チェリーは今宵色づく

奏月

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④神の下僕からただの人へ

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 どうしてこんなことに...

 ぴちょん、ぴちょん、と、公爵家の使用人によって洗われた髪から雫が滴り落ちる中、金色の猫足が付いたバスタブに張られたお湯につかりながら、グレイルは疲労と羞恥心に染まった顔を両手で覆い隠しつつ、これから訪れる夜に一抹の恐怖心と、高揚感を抱いていた。

 生まれた頃より俗世を知らずに、聖堂で育ってきた彼は、神に仕える下僕として色欲や暴食は心の乱れと信じ、かたくなに拒否して今まで仕えてきたのだ。

 それが何の因果か、大恩ある神官長であるヨウルの一声で、還俗させられることになり、実際の還俗は半年後になるしいが、先に婿入り先の家へと、二十数年分の荷物と共に送り込まれてしまったのだ。

 神殿の仲間とはロクな別れの挨拶すら交わせ無かったことだけが心残りだと、そう思った自分にグレイルは驚いた。

  自分は生涯神に仕えると決めていたのに、神官の地位を剥奪されたことを怨んでいないことに。

 むしろ、呼吸がしやすくなり、ずっと肩や頭の中にあった痛みが取れていることに、喜びを感じていることに。

「ああ、私はなんと罪深い...」

 お許しください、と声に出し、次に紡ぐべき神の名を言えずに、すぅーっと、滑らかで、透明感がある白い頬を伝ってゆく冷たくも温かな雫に、グレイルは己が神官と言う呪縛から解放されたことを知った。

 別に神殿暮らしが窮屈だったわけでも、辛かったわけでもない。

 決まった時間、定められて場所での生活は往々にして規則正しく、病を得ることの方が難しく、寝食に困ることもなかったが、どこか世界はいつも灰色で色味も温かさも感じられなかった。

 それが《孤独》と言う病なのだと、たった今自覚してしまっただけで。

 浴室から出れば、グレイルが還俗することになり、同じく還俗が特別許された、凍えた蒼色の瞳が印象的な美少年のエヴァが大きなタオルを持ち、待ち構えていた。

 彼は今は従僕紛いの仕事をしているが、本当は彼が騎士に憧れていることを知っているグレイルは、ヨウル神官長とどうやら血縁であるらしいマリエッタ嬢に話をしてみようと決めた。

 身体と髪を丁寧に拭われ、シルクで仕立てられた寝間着を着せられ、その上からバスローブを羽織らせられ、公爵家の使用人によって寝室に案内される。

 流石は公爵家と言うべきか、廊下にゴミなど一つも落ちておらず、余計な明かりは消され、すれ違う使用人は老いも若きも皆キビキビと立ち働いており、グレイルはついポツリと心の声を漏らしてしまっていた。

「こんなにも忙しいのですね、公爵家というのは」

「そうですね、神殿の方がもっとゆったりしてましたもんね」

 エヴァの隠しきれない興奮した声が可笑しかったのか、先導していた公爵家の使用人は喉の奥を震わせながら「違うのです」と弁解した。

 なにが違うのだと、二人の視線を正面から受けた使用人は。

「公爵家、いえ、私共がお仕えいているスーデン家は、休憩時間や食事時間、入浴時間が決まっておりまして、皆が今足早になっているのは、食事へ行くためですね。一階に使用人用の食堂があり、早い者勝ちなので、みな私利私欲のために動いているだけなのですよ」

 三食、休憩、睡眠、早朝、夜勤務手当付きと言う整った労働環境が約束されているスーデン家は、平民は元より、下級貴族や貴族の三男坊や次女以降の憧れの職場で。

 希望すれば、マナーや語学、政治も学ぶ機会が貰えるとだけあって、離職率は低いと言う。

 それが本当なら、恵まれた職場なのだろうなと思っている内に目的地である、公爵家の姫であるマリエッタの専用サロンに通され、グレイルはエヴァと共に絶句し、やがて、全身を真っ赤に染めたかと思いきや、いきなり気絶した。

 それを目にしたマリエッタは。

「あら、刺激的すぎたかしら。マーヤ」

「若旦那様は神官様でいらしたのです。清い方なら当たり前の反応でございますれば」

 右手に紅を施されつつ、左手でワイングラスを揺らめかせていた少女は、困ったような笑みを浮かべ、腹心の侍女に注がせた飲み物と軽くトーストされたパンや、チキンを楽しみながら、気絶してしまった婿が目覚めるまでとりあえず待つことにしたのだった。
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