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―――平成七年
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帰り道、角のタバコ屋の前に見知った車が停まっていた。
タバコ屋は今はもうやっていない。
店と看板だけが残っている。映子が通りかかるのに合わせて運転席の扉が開く。宮井だった。
「乗りなよ」
どうしようかと迷ったが、映子は助手席に乗り込んだ。
宮井の様子がいつもとは少し違っていた。憔悴しきったように全身から力が抜けている。
宮井はきよの家に行ってから、今まで一度も映子の前に現れなかった。
約束を破った映子を、宮井はもっと責めるだろうと思っていた。
きよの家ではきよに止められたが、必ず何かしかけてくると警戒していた。案に相違して何も音沙汰がなかった。
「センター試験だったんだろう? どうせ君のことだ。万事抜かりなく事を運んだんだろうね」
「何か用ですか」
宮井はちらりと映子を見、すぐに前へと視線を戻した。
「用ってほどの用じゃない。ただ話がしたいだけだ」
そう言いはしたものの、宮井は無言で車を走らせた。
どこへ行くあてもないようだ。
同じ道をただ走らせ、何を思ったのか川沿いの土手道で宮井は車を停めた。
「僕がどうして約束を破った君を責めないのか、知りたくはないかい?」
「別に聞きたくないです」
宮井のことだ。改心したといったいい話ではないのは確かだ。
映子のにべもない返答に宮井は薄く笑う。
「僕は君と話しているととても楽しいよ。自分を繕う必要がない。気が楽だ。言いたいついでに言わせてもらうよ。きよはね、僕の産みの母なんだよ」
「え?」
映子は思わず宮井の顔を注視した。
映子が動揺したのが嬉しかったのか、宮井は愉快げに口端を上げた。
「驚いただろう? きよは最初の結婚で僕を産んでるんだよ。三十五のときに産んだ子供でね。なのにきよは僕を捨てて長谷川と再婚した。でも結局その長谷川とも上手くいかず、また別の男に乗り換えた」
「きよさんには子供はいないはずです」
きよ本人から聞いたと父が言っていた。
「捨てた子供だからだろう。いないってことにしてるんだ」
本当かどうかはわからない。
でもみどりばあさんへの宮井の執着を思えば、納得もいく。
「きよさんはあなたが自分の子だと知ってるんですか」
「気づいてるだろうね。気づいているけれど、知らないふりをしている。意識的にせよ無意識にせよ、人は自分に都合の悪いことには目を背けるものだ。それは誰だってそうだよ。僕だって、君だって例外じゃない」
「それは弟のこと、そう言いたいんですよね」
「さすが、君は物分りがよくて話がはやいよ。そこもわかってくれている。どうだい、映子。受験なんか辞めて僕と結婚しないか。君ももう十八だろ。結婚できる年だ」
宮井が本心から口にしていないことはわかっている。
自分を貶めようと画策している男を信じられるほど、映子はお人よしではない。沈黙をどう受け取ったのか。宮井はさらに言う。
「映子がうんと言ってくれたら、この話は僕の胸に留めておくよ。そうすれば君はこれ以上苦しまなくて済む」
「わたしにも一応、やりたいことがあるんで」
「この先一生をかけて後悔が残ったとしてもかい」
宮井は何を言おうとしているのだろうか。
映子は宮井の目の奥をじっと見つめた。暗い穴があるだけで何も感じられない。映子が訝しげに眉をひそめると、宮井は
「残念だよ」
そう言って、ダッシュボードからタバコを取り出すと、
ライターで火をつけた。車内は瞬時にタバコのにおいが充満した。
「じゃあこれから君の弟が亡くなった日の話をしよう。君だってうすうす想像している状況とそう違わない。僕はそう思うよ」
宮井は長く煙を吐き出すと見ていたかのように語りだした。
君の弟はね、確か京介くんだったよね。京介はあの日、みんながみどりばあさんと呼ぶあの家に来たんだよ。
しばらく小屋のなかで遊んでいたんだ。当時きよは頻繁にあそこに出入りしていて、テレビも置いてあったし、農具もあった。
小さな子供には珍しく、興味を引かれたことだろうね。
そのうち退屈してきて、家の前を流れる水路に気がついた。子供だものね。水遊びをしたくなった。小屋で靴を脱いで、靴下はズボンのポケットにでもねじ込んだんだろう。
そのとき、声をかけられた。靴はきちんと揃えて脱ぎなさいと。きよだよ。あの日、きよもあの小屋にいたんだよ。
京介は一人じゃなかった。藤井と一緒にいたって?
その証言はうそだよ。きよはあのときあそこにいたんだ。でも用事か何かを思い出して、小さな男の子を残して家を去った。だからってきよを責められはしないよね。きよの子じゃないんだ。きよは京介を殺していないよ。それは僕が証言する。京介は、水路の早い流れに足をとられて、流されたんだ
「どうしてそんなにはっきりと断言できるんですか。見ていたわけではないのに」
断定的に話す宮井に違和感を覚えて、映子は話を止めた。
宮井はこれ以上はないくらい微笑んだ。気味の悪い笑みだった。
「見ていたんだよ、僕は。僕はあのとき十八だった。大学の休みを利用して、僕は初めて、東京から大阪まで来たんだ。本当の母親のことは父親から聞きだしていた。顔を知りたくて、ひと目見たくて、あの日、僕はきよがいる家まで行ったんだ。きよは出かけるところだった。向かった先はあの小屋だったよ。そこに小さな男の子が泣きながらやって来た。きよが慰めて、遊んでやっていた。どうして泣いていたかって? フェアじゃないから本当のことを言うよ。水路の反対側から見ていたから、よく聞こえなかった。でも大方察しはつく。兄か姉にでも泣かされたんだろうなって僕は思ったよ。僕に兄弟はいないけど、たまにそういう光景は見かけたからね。兄貴や姉貴は虫の居所が悪ければ、妹や弟にあっち行けって命令している。誰にだって経験のあるたわいもないことさ」
映子の鼓動が大きく脈打った。
宮井の意図がようやくわかり、ただ呆然と宮井を見つめた。
「あなたは、流されていく京介を、ただ見ていたんですか」
「あっと言う間だったからね。流されたと思ったときには視界から消えていた。僕ではどうすることもできなかったよ」
「だけど、それでも人を呼ぶとか、何か。何かできることはあったはず」
「僕を責めるのはやめてくれ。誰が一番の責任を負うべきか。自分の胸に聞いてみるといい」
宮井は艶然と微笑んだ。
宮井が、映子を責めなかったはずだ。
その理由がわかって、映子は呆然と宮井を見つめた。
宮井は最も重要な切り札を隠し持っていたのだから。
この男の言うことに乗せられてはいけない。そうは思うけれど、意思とは裏腹に世界が反転していくのを止められなかった。
タバコ屋は今はもうやっていない。
店と看板だけが残っている。映子が通りかかるのに合わせて運転席の扉が開く。宮井だった。
「乗りなよ」
どうしようかと迷ったが、映子は助手席に乗り込んだ。
宮井の様子がいつもとは少し違っていた。憔悴しきったように全身から力が抜けている。
宮井はきよの家に行ってから、今まで一度も映子の前に現れなかった。
約束を破った映子を、宮井はもっと責めるだろうと思っていた。
きよの家ではきよに止められたが、必ず何かしかけてくると警戒していた。案に相違して何も音沙汰がなかった。
「センター試験だったんだろう? どうせ君のことだ。万事抜かりなく事を運んだんだろうね」
「何か用ですか」
宮井はちらりと映子を見、すぐに前へと視線を戻した。
「用ってほどの用じゃない。ただ話がしたいだけだ」
そう言いはしたものの、宮井は無言で車を走らせた。
どこへ行くあてもないようだ。
同じ道をただ走らせ、何を思ったのか川沿いの土手道で宮井は車を停めた。
「僕がどうして約束を破った君を責めないのか、知りたくはないかい?」
「別に聞きたくないです」
宮井のことだ。改心したといったいい話ではないのは確かだ。
映子のにべもない返答に宮井は薄く笑う。
「僕は君と話しているととても楽しいよ。自分を繕う必要がない。気が楽だ。言いたいついでに言わせてもらうよ。きよはね、僕の産みの母なんだよ」
「え?」
映子は思わず宮井の顔を注視した。
映子が動揺したのが嬉しかったのか、宮井は愉快げに口端を上げた。
「驚いただろう? きよは最初の結婚で僕を産んでるんだよ。三十五のときに産んだ子供でね。なのにきよは僕を捨てて長谷川と再婚した。でも結局その長谷川とも上手くいかず、また別の男に乗り換えた」
「きよさんには子供はいないはずです」
きよ本人から聞いたと父が言っていた。
「捨てた子供だからだろう。いないってことにしてるんだ」
本当かどうかはわからない。
でもみどりばあさんへの宮井の執着を思えば、納得もいく。
「きよさんはあなたが自分の子だと知ってるんですか」
「気づいてるだろうね。気づいているけれど、知らないふりをしている。意識的にせよ無意識にせよ、人は自分に都合の悪いことには目を背けるものだ。それは誰だってそうだよ。僕だって、君だって例外じゃない」
「それは弟のこと、そう言いたいんですよね」
「さすが、君は物分りがよくて話がはやいよ。そこもわかってくれている。どうだい、映子。受験なんか辞めて僕と結婚しないか。君ももう十八だろ。結婚できる年だ」
宮井が本心から口にしていないことはわかっている。
自分を貶めようと画策している男を信じられるほど、映子はお人よしではない。沈黙をどう受け取ったのか。宮井はさらに言う。
「映子がうんと言ってくれたら、この話は僕の胸に留めておくよ。そうすれば君はこれ以上苦しまなくて済む」
「わたしにも一応、やりたいことがあるんで」
「この先一生をかけて後悔が残ったとしてもかい」
宮井は何を言おうとしているのだろうか。
映子は宮井の目の奥をじっと見つめた。暗い穴があるだけで何も感じられない。映子が訝しげに眉をひそめると、宮井は
「残念だよ」
そう言って、ダッシュボードからタバコを取り出すと、
ライターで火をつけた。車内は瞬時にタバコのにおいが充満した。
「じゃあこれから君の弟が亡くなった日の話をしよう。君だってうすうす想像している状況とそう違わない。僕はそう思うよ」
宮井は長く煙を吐き出すと見ていたかのように語りだした。
君の弟はね、確か京介くんだったよね。京介はあの日、みんながみどりばあさんと呼ぶあの家に来たんだよ。
しばらく小屋のなかで遊んでいたんだ。当時きよは頻繁にあそこに出入りしていて、テレビも置いてあったし、農具もあった。
小さな子供には珍しく、興味を引かれたことだろうね。
そのうち退屈してきて、家の前を流れる水路に気がついた。子供だものね。水遊びをしたくなった。小屋で靴を脱いで、靴下はズボンのポケットにでもねじ込んだんだろう。
そのとき、声をかけられた。靴はきちんと揃えて脱ぎなさいと。きよだよ。あの日、きよもあの小屋にいたんだよ。
京介は一人じゃなかった。藤井と一緒にいたって?
その証言はうそだよ。きよはあのときあそこにいたんだ。でも用事か何かを思い出して、小さな男の子を残して家を去った。だからってきよを責められはしないよね。きよの子じゃないんだ。きよは京介を殺していないよ。それは僕が証言する。京介は、水路の早い流れに足をとられて、流されたんだ
「どうしてそんなにはっきりと断言できるんですか。見ていたわけではないのに」
断定的に話す宮井に違和感を覚えて、映子は話を止めた。
宮井はこれ以上はないくらい微笑んだ。気味の悪い笑みだった。
「見ていたんだよ、僕は。僕はあのとき十八だった。大学の休みを利用して、僕は初めて、東京から大阪まで来たんだ。本当の母親のことは父親から聞きだしていた。顔を知りたくて、ひと目見たくて、あの日、僕はきよがいる家まで行ったんだ。きよは出かけるところだった。向かった先はあの小屋だったよ。そこに小さな男の子が泣きながらやって来た。きよが慰めて、遊んでやっていた。どうして泣いていたかって? フェアじゃないから本当のことを言うよ。水路の反対側から見ていたから、よく聞こえなかった。でも大方察しはつく。兄か姉にでも泣かされたんだろうなって僕は思ったよ。僕に兄弟はいないけど、たまにそういう光景は見かけたからね。兄貴や姉貴は虫の居所が悪ければ、妹や弟にあっち行けって命令している。誰にだって経験のあるたわいもないことさ」
映子の鼓動が大きく脈打った。
宮井の意図がようやくわかり、ただ呆然と宮井を見つめた。
「あなたは、流されていく京介を、ただ見ていたんですか」
「あっと言う間だったからね。流されたと思ったときには視界から消えていた。僕ではどうすることもできなかったよ」
「だけど、それでも人を呼ぶとか、何か。何かできることはあったはず」
「僕を責めるのはやめてくれ。誰が一番の責任を負うべきか。自分の胸に聞いてみるといい」
宮井は艶然と微笑んだ。
宮井が、映子を責めなかったはずだ。
その理由がわかって、映子は呆然と宮井を見つめた。
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