目に映った光景すべてを愛しく思えたのなら

ひかる。

文字の大きさ
41 / 44
―――平成七年

40

しおりを挟む
 帰り道、角のタバコ屋の前に見知った車が停まっていた。

 タバコ屋は今はもうやっていない。

 店と看板だけが残っている。映子が通りかかるのに合わせて運転席の扉が開く。宮井だった。

「乗りなよ」

 どうしようかと迷ったが、映子は助手席に乗り込んだ。
 宮井の様子がいつもとは少し違っていた。憔悴しきったように全身から力が抜けている。

 宮井はきよの家に行ってから、今まで一度も映子の前に現れなかった。

 約束を破った映子を、宮井はもっと責めるだろうと思っていた。

 きよの家ではきよに止められたが、必ず何かしかけてくると警戒していた。案に相違して何も音沙汰がなかった。

「センター試験だったんだろう? どうせ君のことだ。万事抜かりなく事を運んだんだろうね」

「何か用ですか」

 宮井はちらりと映子を見、すぐに前へと視線を戻した。

「用ってほどの用じゃない。ただ話がしたいだけだ」

 そう言いはしたものの、宮井は無言で車を走らせた。

 どこへ行くあてもないようだ。
 同じ道をただ走らせ、何を思ったのか川沿いの土手道で宮井は車を停めた。

「僕がどうして約束を破った君を責めないのか、知りたくはないかい?」

「別に聞きたくないです」
 
 宮井のことだ。改心したといったいい話ではないのは確かだ。

 映子のにべもない返答に宮井は薄く笑う。

「僕は君と話しているととても楽しいよ。自分を繕う必要がない。気が楽だ。言いたいついでに言わせてもらうよ。きよはね、僕の産みの母なんだよ」

「え?」

 映子は思わず宮井の顔を注視した。

 映子が動揺したのが嬉しかったのか、宮井は愉快げに口端を上げた。

「驚いただろう? きよは最初の結婚で僕を産んでるんだよ。三十五のときに産んだ子供でね。なのにきよは僕を捨てて長谷川と再婚した。でも結局その長谷川とも上手くいかず、また別の男に乗り換えた」

「きよさんには子供はいないはずです」

 きよ本人から聞いたと父が言っていた。

「捨てた子供だからだろう。いないってことにしてるんだ」

 本当かどうかはわからない。

 でもみどりばあさんへの宮井の執着を思えば、納得もいく。

「きよさんはあなたが自分の子だと知ってるんですか」

「気づいてるだろうね。気づいているけれど、知らないふりをしている。意識的にせよ無意識にせよ、人は自分に都合の悪いことには目を背けるものだ。それは誰だってそうだよ。僕だって、君だって例外じゃない」

「それは弟のこと、そう言いたいんですよね」

「さすが、君は物分りがよくて話がはやいよ。そこもわかってくれている。どうだい、映子。受験なんか辞めて僕と結婚しないか。君ももう十八だろ。結婚できる年だ」
 
 宮井が本心から口にしていないことはわかっている。

 自分を貶めようと画策している男を信じられるほど、映子はお人よしではない。沈黙をどう受け取ったのか。宮井はさらに言う。

「映子がうんと言ってくれたら、この話は僕の胸に留めておくよ。そうすれば君はこれ以上苦しまなくて済む」

「わたしにも一応、やりたいことがあるんで」

「この先一生をかけて後悔が残ったとしてもかい」

 宮井は何を言おうとしているのだろうか。

 映子は宮井の目の奥をじっと見つめた。暗い穴があるだけで何も感じられない。映子が訝しげに眉をひそめると、宮井は

「残念だよ」

 そう言って、ダッシュボードからタバコを取り出すと、
 ライターで火をつけた。車内は瞬時にタバコのにおいが充満した。

「じゃあこれから君の弟が亡くなった日の話をしよう。君だってうすうす想像している状況とそう違わない。僕はそう思うよ」

 宮井は長く煙を吐き出すと見ていたかのように語りだした。








 君の弟はね、確か京介くんだったよね。京介はあの日、みんながみどりばあさんと呼ぶあの家に来たんだよ。

 しばらく小屋のなかで遊んでいたんだ。当時きよは頻繁にあそこに出入りしていて、テレビも置いてあったし、農具もあった。
 小さな子供には珍しく、興味を引かれたことだろうね。
 
 そのうち退屈してきて、家の前を流れる水路に気がついた。子供だものね。水遊びをしたくなった。小屋で靴を脱いで、靴下はズボンのポケットにでもねじ込んだんだろう。 
 そのとき、声をかけられた。靴はきちんと揃えて脱ぎなさいと。きよだよ。あの日、きよもあの小屋にいたんだよ。
 京介は一人じゃなかった。藤井と一緒にいたって? 
 その証言はうそだよ。きよはあのときあそこにいたんだ。でも用事か何かを思い出して、小さな男の子を残して家を去った。だからってきよを責められはしないよね。きよの子じゃないんだ。きよは京介を殺していないよ。それは僕が証言する。京介は、水路の早い流れに足をとられて、流されたんだ






「どうしてそんなにはっきりと断言できるんですか。見ていたわけではないのに」

 断定的に話す宮井に違和感を覚えて、映子は話を止めた。

 宮井はこれ以上はないくらい微笑んだ。気味の悪い笑みだった。

「見ていたんだよ、僕は。僕はあのとき十八だった。大学の休みを利用して、僕は初めて、東京から大阪まで来たんだ。本当の母親のことは父親から聞きだしていた。顔を知りたくて、ひと目見たくて、あの日、僕はきよがいる家まで行ったんだ。きよは出かけるところだった。向かった先はあの小屋だったよ。そこに小さな男の子が泣きながらやって来た。きよが慰めて、遊んでやっていた。どうして泣いていたかって? フェアじゃないから本当のことを言うよ。水路の反対側から見ていたから、よく聞こえなかった。でも大方察しはつく。兄か姉にでも泣かされたんだろうなって僕は思ったよ。僕に兄弟はいないけど、たまにそういう光景は見かけたからね。兄貴や姉貴は虫の居所が悪ければ、妹や弟にあっち行けって命令している。誰にだって経験のあるたわいもないことさ」

 映子の鼓動が大きく脈打った。

 宮井の意図がようやくわかり、ただ呆然と宮井を見つめた。

「あなたは、流されていく京介を、ただ見ていたんですか」

「あっと言う間だったからね。流されたと思ったときには視界から消えていた。僕ではどうすることもできなかったよ」

「だけど、それでも人を呼ぶとか、何か。何かできることはあったはず」

「僕を責めるのはやめてくれ。誰が一番の責任を負うべきか。自分の胸に聞いてみるといい」

 宮井は艶然と微笑んだ。

 宮井が、映子を責めなかったはずだ。

 その理由がわかって、映子は呆然と宮井を見つめた。

 宮井は最も重要な切り札を隠し持っていたのだから。

 この男の言うことに乗せられてはいけない。そうは思うけれど、意思とは裏腹に世界が反転していくのを止められなかった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

黒瀬部長は部下を溺愛したい

桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。 人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど! 好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。 部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。 スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。

処理中です...