紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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六章 その背に祝福を

第九話 目を逸らす理由

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「視察は取りやめた。伽耶様、本日も共に学びましょう!」

ぱあっと笑顔を咲かせて現れた玲淵に、誠の目がすうっと細まった。

(……ですよね)

覚悟していたとはいえ、やはりという感情が胸にのしかかる。
手元の筆がわずかに震えているのは、きっと気のせいではない。

そして玲淵の背後。
またしても、従者は鳩尾を押さえてぐったりとしていた。

「殿下……本当に、よろしいのですか?
お付きの方も、心配しておいでかと……」

伽耶が申し訳なさそうに声をかけると、従者が無理に笑って首を振る。

「姫様には感謝しております……殿下が、あのようにご機嫌なお顔をされるのは……初めてでして……」

従者の小さな声に、伽耶は目を丸くした。
視線の先では、玲淵が胸を張って得意げに立っている。
まるで、遊びに勝った子どものように、満ち足りた笑顔を浮かべながら。

伽耶はそっと誠に目を向けた。
彼女の視線に気づいた誠は、静かに頷いて応える。

「では……本日は、昨日の続きを進めていたところだったんです。誠、その……よろしくね?」

ほんのわずかに言葉を濁した伽耶の声音に、誠は一礼して答えた。

「全力で……お支えいたします」

それはもはや、戦場に立つ者の覚悟だった。

こうして――
今日もまた、陸誠の精神鍛錬の日々は、静かに幕を開けたのだった。







午後、訓練場の片隅。
焉明と誠は並んで立ち、視察帰りの将兵たちの報告に耳を傾けていた。

一通りのやりとりが終わると、焉明がちらりと横目で誠を見た。

「……朝は、賑やかだったそうだな?」

誠は一瞬、手にしていた巻物の動きを止めた。

「……何のことでしょうか」

「とぼけるな。玲淵殿下の馬上訓練の話、もう兵たちの間では笑い話になってる」

焉明の声はあくまで静かだったが、どこかふわりとした柔らかさがあった。

「それだけなら、まだ良い。問題は、お前が“全力で仕えていた”という話だ」

「……それは、私の職務です」

誠は端整な横顔を崩さぬまま答えたが、眉の動きがほんの僅かに強張った。

焉明はその表情を見逃さない。

「……誠坊。ひとつだけ訊いていいか?」

「……なんでしょう」

「お前、最近よく“目を伏せる”よな」

「……は…?」

「伽耶姫が誰かと笑ってる時。
今だと特に、あの玲淵殿下といる時――お前、ほとんど彼女を見ない。代わりに、よく地面とか手元を見てる」

誠は、何も言わなかった。

焉明は肩をすくめ、空を見上げる。

「……まあ、理由はどうでもいい。
ただ、ひとつ忠告するなら――」

言葉の先を、少しだけ間を置いて、やわらかく続ける。

「目を逸らすってのは、気づかれたくないものがある時にする動きだ」

「……」

「自覚があるなら、それでいい。
でも、ないなら――少し、自分を見つめてみた方がいい。お前、そういうの、意外と苦手だろ」

誠は、目を伏せたまま黙っていた。

けれど、その喉元がわずかに動いたのを、焉明は確かに見た。

そしてそれ以上、何も言わずに歩き出した彼の背に、誠は静かに頭を下げた。






夕暮れの回廊。
沈みかけた陽が、石畳の影を長く伸ばしていた。

誠は静かに腰を下ろし、手入れを終えたばかりの布を膝の上で丁寧に折りたたむ。

(……目を、逸らしていた)

焉明の言葉が、何度も胸の奥で反響する。

誠は、そっと拳を握った。

風が吹き抜けるたびに、胸の奥に沈んでいたものが、ゆっくりと掻き回されていくようだった。

(あの雪の夜、あなたのために生きたいと思った。それだけで、足りると思っていた)

伽耶の隣に立ち、彼女の願いを支え、命を懸けて守り抜くこと。
それが、自分の愛し方だと、そう信じていた。

けれど――
今日、目の当たりにした光景は、胸の奥に封じていた感情の、もっと深いところを突いた。

玲淵の隣で、優しく微笑む伽耶。

幼い王子の寂しさに寄り添い、小さな我儘に困ったように笑って、けれどちゃんと向き合って応えていた彼女の姿。

(……まぶしかった)

伽耶が誰かに微笑むたびに、その“誰か”になりたいと思ってしまった。

彼女の優しさが、自分だけに伸ばされることを、望んでしまった。

(これは、私の、醜い独占欲……)

誠はかたく目を閉じた。

(姫様は子供に優しくしているだけだというのに、自分が情け無い……)

自分のなかの想いが、もう胸にしまっておけるような穏やかなものではないのだと、思い知らされた。

(……私は、きっともう戻れない)

だからこそ。

(今日も、あの笑顔を守れたのなら、それでいい)

そう繰り返すことでしか、今は自分を保てなかった。

誠はそっと立ち上がる。

夕陽が、ゆっくりと回廊を染めていた。








誠も、玲淵も帰ったあと、伽耶はしばらく席を立てずにいた。

机の上には、まだ今日の復習用に広げたままの書が残っている。
けれど目は文字を追わず、自然と心は、ほんの少し前のことを思い出していた。

(……誠、なんだか今日は変だった)

いつもと同じように礼をして、
静かに扉の向こうへと消えていった背中。

それなのに――どうしてだろう。
今日はその背中が、遠く感じた。

それに、ほんの一瞬だったけれど。
横顔が、ほんの少しだけ…寂しそうに見えた気がする。

「……おかしいな」

伽耶はひとりごとのように呟いて、自分の胸に手を当てる。

その手の下で、まだ心臓がどくん、どくんと、音を立てていた。

玲淵と過ごした時間は楽しかったはずなのに。
子供らしくて可愛いと思ったし、昨日は膝に頭をのせてくれたのも、なんだか嬉しかったのに――

なのに、どうして。

(どうして、誠の顔が、こんなに浮かぶの?)

机にしまった筆を撫でながら、昼間の光景をそっと思い出す。

「おまえは帰っていいぞ」「今日は僕が来たからな」

あんなふうに張り合うように言っていた玲淵を、困ったなぁと思いながらも、どこか微笑ましく思っていた。

けれど、それを聞いていた誠の顔が、どうしても頭の奥に、焼きついたように残っていた。

(……どうして、こんなにも気になるの?)

風が、すうっと吹いて、髪を揺らす。
伽耶はそれをそっと耳にかけ、宮の外へと目を向けた。

夕焼けの光がやわらかく差し込むなか、
彼女はしばらく、静かに空を見上げていた。

言葉にできない想いが、胸の奥でふわふわと揺れている。

(……なんだろう、この気持ち)

それは、まだ名前のない感情だった。
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