紅に咲く ー鳥籠の姫君と忠義の軍師ー

やまだ

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七章 紅に咲く

第九話 始まりの闇

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伽耶は中庭の隅に立つ、大きな木へと向かっていた。
かつて“秘密の場所”と呼んでいたその木に手をかけ、塀へと身をよじ登る。

幼い頃には遠くを眺めるだけだった高い塀も、今はもう怖くない。
枝を伝い、伽耶は軽やかに塀の外へと降り立った。

左右を見渡す。
人の気配はない。
遠くに設置された松明の灯だけが、風に揺れていた。

(急がなければ……城門は、どっち……?)

月も雲に隠れ、辺りは暗い。方角も心許ない。

見つかれば処罰は免れない。
いや、むしろ立場があるからこそ、罰は重いかもしれない。

焦りに胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
だが、あの、紫宸の目を思い出す。

獲物を見定めるような、冷たく湿った眼差し。

伽耶は目を閉じ、胸に手を置いた。

(大丈夫、大丈夫……)

ゆっくりと息を吸い、吐く。
鼓動は、少しずつ、落ち着きを取り戻していった。

思い出すのは、誠と散歩したあの日のこと。

確か城門の近くに、物見台があった。
夜でも明かりが灯っていたはず。

目を凝らす。
高い位置に、小さく揺れる灯が見えた。

(……あそこだわ)

なるべく目立たぬよう、されど足早に、伽耶はそっと歩みを進めた。






やがて城門が見えてくる。

柱の陰に身を寄せ、様子をうかがう。

門には兵がふたり。
笑い声が、かすかに聞こえていた。

伽耶はそっと衣服を確認する。
華蘭が嫁入りの折に譲ってくれた、女官の薄桃色の服。
「お忍び用」と語っていたその装いは、やや古びていたが、かえって馴染んで見えた。
髪も女官たちのように、一つに結い上げてある。

(暗がりなら、そうそう気づかれはしないはず……)

伽耶は背筋を伸ばし、小包みを抱えたまま兵の前へと歩み出る。

「こんばんは」

笑顔を浮かべて挨拶すれば、兵たちは一瞬目を丸くしたが、すぐに片手を上げて応じた。

「伽耶姫様に、至急の遣いを命じられまして。こちら、陸誠様からの許可証です」

伽耶は小包みから紙を取り出し、署名と印の箇所をそっと指差した。
以前に受け取った手紙を使ったのだ。

この暗さなら内容までは読まれまい。
それに、総雅がよく嘆いていた。
兵の識字率の低さを。

案の定、兵たちは署名だけを見て顔を見合わせ、うなずいた。

「陸誠様の許可か。……よし、通っていい」

「こんな夜更けにご苦労さま。気をつけてな」

「ありがとうございます」

伽耶は柔らかく微笑み、静かに城門をくぐる。
その背はすっと闇へと溶けていった。








(……やった。やった!)

城門が見えなくなった瞬間、抑えていた感情が溢れ、伽耶は思わず駆け出していた。

汗が首筋をつたう。
肺が焼けつくように痛み、脇腹が引きつる。それでも、足を止める気にはなれなかった。
――止まったら、誰かに捕まってしまう気がして。

月も隠れた真っ暗な街道を駆け下りると、ようやく、城下町のわずかな明かりが遠くに浮かび上がる。

(……いけない。落ち着いて)

脇の木に手をつき、乱れた呼吸を整える。
そして、小包から取り出した布を頭から巻いて顔を隠すと、ゆっくりと歩き出した。

計画は、頭の中にある。

それは、ずっと昔。
誠との、何気ない会話がきっかけだった。




中庭の木陰で、本を読んでいた日。
ページをめくる手を止めて、ふと、彼に尋ねた。

「ねえ誠、この主人公、途中で捕まっちゃったじゃない?どうしたら逃げられたのかしら。あなたなら、どうする?」

「……そうですね。わたしなら、人混みに紛れます。人の流れが絶えない街であれば、追手も見つけづらい。
それに、身を隠す場所も、逃げ道も多いですから」




伽耶はその言葉を、なぜかずっと覚えていた。

そう――この足では、そう遠くへは行けない。
軍馬に乗った兵に追いつかれるのは、時間の問題。
遠方の商団に紛れても、検問であっさり見つかってしまう。

ならば、逃げるのではなく、“潜る”。

ほとぼりが冷めるまで、城下に紛れて息を潜める。
伽耶は、そう決めていた。




……だが。

しん、と静まり返った城下町は、伽耶の想定とはまるで違っていた。

(以前来た時は、人でいっぱいだったのに……)

今は夜更け。
灯りも、人影もほぼない。

遠くに見える男はふらつくように歩いている。
道端に倒れた誰かは、ぴくりとも動かない。

ぶるっ、と背中が震えた。

(どうしよう、どうしよう……)

思わず走り出す。

(誰か、だれか……)

石畳に足を取られ、転ぶ。

じわ、と膝に痛みがにじむ。

(……こわい……)

ぎゅっと目を閉じた、その時。

笛の音が、遠くから、かすかに聞こえた。

はっと顔を上げる。

建物の上に、ぼんやりと光が。

(いってみよう)

荷物を握りしめ、伽耶は立ち上がった。
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