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七章 紅に咲く
第十五話 もう少しだけ
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その頃。
ところどころ綻んだ布の隙間から、幕屋の中へいく筋もの朝の光が差し込んでいた。
「……ん……」
伽耶は小さくうめくように声を漏らし、むくりと上体を起こす。
鈍く重い体と、ぼんやりと霞む頭の奥を、昨夜の記憶がゆっくりとよみがえっていく。
(……わたし……逃げたんだ……)
視線を巡らせれば、酒瓶が無造作に転がり、木箱が積まれた簡素な幕屋の中に人の姿はない。
胸の奥を、小さな不安がそっと爪先でなぞっていく。
(……あの城を出てしまったんだ……)
目をぎゅっと閉じて、恐ろしさを追い払うように首を振る。
そのとき、背後から低く太い声がふいに響いた。
「あら、起きたの?」
思わずびくりと肩を揺らし、振り向いた伽耶の目に飛び込んできたのは、昼間の姿に戻った胡蝶だった。
青髭の浮いた頬に、鍛え上げられた大きな肩。何より目立つつるつるの頭。
伽耶は息を飲み、唇をぱくぱくと動かした。
「あら、失礼ね。胡蝶よ、昼の顔ってだけ」
胡蝶はにやりと笑い、傍にあった木箱を軽々と持ち上げる。
「蝶ちゃ~ん、その荷は……おや、起きたの?」
「おそよう~……酒残ってない……?……あたしもう無理……」
胡蝶の背後から、陽炎と初音の声が重なる。
髪こそあるものの、二人の輪郭も昨夜とはまるで違い、ごつごつとした腕や、うっすらと青い髭がかすかに朝の光を弾いていた。
初音は肩を落としてへろへろと笑い、陽炎は伽耶の目の前に回り込んで得意げに指を立てる。
「気づいてなかったでしょ?あたしたち、化粧さえあれば無敵なのよ~」
陽炎が木箱をひょいと担いで幕屋の外へ。
初音もふらふらと木箱を抱え、手招きを残して後に続く。
伽耶は慌てて同じように木箱を抱えたが――
「待った!」
胡蝶の太い声に、思わず足を止める。
胡蝶はどこからかくしゃりと丸めた布を取り出し、伽耶に差し出した。
「あんた、これを使いなさい。あたしの昔の包帯だけど、ちゃんと洗ってあるわ」
包帯は少し色褪せていたが、清潔で、どこか頼もしげだった。
「あんたは顔に火傷があって隠してる。
それで通すの。いいわね?」
胡蝶の視線は、本気だった。
伽耶はその真剣さを胸で受け止め、そっと包帯を抱きしめる。
「……ありがとうございます」
(これで……わたしは、もう姫様じゃない……)
微かに胸の奥で呟いて、そっと息を吐いた。
「……それとね、二胡」
胡蝶が木箱を脇に抱え直し、伽耶をぐっと見据える。
「あんたの首飾りのおかげで、あたしたち馬を買えたの。二、三日で次の国へ渡るわ。……ついて来るんだろ?」
伽耶は一瞬だけ瞼を伏せたのち、迷いのない瞳を胡蝶へ向けて返した。
「……はい。わたしも、一緒に連れて行ってください」
胡蝶は小さく鼻を鳴らし、口元をつい、と緩めた。
「いい子だ」
朝の光が、古い幕屋の布の裂け目からまた一筋、静かに差し込んだ。
幕屋に身を隠したその夜から、
伽耶の時間は、初めて味わう優しさに満ちていた。
── 朝。
陽炎の大きな手に頬を包まれ、「起きなさーい」と頬をくすぐられる。
眠そうに「もう少しだけ……」と拗ねると、胡蝶に頭を叩かれ、門さんの渋い声が奥から笑い声を混ぜる。
── 昼。
初音がくれた大きな花柄の布を腰に巻き、小さな台所で胡蝶の得意料理を真似する。
「玉ねぎで泣いてんじゃないわよ」と笑われ、傍では門さんが縫い物を直しながら、「そっち切りすぎだぞ」とぼやく声が優しい。
── 夕方。
陽炎が幕屋の外で大道芸を見せると、鼓が横で太鼓を叩き、瞳が小さな笛で寄り添って音を重ねる。
伽耶は二胡を弾きながら、笑顔で拍子を取り、集まった子供たちに頭を撫でられて頬を染めた。
── 夜。
胡蝶の腕枕を奪い合って初音と陽炎が小声で喧嘩する横で、鼓と瞳は藁布団を抱え込んでくすくす笑い合っている。
伽耶はそのすぐ隣で、藁布団の冷たさも忘れて小さく笑った。
「もう少し……もう少しだけ……」
まるで幼い頃の夢を、今になって見ているような。
遠い場所でずっと欲しかった「家族」という言葉が、この小さな幕屋の灯に宿っていた。
知らないうちに小さな寝息を立てる伽耶の耳元で、胡蝶がそっと囁いた。
「あんたはもう、うちの子だからね。」
あっという間に、10日が経とうとしていた。
だがその頃、
遠く離れた城では誠が机の上の香り袋を見つめ、烈翔が声を荒げ、紫宸の使いが季国の門を叩こうとしていた。
彼女がその予感に気づくのは、まだ少し先のこと――。
ところどころ綻んだ布の隙間から、幕屋の中へいく筋もの朝の光が差し込んでいた。
「……ん……」
伽耶は小さくうめくように声を漏らし、むくりと上体を起こす。
鈍く重い体と、ぼんやりと霞む頭の奥を、昨夜の記憶がゆっくりとよみがえっていく。
(……わたし……逃げたんだ……)
視線を巡らせれば、酒瓶が無造作に転がり、木箱が積まれた簡素な幕屋の中に人の姿はない。
胸の奥を、小さな不安がそっと爪先でなぞっていく。
(……あの城を出てしまったんだ……)
目をぎゅっと閉じて、恐ろしさを追い払うように首を振る。
そのとき、背後から低く太い声がふいに響いた。
「あら、起きたの?」
思わずびくりと肩を揺らし、振り向いた伽耶の目に飛び込んできたのは、昼間の姿に戻った胡蝶だった。
青髭の浮いた頬に、鍛え上げられた大きな肩。何より目立つつるつるの頭。
伽耶は息を飲み、唇をぱくぱくと動かした。
「あら、失礼ね。胡蝶よ、昼の顔ってだけ」
胡蝶はにやりと笑い、傍にあった木箱を軽々と持ち上げる。
「蝶ちゃ~ん、その荷は……おや、起きたの?」
「おそよう~……酒残ってない……?……あたしもう無理……」
胡蝶の背後から、陽炎と初音の声が重なる。
髪こそあるものの、二人の輪郭も昨夜とはまるで違い、ごつごつとした腕や、うっすらと青い髭がかすかに朝の光を弾いていた。
初音は肩を落としてへろへろと笑い、陽炎は伽耶の目の前に回り込んで得意げに指を立てる。
「気づいてなかったでしょ?あたしたち、化粧さえあれば無敵なのよ~」
陽炎が木箱をひょいと担いで幕屋の外へ。
初音もふらふらと木箱を抱え、手招きを残して後に続く。
伽耶は慌てて同じように木箱を抱えたが――
「待った!」
胡蝶の太い声に、思わず足を止める。
胡蝶はどこからかくしゃりと丸めた布を取り出し、伽耶に差し出した。
「あんた、これを使いなさい。あたしの昔の包帯だけど、ちゃんと洗ってあるわ」
包帯は少し色褪せていたが、清潔で、どこか頼もしげだった。
「あんたは顔に火傷があって隠してる。
それで通すの。いいわね?」
胡蝶の視線は、本気だった。
伽耶はその真剣さを胸で受け止め、そっと包帯を抱きしめる。
「……ありがとうございます」
(これで……わたしは、もう姫様じゃない……)
微かに胸の奥で呟いて、そっと息を吐いた。
「……それとね、二胡」
胡蝶が木箱を脇に抱え直し、伽耶をぐっと見据える。
「あんたの首飾りのおかげで、あたしたち馬を買えたの。二、三日で次の国へ渡るわ。……ついて来るんだろ?」
伽耶は一瞬だけ瞼を伏せたのち、迷いのない瞳を胡蝶へ向けて返した。
「……はい。わたしも、一緒に連れて行ってください」
胡蝶は小さく鼻を鳴らし、口元をつい、と緩めた。
「いい子だ」
朝の光が、古い幕屋の布の裂け目からまた一筋、静かに差し込んだ。
幕屋に身を隠したその夜から、
伽耶の時間は、初めて味わう優しさに満ちていた。
── 朝。
陽炎の大きな手に頬を包まれ、「起きなさーい」と頬をくすぐられる。
眠そうに「もう少しだけ……」と拗ねると、胡蝶に頭を叩かれ、門さんの渋い声が奥から笑い声を混ぜる。
── 昼。
初音がくれた大きな花柄の布を腰に巻き、小さな台所で胡蝶の得意料理を真似する。
「玉ねぎで泣いてんじゃないわよ」と笑われ、傍では門さんが縫い物を直しながら、「そっち切りすぎだぞ」とぼやく声が優しい。
── 夕方。
陽炎が幕屋の外で大道芸を見せると、鼓が横で太鼓を叩き、瞳が小さな笛で寄り添って音を重ねる。
伽耶は二胡を弾きながら、笑顔で拍子を取り、集まった子供たちに頭を撫でられて頬を染めた。
── 夜。
胡蝶の腕枕を奪い合って初音と陽炎が小声で喧嘩する横で、鼓と瞳は藁布団を抱え込んでくすくす笑い合っている。
伽耶はそのすぐ隣で、藁布団の冷たさも忘れて小さく笑った。
「もう少し……もう少しだけ……」
まるで幼い頃の夢を、今になって見ているような。
遠い場所でずっと欲しかった「家族」という言葉が、この小さな幕屋の灯に宿っていた。
知らないうちに小さな寝息を立てる伽耶の耳元で、胡蝶がそっと囁いた。
「あんたはもう、うちの子だからね。」
あっという間に、10日が経とうとしていた。
だがその頃、
遠く離れた城では誠が机の上の香り袋を見つめ、烈翔が声を荒げ、紫宸の使いが季国の門を叩こうとしていた。
彼女がその予感に気づくのは、まだ少し先のこと――。
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