目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――平成四年

23

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 高校へは自転車で通った。

 みどりばあさんの家の前の畦道を真っ直ぐ行き、土手沿いの道を進む。
 
 夏場は小さな虫が群れをなして飛んでいて、うっかりその中に突入してしまったら大変だ。
 口から目から粘膜という粘膜にくっついてしまう。
 朝方は少ないのだが、夕方はよほど気をつけないと、帰るまでに何度も群れに遭遇する。

 市のシンボルである平和の鐘のある公園の角を右手に折れて、土手沿いを離れると中央環状の道路に突き当たる。その中環を横切る大きな交差点を渡ると高校はもう目の前だ。

 平和の鐘は毎朝八時に音が鳴る。
 その鐘の音を聞きながら自転車を走らせるのが映子の日課だ。
 鐘の前には鳩がたくさんいて、映子が自転車で近づいても全く逃げない。
 それどころか歩道を占領してしまい通れないこともある。
 大抵の人はみんな自転車のベルを盛大に鳴らす。大きな音に鳩は驚き、軽く羽を羽ばたきながら道をあける。その開いた隙間をスピードを緩めずに進んでいく。

 映子はベルを鳴らして無理に進むのが横柄な感じがして、いつも鳩をよけながらゆっくりと進む。
 少しずつ近づくと、鳩の方でも映子の自転車に気がついて、道をあけてくれることもある。
 鳩が全然避けてくれず、最悪引いてしまいそうな場合は、自転車を降りておすことにしている。
 でも大体はその時間、同じ公立高校に通う学生と隣りの商業高校の生徒がよく通るので、鳩は歩道にはみ出すことなく公園にとどまっていることが多い。

 が、その日は鳩が盛大に歩道にはみ出していた。

 映子は自転車をおり、鐘の音に全く動じることなく悠然とアスファルトをつついている鳩を、慎重に避けながら自転車をおしていた。
 後ろからチリンチリンチリリリリーンと盛大なベルが鳴らされた。
 驚いた鳩が一斉にわっと飛び立つ。羽音がすぐ耳の近くを掠めていった。

「おはよー」

 保だった。エナメルのスポーツバッグを斜めがけにして自転車にまたがっている。
 鳩が飛び立ってしまった歩道をスピードを上げて映子に近づいた。

「ちんたらしてたら遅れるで」

「時間には余裕あるから大丈夫」

「俺は余裕なし! 朝練にすでに遅刻してる」

 保は自転車をこぐ足に力を込めて加速した。高校でも保はサッカー部だ。

「お先!」

 そのまま一陣の風のように走り去った。
 が中央環状の信号で保に追いついた。

「ここの信号長すぎ」

 後ろから悠然とやってきた映子に、保はげんなりして悪態をついた。

「なんや急いだ俺があほみたいや。結局は一緒やんか」

「保の行動はいつも的外れ」

「言ったな。映子め」

 保は長い腕を伸ばして映子の髪の毛をかき混ぜた。

「ひゃー。ごめんごめん」

 これでも朝はがんばって整えてきた。
 乱された髪を手櫛でなでつける。
 そうこうしている間に信号が青に変わる。

 保は猛然とこぎ出すのかと思いきや、映子の速度に合わせてゆっくりとこぎ出した。

「どうしたん。急がんの?」

「あかん。完全な遅刻や。今更あがいてもどうしようもないと俺にも今わかった」

「何それ」

 映子はくすくす笑いを漏らした。

「さっきからそう時間は経ってないで。今急いであかんのやったらさっきのがんばりももうすでに時遅しやったで」

「いや、この信号のせいや」

 保は言い張った。

「そういや映子。昨日の話なんやけどな」

「ああ、うん」

 映子は曖昧に返事を返した。
 映子の好きな人の話をまた持ち出そうとしていることはわかった。朝から話題にしたくない話だったけれどこちらの心情などお構いなしに保は話し始める。

「そのほら。告白したらいいとか俺言ったやん。映子の気持ちも考えんと勝手なこと言うてしまったなって反省してん」

「保でも反省するんやな」

「それは余計や。俺は告白されて付き合ったんやけど、告白されたときすっげー嬉しかったから。きっと映子に告白されたら、相手の男も嬉しいはずやって勝手に思ったんや。でもそれでふられた話とかも聞くしふった奴もいるし、いつも上手く行くとは限らんから。簡単に告白したらいいって言ってしまってまずったなと」

 映子と保は自転車で併走している。

 時折前から来る自転車をよけるために一列になり、また併走しを繰り返した。
 後ろからベルを鳴らされ保が映子の前に出て一列になった。

 その脇を最近頻繁に嗅ぐ香水の香りがすり抜けていく。
 三年生の図書委員長、安藤行彦の彼女、小林あけみだった。

 あけみは映子には気づきもせずに長い髪を揺らして走り去っていく。

「わたしの好きな人には彼女がいるねん」

「そうなんか」

 保は驚いて映子を見やる。

「だからどうすることもできん」

「じゃあ俺やっぱり余計なこと言ってもうたんやな。当たって砕けろ言うてるようなもんやんな。悪かった」

「いいよ謝らんでも。保に悪気はないのはわかってるし、気にせんといて」

 正門の前で保と別れた。
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