目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――平成三年

16

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 木曜日の四時頃、タバコ屋の角に移動図書館がやってきた。

 宮井は以前見たときと同じようにエプロンをつけ、にこやかに利用者に接し、本の貸し出しをしていた。

 遠目だったが頬に青あざがあり、左に眼帯をしていた。
 変わらぬにこやかな様子だけ確かめて映子はその場を後にした。
 話しかけるつもりもなかったし、祥子とのことをどうこうしようという気もなかった。
 ただあんなことがあって、どんな顔で宮井が仕事をしているのかなんとなく知りたかった。

 移動図書館の側を離れると、映子はまたみどりばあさんの家に向かった。
 この間ぎんなんを拾って帰って茶碗蒸しに入れたら、母が喜んでくれた。
 あのにおいには辟易するけれど母がプラスの感情になってくれるなら悪くない。
 
 なかなか開かない戸口をがたがたやって開き、みどりばあさんの家の中から熊手を持って出た。

 砂遊び用の小さなものだ。
 これがあるとぎんなんを集めるのが楽になる。
 家から持ってきたスーパーの袋に熊手でかき集めたぎんなんを詰めていく。
 すぐに袋はいっぱいになった。
 さすがにこんなには食べないかとひとり苦笑した。

 熊手をみどりばあさんの家に戻そうと再び家の中に入った。
 戸口は開けっ放しだったけれど、薄暗い室内に目が慣れるまでに少しかかった。
 熊手を戸口の側に置いて、家の中に視線を向けてぎくりとした。

 いつの間にかそこに宮井が立っていた。
 いくら粗末とはいえ、上り框で映子は靴を脱いで上がるのだけれど、宮井は靴のまま板張りの床に仁王立ちしている。エプロンをつけたままだ。

「さっき君がいるのを見かけてね。気になったからついて来てみたんだ。もしかしたら祥子ちゃんに会えるかもしれないと思ってね」

 いつも通りの穏やかな口調にぞっとした。
 青あざだらけの顔でにこやかに言われても気味が悪い。
 眼帯に隠れた左目がどんな色をしているのか。見えないだけに様々な想像をかきたてられる。

「祥子ちゃんとはもう会わないって約束したんですよね」

「ああ、約束ね。したかもしれない」

 映子は眉をしかめた。
 やはりこの人はどこかおかしい。
 映子は後ずさった。これ以上ここにいない方がいいと直感した。

「おっと」

 映子が家から逃げようとしていることに気づいた宮井は、板張りの床から軽い身のこなしで三和土に飛び降りると映子の腕をつかんだ。

「話はまだ終わってないんだ」

 宮井は映子の手にしているスーパーの袋に目をやった。

「ひどいにおいだな。鼻がおかしくなりそうだ」

「だったらおかしくなればいい」

 映子は持っていたぎんなんを宮井めがけてぶちまけた。
 硬い殻が顔面の青あざに当たり、宮井は顔をしかめた。

「このガキ。舐めたまねしやがって」

 宮井はつかんだ腕を力任せに引っ張ると板張りの床に映子を突き飛ばした。
 そのまま倒れた映子に馬乗りになると胸倉を掴んだ。
 映子の頭が床から浮き上がるほど強く掴み上げる。

「君が祥子ちゃんのご両親に告げ口したんだろう。え? 違うのか?」

 映子は倒れた拍子に腰と背中をしたたかに打ち付けてうめいた。
 胸倉をつかんだ宮井の顔は怒りに震え、いつもの仮面を取り去っていた。
 いつもにこやかで信用ならないと思っていたが、やっと宮井の本心が見えたように映子は思った。
 こんな状況にもかかわらず安心した。
 人の本心が見えないというのは、誰が相手であるにせよ不安になるものだ。
 
 けれどそんな映子の内心を映したどこかほっとしたような表情に、宮井は眉を寄せた。

「何を余裕ぶった顔してやがる。君が置かれている状況は相当君にとって分が悪いんだよ」

「そうかも…」

「はっ」

 宮井は映子の言いように短く笑うと胸倉をつかんでいた手をいきなり離した。
 今度は映子は後頭部をしたたかに床に打ちつけて顔をしかめた。

「君と違って祥子ちゃんの苦痛にゆがむ顔は美しかったよ」

 宮井は恍惚とした表情で言うと映子の両頬を片手で鷲掴みし、力任せに掴んだ。
 宮井の腕が力を入れすぎて震えている。
 押された頬の内側が歯に当たり、口の中が切れて血の味が広がった。

「ははっ。変な顔だな。君にはお似合いだ。人の恋路を邪魔するやつにはそれ相応の罰が必要だろう」

 宮井は意地悪く笑うと更にぐっと力をこめた。
 顔がつぶれそうだった。
 痛みに涙が滲み、口の端から血が滲み出した。
 自分の顔があとどれくらい原型を留めていられるのかと思ったとき、ふいにごつっという鈍い音がして同時に宮井の手が離れた。
 続いて宮井が映子のお腹の辺りに倒れこんできた。

「ふん、軟弱な男やな」

 戸口にみどりばあさんが太い木の棒を手にして仁王立ちしていた。
 腰を真っ直ぐ伸ばし、怒りを露わにして宮井を睨みつける。
 宮井は後頭部を抑えてうずくまっている。

「みどりばあさん」

 映子は思わず声をあげてお腹の辺りでまだうめいている宮井を脇へ転がし、立ち上がった。

「あの、ありがとうございます」

「ほれ、後は自分でやり」

 みどりばあさんは無造作に木の棒を映子に寄越す。
 思わず受け取ってしまった。それを見た宮井が「ひっ」と喉の奥を鳴らす。

「わたしはいいんです」

 映子は自分の顔を空いた方の手でさすって形を確かめた。
 口の中は散々な状態だが形は変わっていないようだ。

「そんなお人よしなこと言ってたらあかんで。この男が二度と変な気起こさんようにこてんぱにやっつけんと。あんたができひんのやったら代わりに私がやったる」

 みどりばあさんは映子の手から棒を取り戻すと大きく振りかぶった。
 それを見た宮井が「ひい」と震えて頭を抱えた。
 みどりばあさんは容赦なく見事なスイングで宮井の尻に棒を振り下ろした。

「いてぇ」

 宮井は尻を抱えて飛び上がった。

「なんで僕ばっかりこんな目に遭うんだ。僕はただ本当に祥子ちゃんのことが好きなんだ。それだけなんだ。祥子ち
ゃんだって僕を好きで無理強いなんてしてない。なのにみんな寄ってたかって僕を責める。祥子ちゃんでさえ僕を助けてはくれなかった」

「ふん」

 みどりばあさんは容赦なく再び宮井の尻に棒を振り下ろした。
 宮井は子供のように声を上げて泣き出した。

「みんなが僕のせいにするんだ。僕が一体何をしたって言うんだい。ただ好きな人と会っていただけだ。それの何が間違っているって言うんだい」

 みどりばあさんは顔をしかめた。

「何があったか知らんけどあんただって勝手にこの子のせいにしてこの子を痛めつけたやろうが。やってることはあんたが攻めとるやつらと同じやないか」

「違う、僕は。僕は何も悪くない」

 宮井はとうとう顔を覆って泣き出した。

「いつだってそうだ。僕は何も悪くないのにいつも周りは僕の味方をしてくれない。いつだって僕が責められる。こんな不公平を許す世の中はおかしい」

 みどりばあさんは肩を震わせて泣く宮井に同情一つ寄せなかった。
 ただそれ以上宮井の尻を叩くことはしなかった。

 宮井はひとしきり泣いた後、尻を抱えながらみどりばあさんの家から立ち去った。
 宮井が去るとみどりばあさんは「さてと」と手にしていた木の棒を外に放り出した。
 赤く腫れた映子の頬を確かめて床に散らばったぎんなんを眺め、家の奥に置かれた毛布に目をやった。

「あんたも最近勝手にここ使ってるみたいやな」

「すみません」

 全くその通りだったので弁解の余地はない。素直に頭を下げた。

「なんとなく居心地がよくて。みどりばあさんがいないのを良いことに勝手にあがらせてもらってました」

「ふはははは」

 みどりばあさんは殊勝に頭を下げる映子に何が可笑しいのか笑い出した。

「責めてると思われたんか。別に責めてないで。安心しい。最近はめっきり腰が弱ってもうてここの板張りはつらくてな。全然使っとらんから好きにしたらええ」

「いいんですか」

 映子はみどりばあさんのお墨付きがもらえて顔がほころんだ。
 勝手にあがりこんでいたのでなんとなく気は引けていた。
 いつかみどりばあさんに怒鳴られるのではないかと恐れてもいた。

 でもここでの時間は映子にとってなくてはならないものになっていたからやめられず、もしその時間を奪われたらどうしようとまで思っていた。
 それがこれからは堂々とここでの時間を満喫できる。そう思うとさっきまでの頬の痛みも忘れられそうだ。

「そうや、いいこと思いついたで。あんたにこの家あげるわ」

 唐突過ぎる申し出に映子は戸惑った。
 いくらなんでも赤の他人に家を譲り渡すなどということがあるのだろうか。

 粗末とはいえ家は家だし土地もあるし大きな銀杏の木もある。
 みどりばあさんの考えていることは全くわからない。
 わからないし、何の流れでそんなことを思いついたのだろう。
 みどりばあさんと呼んで妖怪呼ばわりして肝試しをしていた悪ガキの一人にあばら家とはいえ家を一軒譲ろうと言うのだから。

「そんなわたしは」

 映子は断ろうとしたけれどみどりばあさんは強引だった。
 映子は聞かれるままに住所や名前を言い、みどりばあさんは空で覚えてうんうんうなずいた。

「わかった。ほなさいなら」

 みどりばあさんは映子が呆気に取られている間にどこへともなく帰って行った。
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