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―――平成四年
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帰り際、みどりばあさんの家に寄るのは映子の日課だ。
一つ困ったのは自転車の置き場だった。
狭い畦道にとめておくことはできないし、かといって田んぼの中に置いておくこともできない。
みどりばあさんの家の庭に置いておくのが一番良いのだが、そこまで行くには水路脇の階段と雑草の生えた細い通路がある。
細い通路は何度か通るうちにコツをつかみ、乗ったまま通り抜けられるようになったが、階段だけはどうしようもない。
自転車をおりて力技で上げ下ろしするより他なかった。
数段しかないが、急な階段なのでおろすとき、毎回スタンドが階段にこすれてしまう。
毎日のようにぶつけるものだからどこかおかしくなったのか、ちょっとした衝撃ですぐにスタンドが下がってくるようになってしまった。
みどりばあさんの家の裏手に自転車をとめる。
裏にとめるのはみどりばあさんの家の雰囲気を壊さないためだ。
自転車のステンレスの輝きはこの家には似合わない。
たてつけの悪い戸口を指を引っ掛けて何度かがたがた揺らす。
何度目かで抵抗がなくなり勢いよく開いた。開いたとたん中から声をかけられた。
「邪魔してるで。久しぶりやな」
暗さに目が慣れると板張りの床にちんまりと座るみどりばあさんの姿が見えた。
まさかいるとは思っていなかったので映子は驚いた。
「こんにちは」
板張りの床に座る細い足が痛そうだ。
映子は手近にあった緑色のブランケットをみどりばあさんに差し出した。
映子がお小遣いで買ったものだ。
高校に入って母はお小遣いをくれるようになった。
恵一の病院が、母をパートから正社員としての待遇に変更してくれた。
おかげで安定した給与が毎月入ってくるようになった。生活も安定し、母は映子にお小遣いまでくれるようになった。そのお金で映子は緑色のブランケットを購入してここで使っていた。
「そんなもんいらんわ。それはあんたに必要なもんやろ」
みどりばあさんはいつもよりも声をひそめて話した。
理由は映子にもすぐにわかった。
家の裏で落葉を踏むいくつかの足音が聞こえてきたからだ。ひそひそと話す子供の声も聞こえてくる。
「うわっ。自転車あるで。みどりばあさんって自転車も乗るんかな」
「んなわけあるか。みどりばあさんが食った人間が、乗ってたやつやろ」
「えー。じゃあ今ってもしかして食べてるとことか?」
お客さんは三人のようだ。
最後の一人は女の子の声だった。映子は緑色のブランケットを頭からかぶった。
「おい。玄関開いてるで」
がさがさがさと足音が入り乱れ、続いて男の子の声。息をつめて中を覗き込もうとしている様子が手に取るように伝わってくる。
「行っといで」
みどりばあさんの合図と共に開け放したままだった戸口から映子は飛び出した。
「うわあ!」
「きゃあ!」
「出たー!」
三人三様に一斉に叫んで三人とも見事な尻餅をついた。
今日のお客さんは小学二年生くらいか。まだ幼さの残るあどけない頬が恐怖にひきつっている。
一番左端の男の子は、すばやく立ち上がり、横の女の子の腕を引っ張って立たせた。
「みどりばあさんや!」
もう一人の男の子はまだ尻餅をついたまま指だけ映子に突きつけて叫んだ。
「ほんまにおったんか」
いち早く立ち上がった男の子が女の子の手をぎゅっと握る。
女の子は頬をわななかせて、ブランケットの隙間から見える映子の目を捉えた。
「きゃあ! にらみ殺される」
映子は一瞬きょとんとした。
なんだか新しいバージョンが登場している。
睨み殺されるって。苦笑してしまった。するとその笑いさえ三人の恐怖を誘った。
「いやー! 助けてー!」
女の子はわき目もふらず走り出した。
「あ、おい」
立ち上がっていた男の子もその少女の後を追う。
尻餅をついたまま取り残された男の子は、口があの字に開いたまま呆然としている。
「悪ガキどもが。早よ去れ」
緑色のブランケットを頭からかぶった映子が低い声でそう告げると男の子は火がついたように尻を持ち上げ、二人を追って走り出した。
「ぎゃー!」
腹の底から叫びながら。
駆けていく足音が遠のいたのを見計らって映子は家の中に入った。がたがた板を鳴らせて戸口を閉める。
「ご苦労さん。だいぶ様になってきたようやな」
みどりばあさんは悠然と板張りの床に座って映子を見上げた。
「お茶飲みますか」
みどりばあさんの返事を聞かずに映子はかばんから水筒を取り出すと常備してある紙コップにお茶を注いで差し出した。皺だらけの指が紙コップを握ると乾いた音がした。
「ありがとうさん」
みどりばあさんは音を立てて茶を啜った。
みどりばあさんは時々思い出したようにここへやって来る。
映子に家を譲ると言った話が、あれから具体的にどうなっているのかは知らない。
みどりばあさんは何も言わないし、映子も聞かなかった。
ただあれ以来、みどりばあさんは、必ず邪魔するでと映子に断って家に入るようになった。
今日みたいに先に来ているときは邪魔してるでと一言断ってくる。所有権は映子にあると暗に示しているようだった。
みどりばあさんとはさして話をするわけでもない。お互い黙ってこの静寂に向き合っている。
映子は時々訪れる子供たち相手に、みどりばあさんを演じてみせている。
みどりばあさんから家と共に託されたものが何だったのか。最近ようやくわかるようになってきた。ようでもあり全くわからないようでもある。
母のことといい、安藤のことといい、近頃は映子には理解できない命題が多すぎる。思わず盛大なため息が漏れた。
「なんや。景気の悪いため息やな」
珍しくみどりばあさんが咎める。
映子がここで何をしていても、何も言わないみどりばあさんにしては珍しかった。
「ごめんなさい」
「別に謝らんでいい。責めたわけやない」
「みどりばあさんは誰かを好きになったことってありますか」
「なんややぶから棒に」
「いえ、やっぱいいです」
「話し始めといてそれはないで。なんや言うてみ」
暗闇は映子を饒舌にする。映子は安藤のこと、その彼女のことを話した。だからどうという話ではない。自分でもどうしたいのかはわからない。ただもやもやする胸のうちを吐き出した。
みどりばあさんからの返事はなかった。何かアドバイスでもくれるのかと思ったが何も言わない。そのうち誰かが戸口をノックする音がしてきた。
「またお客さんやで」
みどりばあさんの声に映子は立ち上がった。
戸口に指をかけても悲鳴は上がらない。いつものお客さんなら大抵ここで叫ばれる。
つかえのなくなった戸口が開くと、そこに立っていたのは保だった。
サッカーのクラブ活動終わりなのだろう。埃と太陽の匂いがした。西日が保の背後から差し、映子は眩しかった。
「やっぱりここやったか」
保は板張りの床に座すみどりばあさんにも気がつき、軽く頭を下げる。
小学生の頃のようにもう怖がったりはしない。
「ちょっと話があるんやけどいいか」
「いいけど」
映子はかぶっていたブランケットは家の中に置いて、また戸口を閉めた。
「ようここが分かったね」
「恵一に聞いたことあるねん。映子が二代目みどりばあさんを引き継いでるんやろ。みどりばあさん役はああ見えて体力いるもんな。初代のあの人にはもう無理やろうな」
「二代目ってなんなんそれ」
「恵一が言ってたで。映子がみどりばあさんやってるって」
「バイトやないんやから」
映子はおかしくて声を立てて笑った。
保はそんな映子の様子を息をつめて見つめている。
様子がいつもと違うようで、映子は怪訝な顔をした。映子に見られると保は足元に目を落とした。
「どうしたん。保なんかおかしいで」
「いやあのな」
保が頭を下げると西日が直接映子の顔を照らして眩しかった。
「なんなん。はっきりせえへんね」
「いや今朝の話なんやけどな」
「ああ、」
またその話かと映子は思った。やけにこだわる。
「もうその話いいで。これ以上保に話すこともないし」
具体的にどうしたいとの願望もない。あけみと別れて、自分とつきあう安藤の姿は想像できない。そんな荒業、できるとも思えない。ただ眺めるだけで、映子には精一杯だ。
「あのさ、映子の好きなやつって、もしかしてなんやけどさ」
映子はどきりとした。
保が知るはずはないと思う。何かの拍子に目撃したことでもあるのだろうか。安藤のことを知らない人に話すのはできたけれど、相手がわかっていると無性に恥ずかしい。
「もうそれ以上言わんといて」
映子は西日の眩しさをよけたくて保のように頭を下げた。そこに保の腕が伸びてきて、映子の両肩をつかんだので、映子は驚いてまた顔を上げた。
「なんなん。びっくりするやん。ほんまどうしたん。保変やで」
「あのさ。映子の好きなやつってもしかしてやけど俺じゃないよな」
「はあ?」
映子は最大限に眉をしかめた。さすがの保もこの反応にはおかしいと思ったのか、つかんでいた肩を放した。
「なんやぁ。違うんかぁ」
太ももに手をついて盛大にため息をつく。
「どうしたん保。何言ってるん」
「いやぁ悪い」
保は顔の前で両手を合わせて謝る。聞くと今朝の会話から映子の好きな人がもしかしたら自分なのではないかと思い詰めたらしい。
「なんでそんな勘違いしたんよ」
「だって好きな人には彼女がおるって言うから。しかも俺、映子とは仲いいし、映子も俺とよく話するし、もしかしたらって」
「それだけでそう思ったん? 全然違うで」
「そうやんな。やっぱり映子の言うように俺の考えることはいつも的をはずしてる」
「変わらんね保は」
「ああけどまじでよかった。俺知らん間に映子のこと傷つけてたんかと本気で悩んだんやで」
「それはどうも」
「あ、あそこに小学生がおるで」
保が不意に田んぼの畦道の向こうを指差した。男の子二人がこちらの様子を窺っているようだ。
「ちょっとこっち来て」
映子は家の中に保を引っ張った。
みどりばあさんは舟を漕いでいる。乾いた手から、握ったままの紙コップをそっとはずし、傍らの緑色のブランケットを頭からかぶった。
「ちょっと待ってて」
映子は保を家の中に残して、外にゆったりとした足取りで出て行った。ついでに最近田んぼの方へと飛び出し始めた銀杏の枝を切ろうと鎌も手にした。
たぶん男の子たちは映子を注視していることだろう。その視線を充分感じながら映子は鎌で枝を切り落とした。
「うわぁ」
という叫び声と駆け出す足音。見上げると、さきほど畦道をこちらに向かってきていた男の子二人が、踵を返して走り去るところだった。
「映子、おまえ最高やな」
いつの間にか顔を出した保が腹を抱えて笑っている。
「ほんまにばあさんに見えるから不思議やな。まだ高校生やのにばあさんに間違われてかわいそうに」
「そんなんはもう慣れた」
「けど映子のやりたいことはわかったような気がするで。みどりばあさんってそういう存在やんな」
「なんやろね。わたしにはまだようわからん。けど必要なんやってことだけは感じてる」
「それ俺にもわかるで。あのとき一目散に逃げてかっこ悪かったこととか、恵一がまじでびびってたこととか、映子だけが怖がらんと堂々としとったこととか。俺の中では今もどれも忘れられへんことやしな。何て言うんかな。うまいこと言われへんけどあのときの時間は俺の中で最強や」
「そう言ってもらえたら二代目みどりばあさんとしては鼻が高いわ」
映子は切った銀杏の枝を一箇所にまとめた。銀杏の大木は枝を切られても動じることなく、夕焼け空の下真っ直ぐに立っていた。
一つ困ったのは自転車の置き場だった。
狭い畦道にとめておくことはできないし、かといって田んぼの中に置いておくこともできない。
みどりばあさんの家の庭に置いておくのが一番良いのだが、そこまで行くには水路脇の階段と雑草の生えた細い通路がある。
細い通路は何度か通るうちにコツをつかみ、乗ったまま通り抜けられるようになったが、階段だけはどうしようもない。
自転車をおりて力技で上げ下ろしするより他なかった。
数段しかないが、急な階段なのでおろすとき、毎回スタンドが階段にこすれてしまう。
毎日のようにぶつけるものだからどこかおかしくなったのか、ちょっとした衝撃ですぐにスタンドが下がってくるようになってしまった。
みどりばあさんの家の裏手に自転車をとめる。
裏にとめるのはみどりばあさんの家の雰囲気を壊さないためだ。
自転車のステンレスの輝きはこの家には似合わない。
たてつけの悪い戸口を指を引っ掛けて何度かがたがた揺らす。
何度目かで抵抗がなくなり勢いよく開いた。開いたとたん中から声をかけられた。
「邪魔してるで。久しぶりやな」
暗さに目が慣れると板張りの床にちんまりと座るみどりばあさんの姿が見えた。
まさかいるとは思っていなかったので映子は驚いた。
「こんにちは」
板張りの床に座る細い足が痛そうだ。
映子は手近にあった緑色のブランケットをみどりばあさんに差し出した。
映子がお小遣いで買ったものだ。
高校に入って母はお小遣いをくれるようになった。
恵一の病院が、母をパートから正社員としての待遇に変更してくれた。
おかげで安定した給与が毎月入ってくるようになった。生活も安定し、母は映子にお小遣いまでくれるようになった。そのお金で映子は緑色のブランケットを購入してここで使っていた。
「そんなもんいらんわ。それはあんたに必要なもんやろ」
みどりばあさんはいつもよりも声をひそめて話した。
理由は映子にもすぐにわかった。
家の裏で落葉を踏むいくつかの足音が聞こえてきたからだ。ひそひそと話す子供の声も聞こえてくる。
「うわっ。自転車あるで。みどりばあさんって自転車も乗るんかな」
「んなわけあるか。みどりばあさんが食った人間が、乗ってたやつやろ」
「えー。じゃあ今ってもしかして食べてるとことか?」
お客さんは三人のようだ。
最後の一人は女の子の声だった。映子は緑色のブランケットを頭からかぶった。
「おい。玄関開いてるで」
がさがさがさと足音が入り乱れ、続いて男の子の声。息をつめて中を覗き込もうとしている様子が手に取るように伝わってくる。
「行っといで」
みどりばあさんの合図と共に開け放したままだった戸口から映子は飛び出した。
「うわあ!」
「きゃあ!」
「出たー!」
三人三様に一斉に叫んで三人とも見事な尻餅をついた。
今日のお客さんは小学二年生くらいか。まだ幼さの残るあどけない頬が恐怖にひきつっている。
一番左端の男の子は、すばやく立ち上がり、横の女の子の腕を引っ張って立たせた。
「みどりばあさんや!」
もう一人の男の子はまだ尻餅をついたまま指だけ映子に突きつけて叫んだ。
「ほんまにおったんか」
いち早く立ち上がった男の子が女の子の手をぎゅっと握る。
女の子は頬をわななかせて、ブランケットの隙間から見える映子の目を捉えた。
「きゃあ! にらみ殺される」
映子は一瞬きょとんとした。
なんだか新しいバージョンが登場している。
睨み殺されるって。苦笑してしまった。するとその笑いさえ三人の恐怖を誘った。
「いやー! 助けてー!」
女の子はわき目もふらず走り出した。
「あ、おい」
立ち上がっていた男の子もその少女の後を追う。
尻餅をついたまま取り残された男の子は、口があの字に開いたまま呆然としている。
「悪ガキどもが。早よ去れ」
緑色のブランケットを頭からかぶった映子が低い声でそう告げると男の子は火がついたように尻を持ち上げ、二人を追って走り出した。
「ぎゃー!」
腹の底から叫びながら。
駆けていく足音が遠のいたのを見計らって映子は家の中に入った。がたがた板を鳴らせて戸口を閉める。
「ご苦労さん。だいぶ様になってきたようやな」
みどりばあさんは悠然と板張りの床に座って映子を見上げた。
「お茶飲みますか」
みどりばあさんの返事を聞かずに映子はかばんから水筒を取り出すと常備してある紙コップにお茶を注いで差し出した。皺だらけの指が紙コップを握ると乾いた音がした。
「ありがとうさん」
みどりばあさんは音を立てて茶を啜った。
みどりばあさんは時々思い出したようにここへやって来る。
映子に家を譲ると言った話が、あれから具体的にどうなっているのかは知らない。
みどりばあさんは何も言わないし、映子も聞かなかった。
ただあれ以来、みどりばあさんは、必ず邪魔するでと映子に断って家に入るようになった。
今日みたいに先に来ているときは邪魔してるでと一言断ってくる。所有権は映子にあると暗に示しているようだった。
みどりばあさんとはさして話をするわけでもない。お互い黙ってこの静寂に向き合っている。
映子は時々訪れる子供たち相手に、みどりばあさんを演じてみせている。
みどりばあさんから家と共に託されたものが何だったのか。最近ようやくわかるようになってきた。ようでもあり全くわからないようでもある。
母のことといい、安藤のことといい、近頃は映子には理解できない命題が多すぎる。思わず盛大なため息が漏れた。
「なんや。景気の悪いため息やな」
珍しくみどりばあさんが咎める。
映子がここで何をしていても、何も言わないみどりばあさんにしては珍しかった。
「ごめんなさい」
「別に謝らんでいい。責めたわけやない」
「みどりばあさんは誰かを好きになったことってありますか」
「なんややぶから棒に」
「いえ、やっぱいいです」
「話し始めといてそれはないで。なんや言うてみ」
暗闇は映子を饒舌にする。映子は安藤のこと、その彼女のことを話した。だからどうという話ではない。自分でもどうしたいのかはわからない。ただもやもやする胸のうちを吐き出した。
みどりばあさんからの返事はなかった。何かアドバイスでもくれるのかと思ったが何も言わない。そのうち誰かが戸口をノックする音がしてきた。
「またお客さんやで」
みどりばあさんの声に映子は立ち上がった。
戸口に指をかけても悲鳴は上がらない。いつものお客さんなら大抵ここで叫ばれる。
つかえのなくなった戸口が開くと、そこに立っていたのは保だった。
サッカーのクラブ活動終わりなのだろう。埃と太陽の匂いがした。西日が保の背後から差し、映子は眩しかった。
「やっぱりここやったか」
保は板張りの床に座すみどりばあさんにも気がつき、軽く頭を下げる。
小学生の頃のようにもう怖がったりはしない。
「ちょっと話があるんやけどいいか」
「いいけど」
映子はかぶっていたブランケットは家の中に置いて、また戸口を閉めた。
「ようここが分かったね」
「恵一に聞いたことあるねん。映子が二代目みどりばあさんを引き継いでるんやろ。みどりばあさん役はああ見えて体力いるもんな。初代のあの人にはもう無理やろうな」
「二代目ってなんなんそれ」
「恵一が言ってたで。映子がみどりばあさんやってるって」
「バイトやないんやから」
映子はおかしくて声を立てて笑った。
保はそんな映子の様子を息をつめて見つめている。
様子がいつもと違うようで、映子は怪訝な顔をした。映子に見られると保は足元に目を落とした。
「どうしたん。保なんかおかしいで」
「いやあのな」
保が頭を下げると西日が直接映子の顔を照らして眩しかった。
「なんなん。はっきりせえへんね」
「いや今朝の話なんやけどな」
「ああ、」
またその話かと映子は思った。やけにこだわる。
「もうその話いいで。これ以上保に話すこともないし」
具体的にどうしたいとの願望もない。あけみと別れて、自分とつきあう安藤の姿は想像できない。そんな荒業、できるとも思えない。ただ眺めるだけで、映子には精一杯だ。
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「変わらんね保は」
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「それはどうも」
「あ、あそこに小学生がおるで」
保が不意に田んぼの畦道の向こうを指差した。男の子二人がこちらの様子を窺っているようだ。
「ちょっとこっち来て」
映子は家の中に保を引っ張った。
みどりばあさんは舟を漕いでいる。乾いた手から、握ったままの紙コップをそっとはずし、傍らの緑色のブランケットを頭からかぶった。
「ちょっと待ってて」
映子は保を家の中に残して、外にゆったりとした足取りで出て行った。ついでに最近田んぼの方へと飛び出し始めた銀杏の枝を切ろうと鎌も手にした。
たぶん男の子たちは映子を注視していることだろう。その視線を充分感じながら映子は鎌で枝を切り落とした。
「うわぁ」
という叫び声と駆け出す足音。見上げると、さきほど畦道をこちらに向かってきていた男の子二人が、踵を返して走り去るところだった。
「映子、おまえ最高やな」
いつの間にか顔を出した保が腹を抱えて笑っている。
「ほんまにばあさんに見えるから不思議やな。まだ高校生やのにばあさんに間違われてかわいそうに」
「そんなんはもう慣れた」
「けど映子のやりたいことはわかったような気がするで。みどりばあさんってそういう存在やんな」
「なんやろね。わたしにはまだようわからん。けど必要なんやってことだけは感じてる」
「それ俺にもわかるで。あのとき一目散に逃げてかっこ悪かったこととか、恵一がまじでびびってたこととか、映子だけが怖がらんと堂々としとったこととか。俺の中では今もどれも忘れられへんことやしな。何て言うんかな。うまいこと言われへんけどあのときの時間は俺の中で最強や」
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