに揺れる青い花の海の中で、二つの影が寄り添って立っていた。
(いた……!)
誠はその場に立ち尽くした。
伽耶が共に立っているのは、翡 陽珀その人だった。
陽珀の声が、夜の花畑にしんと響いた。
「わたしなら、あなたをあらゆるところに連れて行ける。
広い海も、連なる山々も。
あなたが望むなら、どこへでも――」
誠は、丘の影から二人を見つめていた。
月の光に照らされた伽耶と陽珀。
寄り添うように立つ姿は、絵巻物から抜け出たように美しかった。
(……美しい)
思わず、心の奥がぎゅっと音を立てる。
(……こんな光景を前に、踏み込む資格が、自分にあるのか)
そのときだった。
陽珀がふと、こちらへ視線をよこした。
目が合った。
にやりと、ほんの少し唇を持ち上げて、
明らかに、誠を挑発するように笑った。
「あなたの望みを、どうか私にも叶えさせてほしい」
その声は、まっすぐ伽耶に向けたものだった。
けれどその響きは、確かに誠の胸を打ち抜いた。
(……そうか。殿下は、わかっているのか。
わたしが、ここにいることを)
伽耶が、何かを言いかけた。
口が、ほんのわずかに開いた。
(その返事を聞くのが、怖い)
誠は、一歩、踏み出した。
そして――
「姫様」
低く、けれど決して揺るがぬ声が、夜の静寂を切り裂いた。
「誠!どうして、ここに……!」
伽耶は驚きに目を見開いた。
だが、誠は答えなかった。
迷いも逡巡も捨て去ったように、まっすぐに歩く。
花々を踏み分け、風を裂くように進み、
陽珀と伽耶の間に、ぴたりと立った。
伽耶を守るように、背にかばいながら。
そして、冷たいほど静かな声で、告げる。
「……翡 陽珀殿下。
これは、さすがに、目に余ります」
その声は、伽耶がこれまで聞いたことのないものだった。
静かで、冷たく、鋭い。
胸を凍らせるような怒りの気配が、確かにそこにあった。
伽耶はびくりと身を縮め、思わず目を伏せた。
(……誠、怒ってる……)
細く震える指先を、必死に握りしめる。
だが、陽珀は少しも動じず、ふっと笑った。
「……私はただ、姫様をお守りしていただけです。
これほど月が美しい夜に、護衛もなく歩く姫君を、見過ごせるとでも?」
ほんの一瞬、言葉を区切って、にやり、と、挑むように笑う。
「……それに。
もし、わたしが姫様を連れ去ったとして――
それが、いったい何が問題なのですか?」
一瞬、空気がきしんだ。
誠は、ぐっと拳を握った。
だが、声を荒げることはしない。
ただ静かに、言葉を絞り出す。
「……姫様。
お戻りになりましょう。夜風がお身体に障ります」
振り返り、そっと伽耶に手を差し出す。
伽耶は、一瞬だけ陽珀を振り返ったが、
すぐに誠の手を取った。
ふたりは何も言わないまま、星降る草原を、静かに歩き出した。
背後から、陽珀の視線が、いつまでも刺さるように追いかけてくるのを感じながら。
幕屋への帰り道、いつもより早足な誠に、伽耶は手を引かれていた。
「あの、誠……」
伽耶がそっと呼びかけても、誠は立ち止まることも振り返ることもなく、ただ前を向いたまま、黙々と歩き続ける。
(誠、怒ってる……)
伽耶は小さく唇を噛みしめる。
ぎゅっと繋がれた手は、いつもよりもほんの少しだけ、力がこもっているような気がした。
沈黙のまま、ただ夜風だけがふたりの間をすり抜けていった。
丘の上に立つと、眼下の幕屋で兵たちが慌ただしく動き回っているのが見えた。
(きっと……わたしがいないことに気づいて、騒ぎになってしまったのね)
伽耶は胸の奥がぎゅっと痛むのを感じた。
そのとき、誠がふいに立ち止まった。
ぎゅっと繋がれていた手が、そっと解かれる。
「姫様。このようなお時間に、おひとりで出歩かれるのは――」
誠の声は、前を向いたまま、かすかに震えていた。
「……危険です。このあたりには、野盗こそおりませんが。野生生物もおりますので」
搾り出すような声音だった。
誠の手は強く握られており、震えているように見えた。
「……ごめんなさい。どうしても、星が見たくて」
伽耶はしゅんと肩を落とした。
誠は前を向いたまま、伽耶の顔を見ることはできない。
「そうであれば、わたしにお申し付けください。……姫様には、殿下が、よろしいかもしれませんが」
最後の一言は、自分でも情けないと思うほど、かすれていた。
風にさらわれ、伽耶の耳に届いたかどうかもわからない。
「誠、わたし……」
伽耶が必死に何かを伝えようと口を開いた、その瞬間。
「さあ、帰りましょう。皆、心配していますので」
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