目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

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―――平成五年

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 勢い込んで乗り込んだみどりばあさんの家には、しかしみどりばあさんはいなかった。

 途中で来るかもしれないと辺りが暗くなり始める頃まで待ったが、その日はみどりばあさんはやって来なかった。
 
 待つ間、二三人の小学生がこちらを窺っていることには気づいた。

 映子はみどりばあさんの振りをする気にはなれず、家の中から出ることはしなかった。

「明日から張り込みやな」

 恵一が、このことをみんなに話して、交替でみどりばあさんの家に通って、みどりばあさんを捕まえようと言う。

「ちょっと待って」

 映子はそれを留めた。

 京介の靴が、みどりばあさんの家で見つかったこと。みどりばあさんが容疑者として取調べを受けたこと。話すのはいいけれど、宮井から聞いたという話は祥子にはしないでほしいと言った。

 恵一は眉をしかめた。

「祥子にとっては今も宮井さんは、優しい宮井さんのままやから。今更それを壊すようなことはしたくない」

「けど、あいつのしてきたことや」

「そうやけど。でも祥子には知られたくない」

 映子が強く言うと、恵一は渋々、宮井の名前は出さないことを了承した。

「けど、保には言うからな」

 そこは映子にも異論はなかった。

 家に帰ると珍しくキッチンから話し声が聞こえる。

 映子がドアを開けると数年ぶりに見る懐かしい顔があった。

「お父さん…」
 
 映子は声を上げた。

 食器や食品が辺り一面に散乱した日以来、一度も顔を合わせていない父だった。

 幾分か白髪の割合が増えている。
 食卓に座って、当たり前のようにビールを飲んでいる。
 テーブルには箸もあり、並んだ肉じゃがや小松菜の煮浸しに手をつけたような後もある。

「おかえり、映子」

 父が言う傍らで母がにっこり笑んでいる。

「大きくなったな」

 少し酔っているのか映子の頭をぐりぐりと撫で回す。

「ほらお父さん。映ちゃん嫌がってる。もう小学生と違うのよ。―――映ちゃん、手洗っておいで」

 父の手から解放されて、映子は戸惑いながら洗面所で手を洗った。

 いろんな疑問符が頭の中を飛び交った。

「映子。お父さん帰って来ようと思うねん」

 映子が席に着くなり父が切り出した。

 母はそれでいいんだろうかと母を見ると母はにっこりとうなずき返した。

「今まで長い間悪かった。母さんが一番苦しいときに逃げ出して本当にすまなかった。今更戻って来たいなんて虫のいい話だと承知している。でも映子。お父さんを許してくれ。すまん」

 父はテーブルに額が付くほど頭を下げた。

 父の足元には大きなボストンバッグが置かれている。

 母ならすぐに中身を片付けてしまいそうだけれど、そのまま置かれているのは、映子の返事次第ではそのまま帰ることも辞さない構えの表れだ。

 納得のいかない思いも当然あったが母がいいなら、映子は何も言うことはない。

「別に、いいよ」

 映子の返答に父は下げたままだった頭を勢いよく上げた。

「映子。ありがとう。お父さん、がんばるからな」

 その後は久しぶりに楽しい食卓になった。

 父は映子の高校生活を詳しく知りたがり、学校の見取り図まで映子に書かせ、どこが教室か、どこが図書室かなど事細かに説明をせがんだ。

 母も知らなかったことが多かった。

 母も身を乗り出して映子の話を聞いた。

 お風呂上り、弟の京介に線香をあげようと玄関横の和室に入った。

 母が普通に戻ってから、この部屋は京介だけの部屋になった。

 仏壇の扉は閉じられていた。

 扉を開いて、線香を出そうと下の引き出しを引くと中に伏せられた京介の写真が入っていた。

 その横にはきちんと畳まれた片方だけの緑色の靴下も入っている。

 映子はマッチを探したがどこにも見当たらない。
 ちょうどトイレから出てきた父を呼び止めた。

「マッチ持ってない?」

「ライターならあるで」

 父は一旦二階に上がっていってライターを手にすぐに戻ってきた。
 細くくゆる煙の先が部屋に吸い込まれていく。
 いつから京介の写真と靴下は引き出しに仕舞われたままになっているのだろう。
 思い返してみたがわからなかった。

「ねぇ」

 映子は立ち去ろうとする父を呼び止めた。冷静に話を聞ける人間が今ここにいることに気がついた。

「京ちゃんの靴はどこで見つかったか知ってる?」

 父は畳にあぐらをかいて座った。

「なんで今更そんなこと聞くんや」

「ちょっと気になって」

「あれは事故やったんやで。京介は過って水路に転落してしまった。その上で話を聞くんやで」

「わかってる」

「靴はな、水路横に建ってる小屋から見つかった。長谷川きよいう人が管理してる小屋やそうや。父さんも見たけど何の変哲もない普通の小屋やった。そこに両方きちんと揃えて置いてあった」

 宮井の話を裏付けるように父の話は進む。

「正直父さんもその長谷川きよいう人のこと疑った。当時頻繁にその小屋に出入りしてたそうやし、京介がきちんと揃えて靴を脱ぐはずないからそのきよいう人が揃えて置いたんちゃうかって。でも京介が水路に落ちた日は行ってないって主張して。その日はきよの主人に姑、小姑も家にいたらしくてきよは出かけてないと。それに新聞配達の人が夕刊を届けたとき、きよが直接受け取ったって証言して。それがちょうど京介の亡くなったとされる時間やったらしい。小屋から家までは歩いて三十分はかかるらしくて、きよは車の運転はおろか自転車にも乗れん。犯行は無理だろうと。目立った外傷もなかったし結局事故と判断された」

「もう片方の靴下は見つからんかったんやんね」

「そうやな。警察も水路さらってだいぶ下流の方まで捜索したみたいやけど結局見つからんかった。父さんな、そのきよいう人に一回会いに行ったんやで」

 映子は驚いて息をのんだ。

「なんとなく釈然とせんものを感じ取ってな。方々に聞いて回ってきよに会ったんや。なんてことない普通のおばちゃんやった。水路で亡くなった子の父親や言うたら、かわいそうにって泣き崩れて。自分には子供はおらんけど、昔流産したことがあるらしくて流れると水で自分のことも想像したみたいやな。力になれなくて堪忍な言うて謝られた」

「そうやったんや」

 みどりばあさんの泣き崩れる姿を映子は想像できなかった。

 乾いた外面と激しい感情とが結びつかない。

 宮井を前に唯一怒りを露わにしたときでさえ、みどりばあさんは一点冷めている自分を持っていて感情的ではなかった。

「さてと」

 父は伸びをして立ち上がった。

「明日から仕事探しや」

「どういうこと?」

 映子は首を傾げた。

「父さんな、実はリストラされたんや。明日から職安通いでなんとしても職見つけたる。母さんと映子の負担になるわけにはいかんからな」

「そうやったん?」

 帰ってきていいかと聞く前に、それをまずそれを言うべきではなかったのかと思ったが口には出さなかった。

「事業縮小の方針で父さんのいた部署がなくなることが決まった。まさか自分が不況のあおりを食らうとは思わんかったよ」

 世間はバブルが弾けたとかで不況の真っただ中だった。

 父は下唇を突き出して眉をちょっと上げると大げさに肩をすくめてみせた。



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