紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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六章 その背に祝福を

第八話 早朝襲来、王子六歳

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翌朝、まだ空が淡く白む前。

誠は静かに廊下を歩いていた。
手には桜華のために用意したいつもの干し草と手入れ道具。
静まり返る宮の朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりと息を整える。

(この朝の時間だけは…姫様と二人だけの、静かなひととき…)

そう思えば、自然と歩みにも張りが出る。

昨日は玲淵殿下の急襲によって予定が狂わされたが、まさかこの時間までは現れまい。

そう信じていた。

だが。

「おい、遅いぞ。もうお前は帰っていい。今日は僕が来たからな」

廊下の先、朝靄のなか。
仁王立ちする玲淵の姿が、視界のすべてを埋め尽くすように立ちはだかっていた。

誠は一歩踏み出した足を、そのまま空中で止めた。

「……おはようございます、殿下」

精一杯の冷静さを保って頭を下げると、玲淵はふん、と鼻を鳴らした。

その横には、困ったような微笑みを浮かべる伽耶が立っている。

「おはよう誠。玲淵殿下が桜華のお世話を手伝ってくださるそうなの。わたしも、驚いたのだけど」

「昨日、おまえが早朝来ると言っていたからな。女官に聞いた」

玲淵は胸を張りながら、堂々と口を開く。

「僕は馬の扱いにも慣れているし、昨日も読んだんだぞ。『軍馬の心得』。
よって、僕のほうが適任だ。だから、帰っていいぞ」

誠は一度、空を見上げた。
明けきらぬ空に、どこまでも静かに心の声が響いた。

(……六歳。朝から全力で張り合ってくる六歳。女官に聞き込みをし、しかも軍馬の本を読んできている……)

静かに目を伏せながら、誠は心の中でそっと言葉を噛みしめた。

(これはもう、戦いだ)

誠は拳を握りしめた。









厩舎への道すがら、玲淵はぴたりと伽耶の隣を離れない。
手を繋ぎ、まるで当然のように会話を独占し、誠には「その水桶、ずれてるぞ」などと的外れな指示を出す始末。
それでも誠は黙って従い、にこやかな顔を崩さなかった。

(……陛下、どうかご覧になってください。わたくしは、いま人生で最も理不尽な任務に挑んでおります)

そんな祈りが心をよぎった、その時だった。

「桜華に、乗ってみたいです!」

玲淵の言葉に、誠の眉がぴくりと動く。

(……昨日“妙に立派な馬”と評した口が……!)

すぐさま玲淵は桜華を運動場へ連れ出すよう命じ、さらには踏み台からひらりと乗ると、まるで当然のように馬上から伽耶へと手を差し出した。

「伽耶様、どうぞ!」

伽耶は少し戸惑いつつも、玲淵の熱心な視線に根負けしたように桜華の背へと乗り込む。

玲淵の背後から、伽耶の手が手綱にまわる。

まるで抱きしめているかのような構図――その全てを、誠は黙って見届けていた。

「……いってらっしゃいませ」

誠が、絞るような声でそう告げると、玲淵は桜華をゆっくりと進ませていく。
伽耶は困ったように誠に小さく手を振り、手綱を握り直した。

誠の中で、何かが静かにきしんだ気がした。

(……明日は、もっと早く来よう)

ふたりの背が、朝の陽に溶けるように小さくなっていくのを見送るしかできず――
それでも、そこに滲む笑い声だけが、風に乗って誠のもとに届いていた。

そのときだった。

「……あの。我が殿下が、申し訳ありません」

隣で、小さく、ひそやかな声がした。
顔を向けると、玲淵の従者が胸元を押さえながら頭を下げていた。

昨日からずっと、鳩尾のあたりをさすっている姿が印象的だったが、どうやら今日も、あまり状態はよろしくないらしい。

「いえ。お気になさらず」

誠はそっと頭を下げ、穏やかに返す。

(この方もまた、……並々ならぬご苦労をされているのだな)

ちらりと視線を落とすと、彼の手はやはり、鳩尾をかばうように動いていた。

それを見て、従者は少し困ったように笑みを浮かべる。

「殿下は昔から、負けず嫌いでして。なにかと、玄騎様と比べられることが多うございまして……」

「……左様ですか」

誠は静かに目を伏せ、言葉少なに頷いた。

「伽耶姫様には、心より感謝しております。あのように楽しそうなご様子の殿下は……私も、初めて拝見いたしました」

その目は、遠くに見えるふたりへと向けられていた。

玲淵が、なにかを見つけたのだろう。
指を差し、伽耶とともに笑い合っている。

やわらかく、まっすぐで、幼い笑顔。
誠は胸の奥が、きゅうっと掴まれるような感覚にとらわれる。

「伽耶姫様も、いつか燿国にお輿入れなさるようなことがあれば。どれほど素晴らしいことでしょう」

その言葉に、誠の肩がぴくりと揺れた。

……胸のどこかに、鋭く冷たいものが走った気がした。

誠はただ静かに曖昧な笑みだけを浮かべた。

その時――
遠くから、朝の鐘の音が届く。

カン、カン、カン……

「姫様。そろそろお戻りのお時間です」

声をかけると、馬上の伽耶が軽やかに手を挙げた。

「玲淵殿下も、今日は視察のご予定ですから。きっとまた明日、お会いできますね」

従者の言葉に、誠は小さく頷く。

(……ようやく、平穏な一日が戻ってくる)

淡い期待を抱きながら、桜華をひき、伽耶とともに歩き出した――その、ほんの数刻後だった。
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