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四章 初恋の花束
エピローグ 友情の栞 前編
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厩舎の朝は、まだ静けさに包まれていた。
風がそっと草を揺らし、遠くの方で鶏の声が一度だけ、やさしく響いた。
繋ぎ馬場に佇む白馬――桜華の毛並みが、淡い陽の光を浴びて、金糸のように輝いていた。
「おはよう、桜華。今日もいい子ね」
伽耶がたてがみにそっと手を伸ばすと、桜華は小さく鼻を鳴らし、頬を寄せてくる。
その仕草に、伽耶の頬がふわりとゆるんだ。
「水場の水替えと、飼葉は済んでおります」
報告に来た厩の兵に、伽耶はにこりと微笑んで礼を言うと、ブラシを手に取った。
腹のあたりをゆっくりと撫でていく手つきは、以前に比べてぐっと慣れたものになっていた。
「最初は文句ばかりだったのにね。……ふふ、成長したでしょ?」
桜華が鼻をふん、と鳴らす。
そのとき、隣から、別の気配が近づいてくる。
「姫様、本当に今日は外へ?」
静かな声に振り向けば、誠が己の馬――慎の手綱を引いて現れた。
「ええ、少しだけ。でも平気よ。桜華は、本当にいい子だから」
伽耶はたてがみに頬を寄せたまま、誠に笑みを向けた。
その笑顔に、誠はわずかに眉を動かしたが、すぐに静かな目で、馬同士の様子へと視線を移した。
慎が一歩、桜華に近づく。
桜華は一瞬だけ耳を伏せたが、すぐにその警戒を解き、
ふたりの馬は鼻先をそっと寄せあった。
「行き先は、決めてありますか?」
「ええ。いつもの花畑に、桜華も連れていってあげたくて」
その場所は、誠の遠縁が管理している花畑。
初めてそこを訪れて以来、すっかり気に入った伽耶は、何度か誠にお願いして連れて行ってもらっていたのだ。
「……承知しました。ですが、くれぐれも、わたしから離れないでくださいね」
「はい!」
伽耶は元気よく返事をすると、足台にのぼり、するりと桜華にまたがった。
たてがみにそっと触れ、桜華に囁く。
「……一緒に、お出かけしましょ」
桜華は静かに、でも嬉しそうに鼻を鳴らす。
それを見ていた慎が、小さく首を動かした。
誠がその手綱を握り直し、そっと頷いた。
朝の光の中、ふたつの影が並ぶ。
影はまるで物語そのもののように、美しく揺れていた。
新緑の葉が揺れる森の小道は、朝露を残したまま静かに輝いていた。
木々の合間から差し込む日差しが、まるで金の糸のようにふたりの肩を照らしている。
「綺麗……やっぱり運動場を回るのとは全然違うわね」
桜華の背で、伽耶は目を細めた。
頬に触れる風はやわらかく、草の香りも、どこか懐かしく感じられる。
「桜華も慎も、気持ちがよさそうですね」
誠が慎の首元をぽんぽんと撫でると、慎はぶる、と鼻を鳴らして応えた。
そのやりとりに、伽耶は小さく笑う。
「まさかここに、自分の馬で来られる日が来るなんて。とても嬉しいわ」
乗馬を始めたばかりの頃、緊張でぎこちなく背筋を張っていた伽耶の姿が、ふとよぎる。
けれど今の彼女は、体の芯をしっかりと馬に預け、柔らかな手つきで手綱を操っていた。
「成長されましたね、姫様」
誠が穏やかに目を細める。
「誠と、桜華のおかげね」
伽耶は桜華のたてがみを撫でながら、心からの笑みを浮かべた。
そして――森の道を抜けた先、視界にひらけた景色に、伽耶は目を瞬かせた。
「……あら?」
色とりどりの水仙やチューリップが咲き誇る花畑。
けれどそこには以前にはなかった小道が丁寧に整えられ、
その奥には、白木で組まれた小さな東屋が佇んでいた。
柱からは薄い簾が風に揺れ、どこか柔らかな木の香りが漂っている。
「……こんなに、整っていたかしら?」
伽耶がそう呟くと、隣で誠がわずかに咳払いをした。
「……少し前に、この場所を管理している遠縁の者に、“姫様が大変お気に召していた”と話したことがありまして……その……」
目をそらしながら、誠が言葉を探す。
「どうやら、“また姫様がいらっしゃるかもしれない”と、地元の若者たちが一丸となって――気合いが入りすぎたようです」
「まあ……」
伽耶は馬上からその景色を見渡し、
そして、ふっとやわらかく微笑んだ。
「……とても素敵ね。気に入りましたって、伝えてくれる?」
その笑みは、風よりもやさしく、
誠の胸を――思いがけず深く、温かく貫いた。
「……はい。必ず」
誠は、一瞬だけ言葉を失い、
それから静かに、深く頷いた。
誠がそっと馬を降り、伽耶に手を差し出す。
伽耶は迷いなくその手を取り、軽やかに桜華の背から地に舞い降りた。
手綱を解かれた慎と桜華は、まるで互いの空気を確かめるように鼻を寄せ合い、
やがてふたりから少し離れた場所で、静かに草を食み始めた。
「……繋がなくて平気なの?」
伽耶が振り返ると、誠はわずかに笑みを浮かべて応える。
「大丈夫でしょう。どちらも、利口な馬です」
伽耶は安心したように頷くと、草花のあふれる花畑へと足を進めた。
「……美しいわね。わたしの庭も、こんなふうにお花を植えたい」
その横顔は、どこか懐かしい少女の面影を残していた。
やがて伽耶はふわりと腰を下ろし、柔らかな風に揺れるライラックの茂みを見つめた。
「……これ、少しだけ摘んでもいいかしら?」
「ええ。姫様に摘まれたと聞けば、きっと皆、誇らしく思います」
「もう……そんな大げさな」
くすりと笑った伽耶は、咲きこぼれる薄紫の花から、優しくひと枝を選んだ。
いくつかの花を束ねて、持参した布の間に一輪ずつそっと挟んでゆく。
「こうして乾かせば、栞にできるの。……懐かしいわね。あなたが教えてくれたのよね?」
「……はい。姫様が、熱心に尋ねてくださったので」
誠が思い出すように目を細めたそのとき、
伽耶がふいに、とびきり嬉しそうな声をあげた。
「この花、翡 陽珀殿下に送りましょう!」
誠の動きが、ぴたりと止まった。
「……殿下に、ですか?」
「ええ。だって桜華をくださったのは殿下でしょう? おかげで、わたし、こんなに遠くまで来られたのよ」
「……」
誠は何も言わない。
けれどその手が、紙を扱うように丁寧に花を揃えていた動きから、明らかにぎこちなくなっていた。
伽耶は気づかぬまま、布に花を並べながら、さらりと口にした。
「お手紙も添えましょう。“これは、初めて桜華とお外にお出かけした日に、誠と摘んだものです”って」
「………………」
今度こそ誠の手が止まり、わずかに震えた。
「……姫様」
「なあに?」
「その一文は……差し控えられたほうがよろしいかと」
誠の脳裏に浮かんでいたのは、
あの、翡 陽珀の底知れぬ微笑みと、射抜くような視線だった。
伽耶は花を抱えたまま、きょとんと首を傾げる。
「え?どうして?誠と一緒に摘んだんだもの。素敵な思い出じゃない」
「…………いえ。……いえ。失礼いたしました。何でもございません」
誠はそっと目を伏せ、
深く、ひとつ、呼吸を整えた。
風が、ライラックの香りを連れて通り抜けていく。
空は青く澄んで、
そして誠の心は――、小さな嵐がひそやかに吹き荒れていた。
風がそっと草を揺らし、遠くの方で鶏の声が一度だけ、やさしく響いた。
繋ぎ馬場に佇む白馬――桜華の毛並みが、淡い陽の光を浴びて、金糸のように輝いていた。
「おはよう、桜華。今日もいい子ね」
伽耶がたてがみにそっと手を伸ばすと、桜華は小さく鼻を鳴らし、頬を寄せてくる。
その仕草に、伽耶の頬がふわりとゆるんだ。
「水場の水替えと、飼葉は済んでおります」
報告に来た厩の兵に、伽耶はにこりと微笑んで礼を言うと、ブラシを手に取った。
腹のあたりをゆっくりと撫でていく手つきは、以前に比べてぐっと慣れたものになっていた。
「最初は文句ばかりだったのにね。……ふふ、成長したでしょ?」
桜華が鼻をふん、と鳴らす。
そのとき、隣から、別の気配が近づいてくる。
「姫様、本当に今日は外へ?」
静かな声に振り向けば、誠が己の馬――慎の手綱を引いて現れた。
「ええ、少しだけ。でも平気よ。桜華は、本当にいい子だから」
伽耶はたてがみに頬を寄せたまま、誠に笑みを向けた。
その笑顔に、誠はわずかに眉を動かしたが、すぐに静かな目で、馬同士の様子へと視線を移した。
慎が一歩、桜華に近づく。
桜華は一瞬だけ耳を伏せたが、すぐにその警戒を解き、
ふたりの馬は鼻先をそっと寄せあった。
「行き先は、決めてありますか?」
「ええ。いつもの花畑に、桜華も連れていってあげたくて」
その場所は、誠の遠縁が管理している花畑。
初めてそこを訪れて以来、すっかり気に入った伽耶は、何度か誠にお願いして連れて行ってもらっていたのだ。
「……承知しました。ですが、くれぐれも、わたしから離れないでくださいね」
「はい!」
伽耶は元気よく返事をすると、足台にのぼり、するりと桜華にまたがった。
たてがみにそっと触れ、桜華に囁く。
「……一緒に、お出かけしましょ」
桜華は静かに、でも嬉しそうに鼻を鳴らす。
それを見ていた慎が、小さく首を動かした。
誠がその手綱を握り直し、そっと頷いた。
朝の光の中、ふたつの影が並ぶ。
影はまるで物語そのもののように、美しく揺れていた。
新緑の葉が揺れる森の小道は、朝露を残したまま静かに輝いていた。
木々の合間から差し込む日差しが、まるで金の糸のようにふたりの肩を照らしている。
「綺麗……やっぱり運動場を回るのとは全然違うわね」
桜華の背で、伽耶は目を細めた。
頬に触れる風はやわらかく、草の香りも、どこか懐かしく感じられる。
「桜華も慎も、気持ちがよさそうですね」
誠が慎の首元をぽんぽんと撫でると、慎はぶる、と鼻を鳴らして応えた。
そのやりとりに、伽耶は小さく笑う。
「まさかここに、自分の馬で来られる日が来るなんて。とても嬉しいわ」
乗馬を始めたばかりの頃、緊張でぎこちなく背筋を張っていた伽耶の姿が、ふとよぎる。
けれど今の彼女は、体の芯をしっかりと馬に預け、柔らかな手つきで手綱を操っていた。
「成長されましたね、姫様」
誠が穏やかに目を細める。
「誠と、桜華のおかげね」
伽耶は桜華のたてがみを撫でながら、心からの笑みを浮かべた。
そして――森の道を抜けた先、視界にひらけた景色に、伽耶は目を瞬かせた。
「……あら?」
色とりどりの水仙やチューリップが咲き誇る花畑。
けれどそこには以前にはなかった小道が丁寧に整えられ、
その奥には、白木で組まれた小さな東屋が佇んでいた。
柱からは薄い簾が風に揺れ、どこか柔らかな木の香りが漂っている。
「……こんなに、整っていたかしら?」
伽耶がそう呟くと、隣で誠がわずかに咳払いをした。
「……少し前に、この場所を管理している遠縁の者に、“姫様が大変お気に召していた”と話したことがありまして……その……」
目をそらしながら、誠が言葉を探す。
「どうやら、“また姫様がいらっしゃるかもしれない”と、地元の若者たちが一丸となって――気合いが入りすぎたようです」
「まあ……」
伽耶は馬上からその景色を見渡し、
そして、ふっとやわらかく微笑んだ。
「……とても素敵ね。気に入りましたって、伝えてくれる?」
その笑みは、風よりもやさしく、
誠の胸を――思いがけず深く、温かく貫いた。
「……はい。必ず」
誠は、一瞬だけ言葉を失い、
それから静かに、深く頷いた。
誠がそっと馬を降り、伽耶に手を差し出す。
伽耶は迷いなくその手を取り、軽やかに桜華の背から地に舞い降りた。
手綱を解かれた慎と桜華は、まるで互いの空気を確かめるように鼻を寄せ合い、
やがてふたりから少し離れた場所で、静かに草を食み始めた。
「……繋がなくて平気なの?」
伽耶が振り返ると、誠はわずかに笑みを浮かべて応える。
「大丈夫でしょう。どちらも、利口な馬です」
伽耶は安心したように頷くと、草花のあふれる花畑へと足を進めた。
「……美しいわね。わたしの庭も、こんなふうにお花を植えたい」
その横顔は、どこか懐かしい少女の面影を残していた。
やがて伽耶はふわりと腰を下ろし、柔らかな風に揺れるライラックの茂みを見つめた。
「……これ、少しだけ摘んでもいいかしら?」
「ええ。姫様に摘まれたと聞けば、きっと皆、誇らしく思います」
「もう……そんな大げさな」
くすりと笑った伽耶は、咲きこぼれる薄紫の花から、優しくひと枝を選んだ。
いくつかの花を束ねて、持参した布の間に一輪ずつそっと挟んでゆく。
「こうして乾かせば、栞にできるの。……懐かしいわね。あなたが教えてくれたのよね?」
「……はい。姫様が、熱心に尋ねてくださったので」
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誠の動きが、ぴたりと止まった。
「……殿下に、ですか?」
「ええ。だって桜華をくださったのは殿下でしょう? おかげで、わたし、こんなに遠くまで来られたのよ」
「……」
誠は何も言わない。
けれどその手が、紙を扱うように丁寧に花を揃えていた動きから、明らかにぎこちなくなっていた。
伽耶は気づかぬまま、布に花を並べながら、さらりと口にした。
「お手紙も添えましょう。“これは、初めて桜華とお外にお出かけした日に、誠と摘んだものです”って」
「………………」
今度こそ誠の手が止まり、わずかに震えた。
「……姫様」
「なあに?」
「その一文は……差し控えられたほうがよろしいかと」
誠の脳裏に浮かんでいたのは、
あの、翡 陽珀の底知れぬ微笑みと、射抜くような視線だった。
伽耶は花を抱えたまま、きょとんと首を傾げる。
「え?どうして?誠と一緒に摘んだんだもの。素敵な思い出じゃない」
「…………いえ。……いえ。失礼いたしました。何でもございません」
誠はそっと目を伏せ、
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