108 / 110
七章 紅に咲く
第十八話 わたしの帰る場所
しおりを挟む
「……誠……」
わずかに開かれた唇から漏れた声が、
焚き火の揺らぎさえも、時間さえも、止めた。
胸の奥で、凍りついていた何かが、いとも簡単に、ほどけていく。
(……姫様)
誠の指先が、わずかに震えた。
「姫様……ご無事で、何よりでございます」
そっと膝をつき、静かに頭を下げる。
まだ周囲では子供たちの笑い声が響き、幕屋の者たちも、誰一人としてこの空気に気づいてはいない。
ゆっくりと顔を上げると、包帯の奥に覗く、あの瞳があった。
丸く見開かれたまま、今にも泣き出しそうに震えている。
(……怯えていらっしゃる……わたしに……)
胸の奥がきしむ音がした。
「……お帰りくださいませ。陛下が……どれほどお案じか……」
掠れそうになる声を必死に整え、誠は一歩、伽耶へと近づく。
「ねえ、二胡?何があったの……?」
舞子のひとり、陽炎が、ようやく異変に気づき、慌てて胡蝶を呼ぶ声を上げた。
(……騒ぎ立てられるのはまずい――)
誠は立ち上がると、伽耶の手をそっと取ろうとした。
「さあ、姫様――参りましょう」
差し伸べた手に、伽耶の肩がびくりと震える。
伏せられた視線が、揺れる焚き火を映していた。
「ひ、姫さまぁ……!?」
陽炎の悲鳴が夜気を裂く。
その声をかき消すように、胡蝶がゆっくりと前に出た。
烈翔にも引けを取らぬ大柄な身体を誠の前に滑り込ませる。
「……誰だか知らないけど。この子は“うちの子”よ」
低く、鋭く。
月の下に、胡蝶の声が落ちた。
「見なさい……顔には火傷があるの。無理に剥がすつもり?」
胡蝶は背後の伽耶に、そっと肩を触れる。
「あんた……今のうちに逃げな。……まだ間に合う」
(……無駄だ――)
誠は僅かに瞳を伏せ、淡く言葉を落とした。
「……兵が、幕屋を取り囲んでおります。
これは王命です。
……従わなければ――
貴方方もまた、反逆の罪に問われましょう」
胡蝶はぐ、と唇を噛む。
揺らぐ火の粉が、月明かりとともに、誠の影を伸ばしていた。
陽炎と初音が静かに伽耶の両脇に座り、鼓も瞳も、門も伽耶のそばに控えた。
そこに集まった皆が、誠をきっと睨んでいる。
誠からは、胡蝶が邪魔して、伽耶の表情を窺い知ることはできなかった。
「さすがは、誠ですね。ここまで、逃げていたのに……」
「二胡……」
胡蝶が伽耶をそっと振り返る。
伽耶は頭の後ろに手を伸ばすと、包帯の結び目をゆっくりとほどいた。
くるくると白布が外れ、月明かりの下に現れたのは、誠が何度も夢に見たあの面影。
その顔には微笑みが浮かんでいた。
だが、その瞳だけは――
少し前にも見た、何かを諦めたときのあの瞳と同じ色をしていた。
伽耶は小さく息を吐き、ほどいた包帯を胡蝶へと手渡す。
「……お世話になりました」
わずかに震えた声が、焚き火のはぜる音にかき消されそうだった。
ゆっくりと――
まるで、ひとりひとりの顔を最後に胸に刻むように。
伽耶は陽炎を、初音を、鼓を、瞳を、門を見つめた。
「幕屋の中に荷があります。処分してください。」
立ち上がったその背は、小さく震えていた。
胡蝶の横を通り抜け、誠の前に歩み出た伽耶は、冷たい瞳で、まるで臣下を叱責するかのように言い放つ。
「この者たちは、素性も知れぬわたしを保護してくれました。
罰することは許しません」
一瞬、誠は息を止めた。
伽耶のその瞳は、自分を“誰か”と同じに落とした、絶対の壁だった。
「……はい。姫様、こちらへ……」
誠が合図を送ると、木陰に潜んでいた兵が広場に現れた。
焚き火の周りに伽耶を前にして一斉に膝をつき、頭を垂れる。
「ほ、ほんとに……お姫様……?」
陽炎のつぶやきが夜気に溶けた。
「馬車をここへ。姫様をお守りしろ」
誠の声に、兵たちは静かに伽耶を取り囲む。
もう、胡蝶たちからはその小さな背すら見えない。
誠は胡蝶に向き直ると、かすかに頭を下げた。
「……姫様を、守っていただき……感謝いたします」
「――あの子は、自分で稼いで笑ってただけよ」
胡蝶の声は低く、どこか祈るようだった。
「そうやって閉じ込めるのね。
あの子……ここでは、本当に、幸せそうに笑ってたわ」
誠の背がわずかに揺れた。
だが振り返らない。
「二胡!!聞こえてるでしょう!?
その作り笑い――とってもブスよ!!」
胡蝶の叫び声が夜を割く。
「そうよ!!いつでも帰ってきなさい!!」
「帰っておいで――!」
陽炎が肩を抱く鼓は、必死に手を伸ばし、
瞳もぐしぐしと目を拭きながら、小さな手を伸ばしていた。
その叫びが夜の空気を震わせたとき――
馬車の車輪が、土を鳴らして止まった。
「……姫様を、お乗せしろ」
誠の一言とともに、伽耶の姿は闇の奥へ、
ひっそりと、幕屋の灯りから遠ざかっていった。
「……わたしの、帰る場所……」
ぼそりとつぶやいた伽耶の言葉が誠の背に届く。
誠は、その後ろ姿を目にすることができなかった。
わずかに開かれた唇から漏れた声が、
焚き火の揺らぎさえも、時間さえも、止めた。
胸の奥で、凍りついていた何かが、いとも簡単に、ほどけていく。
(……姫様)
誠の指先が、わずかに震えた。
「姫様……ご無事で、何よりでございます」
そっと膝をつき、静かに頭を下げる。
まだ周囲では子供たちの笑い声が響き、幕屋の者たちも、誰一人としてこの空気に気づいてはいない。
ゆっくりと顔を上げると、包帯の奥に覗く、あの瞳があった。
丸く見開かれたまま、今にも泣き出しそうに震えている。
(……怯えていらっしゃる……わたしに……)
胸の奥がきしむ音がした。
「……お帰りくださいませ。陛下が……どれほどお案じか……」
掠れそうになる声を必死に整え、誠は一歩、伽耶へと近づく。
「ねえ、二胡?何があったの……?」
舞子のひとり、陽炎が、ようやく異変に気づき、慌てて胡蝶を呼ぶ声を上げた。
(……騒ぎ立てられるのはまずい――)
誠は立ち上がると、伽耶の手をそっと取ろうとした。
「さあ、姫様――参りましょう」
差し伸べた手に、伽耶の肩がびくりと震える。
伏せられた視線が、揺れる焚き火を映していた。
「ひ、姫さまぁ……!?」
陽炎の悲鳴が夜気を裂く。
その声をかき消すように、胡蝶がゆっくりと前に出た。
烈翔にも引けを取らぬ大柄な身体を誠の前に滑り込ませる。
「……誰だか知らないけど。この子は“うちの子”よ」
低く、鋭く。
月の下に、胡蝶の声が落ちた。
「見なさい……顔には火傷があるの。無理に剥がすつもり?」
胡蝶は背後の伽耶に、そっと肩を触れる。
「あんた……今のうちに逃げな。……まだ間に合う」
(……無駄だ――)
誠は僅かに瞳を伏せ、淡く言葉を落とした。
「……兵が、幕屋を取り囲んでおります。
これは王命です。
……従わなければ――
貴方方もまた、反逆の罪に問われましょう」
胡蝶はぐ、と唇を噛む。
揺らぐ火の粉が、月明かりとともに、誠の影を伸ばしていた。
陽炎と初音が静かに伽耶の両脇に座り、鼓も瞳も、門も伽耶のそばに控えた。
そこに集まった皆が、誠をきっと睨んでいる。
誠からは、胡蝶が邪魔して、伽耶の表情を窺い知ることはできなかった。
「さすがは、誠ですね。ここまで、逃げていたのに……」
「二胡……」
胡蝶が伽耶をそっと振り返る。
伽耶は頭の後ろに手を伸ばすと、包帯の結び目をゆっくりとほどいた。
くるくると白布が外れ、月明かりの下に現れたのは、誠が何度も夢に見たあの面影。
その顔には微笑みが浮かんでいた。
だが、その瞳だけは――
少し前にも見た、何かを諦めたときのあの瞳と同じ色をしていた。
伽耶は小さく息を吐き、ほどいた包帯を胡蝶へと手渡す。
「……お世話になりました」
わずかに震えた声が、焚き火のはぜる音にかき消されそうだった。
ゆっくりと――
まるで、ひとりひとりの顔を最後に胸に刻むように。
伽耶は陽炎を、初音を、鼓を、瞳を、門を見つめた。
「幕屋の中に荷があります。処分してください。」
立ち上がったその背は、小さく震えていた。
胡蝶の横を通り抜け、誠の前に歩み出た伽耶は、冷たい瞳で、まるで臣下を叱責するかのように言い放つ。
「この者たちは、素性も知れぬわたしを保護してくれました。
罰することは許しません」
一瞬、誠は息を止めた。
伽耶のその瞳は、自分を“誰か”と同じに落とした、絶対の壁だった。
「……はい。姫様、こちらへ……」
誠が合図を送ると、木陰に潜んでいた兵が広場に現れた。
焚き火の周りに伽耶を前にして一斉に膝をつき、頭を垂れる。
「ほ、ほんとに……お姫様……?」
陽炎のつぶやきが夜気に溶けた。
「馬車をここへ。姫様をお守りしろ」
誠の声に、兵たちは静かに伽耶を取り囲む。
もう、胡蝶たちからはその小さな背すら見えない。
誠は胡蝶に向き直ると、かすかに頭を下げた。
「……姫様を、守っていただき……感謝いたします」
「――あの子は、自分で稼いで笑ってただけよ」
胡蝶の声は低く、どこか祈るようだった。
「そうやって閉じ込めるのね。
あの子……ここでは、本当に、幸せそうに笑ってたわ」
誠の背がわずかに揺れた。
だが振り返らない。
「二胡!!聞こえてるでしょう!?
その作り笑い――とってもブスよ!!」
胡蝶の叫び声が夜を割く。
「そうよ!!いつでも帰ってきなさい!!」
「帰っておいで――!」
陽炎が肩を抱く鼓は、必死に手を伸ばし、
瞳もぐしぐしと目を拭きながら、小さな手を伸ばしていた。
その叫びが夜の空気を震わせたとき――
馬車の車輪が、土を鳴らして止まった。
「……姫様を、お乗せしろ」
誠の一言とともに、伽耶の姿は闇の奥へ、
ひっそりと、幕屋の灯りから遠ざかっていった。
「……わたしの、帰る場所……」
ぼそりとつぶやいた伽耶の言葉が誠の背に届く。
誠は、その後ろ姿を目にすることができなかった。
0
あなたにおすすめの小説
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
【完結】私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね
江崎美彩
恋愛
王太子殿下の婚約者候補を探すために開かれていると噂されるお茶会に招待された、伯爵令嬢のミンディ・ハーミング。
幼馴染のブライアンが好きなのに、当のブライアンは「ミンディみたいなじゃじゃ馬がお茶会に出ても恥をかくだけだ」なんて揶揄うばかり。
「私が王太子殿下のお茶会に誘われたからって、今更あわてても遅いんだからね! 王太子殿下に見染められても知らないんだから!」
ミンディはブライアンに告げ、お茶会に向かう……
〜登場人物〜
ミンディ・ハーミング
元気が取り柄の伯爵令嬢。
幼馴染のブライアンに揶揄われてばかりだが、ブライアンが自分にだけ向けるクシャクシャな笑顔が大好き。
ブライアン・ケイリー
ミンディの幼馴染の伯爵家嫡男。
天邪鬼な性格で、ミンディの事を揶揄ってばかりいる。
ベリンダ・ケイリー
ブライアンの年子の妹。
ミンディとブライアンの良き理解者。
王太子殿下
婚約者が決まらない事に対して色々な噂を立てられている。
『小説家になろう』にも投稿しています
置き去りにされた聖女様
青の雀
恋愛
置き去り作品第5弾
孤児のミカエルは、教会に下男として雇われているうちに、子供のいない公爵夫妻に引き取られてしまう
公爵がミカエルの美しい姿に心を奪われ、ミカエルなら良き婿殿を迎えることができるかもしれないという一縷の望みを託したからだ
ある日、お屋敷見物をしているとき、公爵夫人と庭師が乳くりあっているところに偶然、通りがかってしまう
ミカエルは、二人に気づかなかったが、二人は違う!見られたと勘違いしてしまい、ミカエルを連れ去り、どこかの廃屋に置き去りにする
最近、体調が悪くて、インフルの予防注射もまだ予約だけで……
それで昔、書いた作品を手直しして、短編を書いています。
【完結】離縁されたので実家には戻らずに自由にさせて貰います!
山葵
恋愛
「キリア、俺と離縁してくれ。ライラの御腹には俺の子が居る。産まれてくる子を庶子としたくない。お前に子供が授からなかったのも悪いのだ。慰謝料は払うから、離婚届にサインをして出て行ってくれ!」
夫のカイロは、自分の横にライラさんを座らせ、向かいに座る私に離婚届を差し出した。
華夏の煌き~麗しき男装の乙女軍師~
はぎわら歓
恋愛
国家占い師である胡晶鈴は、この中華・曹王朝の王となる曹隆明と結ばれる。子を宿した晶鈴は占術の能力を失い都を去ることになった。
国境付近の町で異民族の若い陶工夫婦と知り合う。同じく母になる朱京湖とは、気が合い親友となった。
友人になった夫婦と穏やかな生活を送るはずだったが、事情のある朱京湖と間違えられ、晶鈴は異国へと連れ去られてしまった。京湖と家族の身を案じ、晶鈴はそのまま身代わりとなる。
朱彰浩と京湖は、晶鈴の友人である、陸慶明に助けを求めるべく都へ行く。晶鈴の行方はずっと掴めないままではあるが、朱家は穏やかな生活を営むことができた。
12年たち、晶鈴の娘、星羅は才覚を現し始める。それと同時に、双子のように育った兄・朱京樹、胡晶鈴との恋に破れた医局長・陸慶明とその息子・陸明樹、そして実の娘と知らない王・曹隆明が星羅に魅了されていく。
【完結】どくはく
春風由実
恋愛
捨てたつもりが捨てられてしまった家族たちは語る。
あなたのためだったの。
そんなつもりはなかった。
だってみんながそう言うから。
言ってくれたら良かったのに。
話せば分かる。
あなたも覚えているでしょう?
好き勝手なことを言うのね。
それなら私も語るわ。
私も語っていいだろうか?
君が大好きだ。
※2025.09.22完結
※小説家になろうにも掲載中です。
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
【完結】僻地の修道院に入りたいので、断罪の場にしれーっと混ざってみました。
櫻野くるみ
恋愛
王太子による独裁で、貴族が息を潜めながら生きているある日。
夜会で王太子が勝手な言いがかりだけで3人の令嬢達に断罪を始めた。
ひっそりと空気になっていたテレサだったが、ふと気付く。
あれ?これって修道院に入れるチャンスなんじゃ?
子爵令嬢のテレサは、神父をしている初恋の相手の元へ行ける絶好の機会だととっさに考え、しれーっと断罪の列に加わり叫んだ。
「わたくしが代表して修道院へ参ります!」
野次馬から急に現れたテレサに、その場の全員が思った。
この娘、誰!?
王太子による恐怖政治の中、地味に生きてきた子爵令嬢のテレサが、初恋の元伯爵令息に会いたい一心で断罪劇に飛び込むお話。
主人公は猫を被っているだけでお転婆です。
完結しました。
小説家になろう様にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる