飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

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 不思議なものだ。寝てばかりいるよりも、菖蒲さんのコーヒーを淹れたり書類を纏めたりしていた方が気が楽になるのだから。
 途中「休憩しようか」と菖蒲さんが用意した茶菓子を突きつつ、久しぶりに日常の片鱗を味わった気分でいた。
 授業に出ても実感が湧かなかったが、今日で確信した。やっぱり、俺にとっての日常は菖蒲さんの側に居ることなのだったと。



「菖蒲さん、お世話になりました。……ベッドも、ありがとうございます」
「もう帰るの? 泊まっていけばいいのに」
「い、いえ……それは。お気持ちだけでも十分です」
「僕と一緒に寝るのが難しいなら僕は別のところで眠るよ。……自分の部屋で一人で寝るよりかは悪くないと思うんだけど」

 俺からしてみれば菖蒲さんの部屋で眠ることもなかなかの難易度ではあるが、コマンドで寝かしつけられればいい話だ。
 菖蒲さんの気遣いは痛いほど分かったし、純粋にありがたかった。けれど、これは俺の問題でもある。
 今日一日、午後だけではあるものの菖蒲さんの時間を拘束してしまった。
 菖蒲さんは優しいから口には出さなかったが、部屋で出来ることは限られているし何度もかかってきた電話に出るため部屋を出ていく菖蒲さんを見ると普段よりも忙しそうに見えた。……邪魔してるのは分かってる。だからこそ、俺から言わなければならない。

「大丈夫です、俺は。……今日一日菖蒲さんと一緒にいたお陰で、体調も大分楽になりましたので」
「……」
「……? 菖蒲さん……?」
「そうか、ならよかったよ。……と、言いたいところなんだけどね」

「少し、現実的な話をしようか」ソファーに腰を降ろし、菖蒲さんは「愛佐」と隣をぽんぽんと叩く。こっちに来い、ということなのだろう。俺は恐る恐る腰を降ろした。
「うん、いい子だ」と頭を撫でられ、つい頬が緩む。けど、とちらりと菖蒲さんを見上げた。

「お話、とは……」
「……うん、君自身の話だ」
「……はい」
「僕からの提案だけど、君に必要なのは休息だ。……学園を離れてね」
「………………」
「本来ならばサブドロップに陥った生徒は一度クリニックに診てもらう必要がある。心身に大きく影響を与えるものだからね。……それから、そこまで君を追い詰めた対象にも然るべき処罰を与えなければならない」
「……あ、やめ、さん」
「大丈夫。君は何も言わなくていい。……一先ず、僕の話を聞いてくれないか」

 手を握られ、「大丈夫、大丈夫」と繰り返されると呼吸が穏やかになっていく。けれど、体の震えは止まらない。握り締められた指先が冷たくなっていくのだ。

「これは立派な犯罪だ。……君はこのまま自分が耐えれば、或いは自分で解決しようと思っていたのかも知れないが……それは逆に自分の首を締めることになる」
「……っ、……」
「SubがDomを相手にするのはあまりにも……そうだな。すまないね、言葉を選ばずに言わせてもらうよ――分が悪すぎる。こう言うことには大抵normalかDomの第三者を挟むべきだ」

 なぜだ。
 なぜだろうか。
 あんなに大好きで、聞いてるだけで胸が暖かくなる甘くて優しい菖蒲さんの声。それが、今はとても冷たく響く。まるで役人の話を聞いてるような、そんな冷えていくような感覚に自分でも困惑した。
 菖蒲さんの言葉は最もで、客観的に見て正しい。だからこそ――聞きたくない。そんな言葉が頭に浮かんだ。

「君は何もしなくてもいい。あの時君が勇気を振り絞って口にしてくれたお陰で大体は対象は絞れてる。……後は、こっちでもなんとかしよう。だから、事が落ち着くまでは……愛佐?」
「………………はい」
「……思い出したくないことを掘り返すような真似をして悪かったと思ってる。けど、これは君のためなんだ、愛佐」

 分かってる。頭でも理解している。
 けど、釈然としない。自分でもこの感情を言語化することができなかった。
 あくまでも菖蒲さんは俺の憧れの生徒会長の姿のまま、淡々と俺のことを『処理』してくれてる。なのに、なんでこんなに菖蒲さんの言葉が薄っぺらく感じるのか。
 菖蒲さんのことだ、敢えて自我を殺して義務的に伝えてくれてるのだと……そう思って気づいた。
 多分俺は、俺は、菖蒲さんに。

「……大丈夫です」
「……大丈夫っていうのは、どういう意味かな?」
「菖蒲さんが思ってるようなことにはなりません。……菖蒲さんに迷惑をかけるようなことは、何も」
「…………愛佐?」

 菖蒲さんにとって、今の俺は『Domに性被害に遭った一人のSub』でしかないのだ。然るべき手続きと書類にサインをし、対象を――星名たちを訴える。それが菖蒲さんの思う『ただしいこと』だ。無論、俺もそう思う。そうされるべきだ。分かっている。

「クリニックには明日、一度診察受けてみます。……薬も切れそうだったので」
「ああ、それがいい。必要であれば僕も付き合うよ」
「大丈夫です」
「……そうかい? 一応午前は時間を空けておく。気が変わったらいつでも呼んでくれたらいい」
「……はい、お世話になりました」
「やっぱり、部屋に戻るのか?」
「……はい。明日の授業の準備もありますので」

 学校を休むつもりはない。
 そう伝えれば菖蒲さんは怒るわけでもなく、「そうか」と呟いた。菖蒲さんは何も言わない。無理矢理にでも押さえつけて引き止めるような真似、しない。優しい人だから。

「学園側は君の体調が優れないことは知っている。休んだところで咎められることはない。無理せず、いつでも僕のことを頼ってくれて構わないからね」
「分かりました。……あの、今日はすみませんでした」
「……あれ、言わなかったっけ?」
「え?」
「僕は『ありがとうございます』と言ってくれた方が嬉しいんだけどな」

 いたずらっ子のように笑う菖蒲さんに上手く笑い返すことはできなかった。表情筋が強張ったみたいに動かない。
 言葉に詰まる俺に菖蒲さんは少しだけ寂しそうに笑い、それから「部屋まで送るよ」と俺の肩を優しく掴んだ。
 そんな横顔を見つめながら俺は胸の奥に一つの欲望が込み上げるのを感じだ。

 ――今、この人に『好き』だと言ったらどうなるのか。

「……っ」
「愛佐? どうしたの?」
「いえ、……大丈夫です」
「ならいいけど。……辛かったら僕の腕、掴んでくれて構わないよ」
「……ありがとうございます」

 菖蒲さんは優しい。
 それは俺、ではなく、『被害者のSub』に対する優しさだろう。だからこそ、補佐として扱ってもらえたことが嬉しかったのだと今更になって気付いた。

 俺を可哀想な目で見ないでほしい。俺に手を差し伸べないでほしい。
 頼むから、今までみたいにコマンドでいうことを聞かせてほしい。

「……行こうか、愛佐」

 はい、と答える自分の声がまるで他人のように頭に響く。
 触れられるだけで嬉しかった菖蒲さんの手が、今は分厚いゴム手袋越しに感じるのだ。

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