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全てを失った日
ハートのサイス
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興奮も冷めないまま、帽子屋から貰った新聞記事を片手に部屋へと戻ってくる。
そして、何度も繰り返しその紙面に目を向けた。
明日の正午、ハート城にて行われる何か。
帽子屋がいうにはそれは戴冠式と言っていたが……よくよく見てみると城以外にも国全体で祭りを行うような旨も書かれてる。
何が祭りだ、何がパーティーだ、何が戴冠式だ。
奥歯が砕けそうなほど歯を噛みしめる顎に力が入った。
悔しかった。
けど、このまま泣き寝入りするつもりもない。
エースが目覚めたらすぐに準備に取り掛かる。とはいえやることと言えば戴冠式前に王、そしてアリスを潰すことだ。
本当ならば今すぐにでも国の様子を見たいが、エースに倒れられても困る。
頃合いを見ていつでも出立出来るように身辺を整えていた。
それにしても、と手に先程のお茶会のことを思い返した。
三日月ウサギと呼ばれたあの男、どういうつもりなのだろうか。
一人でも味方は多いに越したことはないが、最初出会ったばかりのとき露骨に敵対視してきたあの男を思い出す。
母に恨みを持っている者は悔しいが、少なくはない。それでも全員が全員逆恨みにも等しい。己の杜撰さを全て国の、女王のせいにするような輩ばかりだ。
そしてそのような者ほど、突如現れたアリスを『救世主』と崇め奉る――それが共通点だった。
しかし、あの三日月ウサギは母を嫌い、アリスを殺すという僕の手伝いを買って出たのだ。
……つくづく、理解できない。
エースが目を覚ますまで自分も一休みするかとベッドに入ろうかとしたが、無理だった。
全身は起きがけの全身の痛みすら忘れるひどく昂ぶっており、目を閉じてもアリスを殺すシーンばかり想像しては眠れそうにない。
……少し、散歩でもするか。
あわよくばあの奇っ怪な紳士にもう一杯薔薇の紅茶をねだりに行くか。
そんなことを考えながらもぞりとベッドから起き上がったときだ。
いきなり部屋の扉が蹴破る勢いで開かれる。
「……ッ! な……――ッ」
「よぉ、邪魔すんぜー!」
入ってきたのは三日月ウサギだ。
外れかける扉に驚く暇もなく、ベッドの上で固まる僕を見つけると三日月ウサギはニィと笑う。
そして、ズカズカと僕に詰め寄ってきた。
「な……っ、なんだ、ノックくらいしろ無礼者が……ッ!」
「あーうっせえな。お前に渡したいものがあってきたんだよ」
「は、渡したいものだと……?」
そ、と三日月ウサギはよれよれの上着のポケットに手を突っ込み、そして何かを取り出した。
「ほら、手ぇ出してみろ」
「……変なものじゃないだろうな」
「それは自分で確認してみりゃいいだろ」
そう言って、差し出した手のひらの上にごとりと何かが載せられる。
三日月ウサギが用意した手のひら大の小瓶に息を飲んだ。
「……これは、なんだ」
「さっきなあ、眠りネズミに用意させたんだ。一滴でも飲めば致死量になる劇薬だ」
「……ッ!」
眠りネズミ――あのぼんやりとした男がこれを?
何故、というのは言わなくてもわかる。けれど、どうしてあいつがこんな代物を作れるのか。
……なるほどな、所詮はあいつもつまはじきもの仲間ということか。
そして、これを託された意図は一つだけだ。
そう理解した瞬間口元が歪んだ。
「俺は毒なんか地味なもんは好きじゃねえんだが、見たところ王子様。アンタ肝は据わってるがほそっこい腕してるしな」
「余計なお世話だ。……といいたいところだが、有り難く頂戴しておこう」
「なんせ国挙げてのパーティーだ。料理に混ぜれば効果覿面だしな」
そう、抜けるような笑い声を漏らす三日月ウサギに思わずひやりとしたものを覚える。
「おい……お前を同行するとは行ったが、国民たちを皆殺しにするわけではないからな。あくまでも狙いはアリス、そしてキングだ」
「ああ? 何甘っちょろいこと言ってんだ? じゃあお前を捕らえようとしてきた軍人はどうするんだよ」
「殺す」
「じゃあアンタのママが死んで喜んでるやつらは?」
「殺す」
「――じゃ、皆殺しだな」
……この男は、と呆れて言葉もでない。
けれど、それがただこの男の悪趣味なジョークで収まらないのが現状だ。
今までは守るべき対象としてきた国民達が敵に回る。
――母が守ってきたこの国が戦場となる。
あってはならない事だと思うが、その域はとっくに通り越してるのだろう。
母が不当な理由で処刑されたあの瞬間、決定的に顔を変えたのだ。
エースが起きたのは一時間経った頃だった。
「お休みのところ失礼します」とやってきたエースに僕はお茶会でのことを話した。
そして、帽子屋から預かった新聞記事も一緒にだ。
記事に目を向けた瞬間顔色を変えたエースだったが、「これからアリスを殺しに国へ戻る」と告げれば間髪入れずにエースは「お供します」と口にした。
「あの憎きアリスも、この馬鹿げた祭りに参加する厚顔無恥の愚民共を一掃してやりましょう」
そう腰に携えた剣の鞘を握り締めるエース。
その目には隠しきれぬほどの怨嗟が滲んでいる。
三日月ウサギと同じようなことを言っているが、僕も今となっては同じ気持ちだ。
筆頭に立つアリスも、それを持ち上げる群衆も全員が敵に見えた。
「……それと、今回三日月ウサギが同行することになった。あいつも協力してくれるという」
「三日月ウサギ……あの無礼な男ですか。――よろしいのですか?」
「少しは使えるだろう。邪魔になるなら捨て置けばいい」
「王子がそう仰るのなら自分はそれに従うまでです」
言いながらも、三日月ウサギへの不信感は隠しきれていないがエースも分かっているのだろう。
いくらなんでも国に対してたった二人で挑むのは無謀だと。
「明日の昼間、ということでしたね……ならば早めに移動して内部に侵入するのが得策でしょう。城に戻るのにも時間が掛かります」
「ああ、そのつもりだ」
「ならばあの男には自分から声を掛けておきましょう。王子はご準備を」
「ああ、頼んだぞ」
そう、エースは部屋を出ていった。
一人取り残された部屋の中、手のひらの小瓶を眺めた。
……準備とは言ったものの、今の僕に残ったものはこれくらいだ。
「……ッつ……」
エースたちの様子を見に行くかと立ち上がったとき、体に鈍い痛みが走った。
――ジャック。
あの男、次にあったら絶対に殺してやる。
そう決意を固め、痛みを堪えそのまま部屋を出た。
客室前の通路にはエースと三日月ウサギがいた。そして、部屋から出てきた僕を見るとエースは「王子、お待ちしておりました」と一礼するのだ。
「三日月ウサギ、お前ももう動けるのか」
「ああ。ちょーど退屈してたんだ。さっさと行こうぜ」
そうニィと笑う三日月ウサギは踵を返そうとし、そして「あ」と何かを思い出したようにこちらを振り返る。
「む。……なんだ、忘れ物か?」
「三日月ウサギって長ったらしいな。お前もミカちゃんって呼んでくれてもいいんだぞ?」
「何を言い出すかと思えば……」
「それは王子が決めることです。貴方のような者が強制することではありません」
そして何故お前が答えるんだ、とエースを横目に睨むがエースは素知らぬ顔をしている。
「きゃんきゃん煩え犬だなぁ?ご主人様取られて妬いてんのか?」
「取られてなどいない、それに俺は犬では……ッ」
「……くだらん問答する暇はない。一分一秒でも惜しい状況だぞ。さっさと行くぞ。……エース、ウサギ」
そう啀み合ってる、というよりも一方的に噛み付くエースを遊んでいる三日月ウサギに声を掛ければ、三日月ウサギは笑う。三日月をひっくり返したような歪な笑顔。どうやらウサギ呼びが気に入ったようだ。
「んじゃ帽子屋のおっさんに声掛けに行くか」
そう三日月ウサギが口を開いたときだった。
「その必要はないよ」
いつの間に通路の奥に立っていた帽子屋、そしてその隣には「見送りに来たよぉ」とアクビ混じり手を振ってくる眠りネズミに思わずいつの間にと息を飲む。
「そろそろだろうと思って様子を見に来たんだ。……うんうん、三人とも仲良くなったようでなんとも喜ばしいことだね」
「ディムも喜んでいるよ」と微笑む帽子屋。
どこが仲良く見えるのかということよりもまた例の虫がいるのかと思わず辺りを見回したが見つけきれなかった。
いや、見つけ切れなくて逆によかったのかもしれない。
ああそうだ、と帽子屋は思い出したように何かを取り出した。
「もしも城下町で何かあれば『此処』を頼るといい。私の知り合いが営んでる店だ。隠れ蓑にはなるだろう」
そう紙切れをエースに手渡す帽子屋。
エースは「ありがとうございます」とそれを受け取る。
ちらりと手元の紙切れに目を向ければ、そこには住所と建物の名前らしき単語が書かれていた。
『Bill the Lizard』……トカゲのビル?
それを更に横から覗き込んできた三日月ウサギは
「おいここって」と露骨に顔を顰める。
「まあ何か言われた私の名前を出すといい。ハッターは君をご指名だと」
対する帽子屋の態度はあくまでも変わらない。
そう微笑む帽子屋に大丈夫なのかと問い正したくもなるが、利用するかどうかは自分目で見て決めればいい話だ。
「礼を言うぞ、帽子屋。……僕たちを匿ってくれてありがとう」
「なに、そういった水臭いのはなしだ。私はここで君の好きはローズヒップティーを用意して吉報を待っているよ」
ああ、と頷き返す。
そして帽子屋の横、終始どこか上の空な男に目を向ける。
「……眠りネズミ。お前のくれた劇薬もありがたく使わせてもらう」
そう三日月ウサギに貰った例の小瓶についての礼を述べれば、眠りネズミは不思議そうに小首を傾げた。
「ん~……?劇薬?なんだろぉ、それ。僕は傷薬をミカちゃんに渡した気がするんだけどなぁ……?」
……どういうことだ?と三日月ウサギを睨もうとしたときだ。
「まあまあこまけーことはいいんだよ!ほら、さっさと行こうぜ!」
露骨に話題を誤魔化そうと僕とエースの背中を押すように、三日月ウサギは僕たちを半ば強制的に地下から連れ出した。
そしてそのまま帽子屋の屋敷から出たとき、ようやく三日月ウサギは僕たちから手を離すのだ。
「お、おい……ウサギ、どういう……」
「眠りネズミ、あいつは自分で万病に利く万能薬作ってるつもりなんだよ。……言ってやるなよ」
「いやそれは寧ろ言うべきじゃないか?」
「しかし人殺しの薬を作るには天才的な腕だからな、あいつはあのままでいいんだよ」
まあそんな劇薬に助けられる立場ではあるが、僕もエースも恐らく同じ気持ちなのだろう。
……というか、薬を作ろうとして劇薬を開発するって最早それは致命的ではないのか?
そしてその効力を何故三日月ウサギが知っているのか気になったが触れない方がいい気がして、僕は敢えて深く聞かないことにした。
それから僕たちは再び森を抜けて城へと向かおうとしたのだが、途中何人か兵と鉢合わせることになる。
目的は僕とエースなのだろう。
暗い森の中、真紅の軍部はよく目立つ。
咄嗟に近くの木陰に身を隠した僕たち。
「殺しますか」とエースは声を潜めて訪ねてくる。
「……待て、恐らく他にもいるはずだ。それにここで殺せば僕たちの所在が知られ、他の兵まで集まることになりかねん。そうすれば帽子屋にも迷惑がかかるだろう」
もしも謀反した王子を匿っていたとなれば今度こそあの男も死刑を免れないだろう。
……それだけは避けたかった。
「他に仲間がいるかも知れない。隠れてこの森を出る。殺しは国に戻ってからだ」
「焦れってーな。……けどま、確かに俺も宿を失うのは困るしな」
一応は三日月ウサギも帽子屋に恩義は感じているらしい。
この男、知性も理性もない野蛮な男と思っていたがわりと常識はあるのか。
一番飛び出さないか気掛かりだっただけに驚いた。
エースも異論はないようだ。
僕たちは隠れたまま兵に見つからないようにその場をやり過ごそうとした。
……そんなときだ。
「おーい、そっちは居そうか?」
奥から現れた男に思わずエースが反応しそうになる。
静まり返った森の中に響く明るい声。
「サイス殿……ッ!いえ、こちらには……」
――サイス。
ジャックの直属の部下であり、そしてエースの同期、好敵手でもあり――友人だった男だ。
規定の軍帽も視界の邪魔だからと身に付けず、型破りなところがジャックに気に入られて下に付いたような男だ。
今このタイミングで会いたくなかった。
なによりも、エースの反応が気になったのだ。
「おかしいなぁ。あの足跡、王子たちのものだと思ったんだけどな。……まあいいや、じゃあ適当に切り上げようぜ」
夜でも目立つその明るい茶髪を掻き上げ、サイスはそう一般兵の肩を叩いた。
いい加減でルーズ、実力はあるが捜索にはあまりにも向いていない人選だ。
誰が総指揮をとっているのかは明白だ。
恐らくキングかアリスの命だろうが、それでもあまりにもサイスが乗り気ではないことに驚いた。
そのまま立ち去るサイスの背中が見えなくなるまで僕たちは息を潜めていた。そしてやがてその足音も聞こえなくなったとき、「エース」と隣にいた男の顔を覗き込む。
「……王子、申し訳ございません」
「何故お前が謝るんだ。……それよりも、よく我慢したな」
「…………」
エースならばまさかサイスに斬り掛かるのではと思ったが、必死に堪えていたらしい。強く握り締めたその拳は手袋の下で赤くなってるのだろう。
「……しかし、探索があの男でよかった。サイスに見付かれば戦闘は免れないはずですからね」
口ぶりと表情が噛み合っていない。
二人が私生活でもよく一緒に鍛錬したりとしていたことは知っていた。だからこそ、こんなにそばにいた自分たちを見過ごすサイスが許せないのかもしれない。
……職業柄か、それともエースの生まれ持っての性格か。
「そうだな。……それにしてもサイスは本気で僕達を探してるようには見えなかったな」
「あいつはそういうやつなんです。……人を切ること以外に興味がない」
「実戦向きの人間を探索に駆り出すとはな、余程人手に困ってるのか?」
「……でしたら好都合なのですが」
「ま、じゃあ俺達もさっさと行こうぜ。他に足音はないようだしな」
そうだな、と俺達は会話を止め、再び足を進め始めた。
やがて蔦に覆われた城壁が視界に入る。また一歩、また一歩と近づくにつれて辺りの薔薇の匂いは濃くなる。門番は見当たらない。
まるで誰かを待っているかのように開かれたままの門に思わず乾いた笑いが漏れた。
「……あれで招いてるつもりか」
「……そうでしょうね。罠か、或いは本当にノコノコと王子が戻ってくると思ってるのか」
「後者だとすれば救えませんがね」と続けるエースの表情に笑みすらない。
裏口は他にもある。そちらへ回りましょうと続けるエースに僕は同意する。
恐らくあの男のことだ、城内にも城下町にも僕がいないことは既にわかってるのだろう。
だからサイスが森の中に駆り出されたのだ。
「ウサギ、準備しておけよ」
「ようやくかよ、思わず寝ちまうところだったぜ」
「言っておくが、騒ぎ立てるなよ。あくまで穏便にだからな」
「それ、そこの軍人にも言っといた方がいいんじゃねえの? 俺よりもうるせーだろ、絶対」
「馬鹿言え、隠密は俺の得意分野だ」
張り合うエース。
それは僕も初耳ではあるが、本人たちが意識しているのならそれでいいか。
恐らくどこもかしこも見張られているはずだ。
そうとなれば、騒ぎになって人が集まる前に全てを片付けるだけだ。
そして正門を避け、裏門へと回る。
薔薇の木で覆われた裏門は夜は特に暗く、通る人間が少ない。木々を抜け、城の敷地内に足を踏み入れる。そして、息を飲む。
ハートの城の周囲は女王の趣味によりたくさんの薔薇で覆われていた。
日々複数の庭師たちが手入れされていたその木々の真っ赤な薔薇たちには白いペンキがぶち撒けられ、どこもかしこも血のように汚れていたのだ。
「……ッ」
腸が煮え繰り返りそうだった。
誰の仕業かなんて考えることすらも馬鹿らしい。
「うっわ、汚えな。……なんだこれ、前はこんなんじゃなかっただろ?」
「……」
「王子……」
「……僕は大丈夫だ、先を急ごう」
息を吐く。平常心を取り戻そうと務めるが、あまりの怒りに手先の震えが止まらなかった。
母は、この美しい薔薇たちを毎朝眺めるのを日課にしていた。そしてそれは僕も同じだ。城の外へ出るのは許されなかったが、この城内の薔薇を見て回ることは許されたのだ。
「……俺は貴方の味方です」
「そんなこと一々言わずとも知っている」
エースは少しだけ間を置いてはい、と答えるのだ。三日月ウサギはうへ~と痒そうにしていたが、こいつの言動行動に今更目くじら立てるつもりはない。
この林を真っ直ぐに進めば庭に繋がる、そこから城の厨房へと行けるはずだ。
そういえば母のお気に入りだったコックたちはどうしているのだろうか、そんなことを考えていたときだ。
ぱきりと、背後から枝を踏むような音が聞こえた。
それに気付くよりも先に隣にいたエースが動く方が早かった。
キン、と耳を劈くような金属音が響く。振り返り、息を飲む。
僕を庇うように剣を抜いたエースが突然の襲撃を防いだのだ。そして、そこにいた人物に思わず名前を口にする。
「……っ、サイス……」
「お久し振りですねえ、王子……それと、エース」
「あと、そこのそいつは誰だ?」そう笑うサイス、そしてその周囲にはサイスの部下がこちらに銃を向けている。数は多くない。実力でいうなら、サイス以外は有象無象に等しいだろう。現に手の震えで焦点がぶれている。
「おっと動かないでくださいよ。一応俺達、王子を生け捕りにしろって命が降りてるんで。……万が一発砲して当たりどころが悪かったら首飛んじゃうかもしんないんで」
「ならば……その剣を収めるのが先じゃないか? サイス」
「馬鹿言え、お前は別だ」
瞬間エースが受け止めていた剣を持つ手とは別に腰から抜いた短剣をエースの喉仏狙って突こうとするサイス。それを見切ったエースは上体を反らし、その剣を流したあとにガラ空きになった脇腹に思いっきり蹴りを入れた。
「動きが大振りすぎて隙きが多いぞ!」
「ッ、く、はは……相変わらず無茶な……」
エースはうちの近衛兵の中でも優秀な成績を収めている。それは訓練だけではなく、実践でもだ。
そのエースの攻撃を食らっても倒れない人間の方が少ない。動きが鈍ったがそれも一瞬、サイスは笑いながらも次の剣技を繰り出すのだ。そしてエースはそれを受け流す。
サイスも力だけではなく技術と冷静な心を磨けばまだ高みへと望めただろうが、この男は夢中になると周りが見えなくなる。それが欠点なのだろう。今、この男の目には目の前のエースしか見えていないだろう。
そんなとき、三日月ウサギの背後で影が動いた。
「ウサギ」と三日月ウサギを呼べば、僕の言わんことを理解したらしい。はいよ、とやつが笑ったときやつの背後の影が大きく傾いた。そして、ビクビクと痙攣しながら地面に落ちているその男を見て驚く僕にやつは笑うのだ。
「言ったろ? 俺の方が隠密向きだって」
いつの間にかに手の中に握られていたナイフの先端は赤く濡れていた。それからすぐ他の奴らは三日月ウサギが危険だと判断したようだ、一斉に向けられ、発砲されるのを見越して姿を消したと思えばいきなり体が軽くなる。
三日月ウサギに抱き抱えられたのだとすぐに理解した。瞬間、向けられていた銃口に躊躇いが現れる。
「おい、いいのか? お前らの大好きな王子に誤射ったら大変なんだろ?」
「自殺願望あるやつは撃てよ、もしお前らが撃つなら俺もこいつを殺すけどな」このウサギ、無茶苦茶である。
けれど悪くない手だ。確実に出来る隙をウサギは逃さなかった。自ら人を振り回しながら敵陣に突っ込んだウサギはそのまま躊躇なく一人、また一人へとそのナイフの刃先を剥き出しになった首に突き立て、引っかくのだ。
確実に息の根を止める。それは素人にできるものではない。或いは訓練を積まれた軍人でも、殺すとなれば躊躇するものだ。それでもこの男にはそれがないのだ。
生温い血を被る度に噎せ返りそうなほどの匂いは濃くなり、あっという間に人の気配はエースとサイスだけになる。
「おーおー、やってんね」
「……おい、ウサギ……」
「この分なら心配はいらなさそうだな」
そう、一戦交えるエースたちを遠巻きに見ていた三日月ウサギはそう言って僕を抱き抱え直すのだ。
まさか、とやつを見上げたとき。
「おい軍人!そっちは頼んだぞ!」
「――……ッ!お、おい……ッ!」
まさかこのままエースを置いていくつもりなのか。
……けれど遅かれ早かれ追手が来るだろう。このまま三人捕まっては元も子もない。
ならば、と大きく息を吸う。
「……っ、エース、“秘密基地”で待っている!」
そうエースに向かって叫べば、エースは振り返る
ことなく「すぐに向かいます」と目の前の剣を弾く。
「行くぞ」と三日月ウサギに向き直れば、「りょーかい」とやつは笑ってそのまま金属音響き渡る薔薇園を抜け、城内へと向かう。
そして、何度も繰り返しその紙面に目を向けた。
明日の正午、ハート城にて行われる何か。
帽子屋がいうにはそれは戴冠式と言っていたが……よくよく見てみると城以外にも国全体で祭りを行うような旨も書かれてる。
何が祭りだ、何がパーティーだ、何が戴冠式だ。
奥歯が砕けそうなほど歯を噛みしめる顎に力が入った。
悔しかった。
けど、このまま泣き寝入りするつもりもない。
エースが目覚めたらすぐに準備に取り掛かる。とはいえやることと言えば戴冠式前に王、そしてアリスを潰すことだ。
本当ならば今すぐにでも国の様子を見たいが、エースに倒れられても困る。
頃合いを見ていつでも出立出来るように身辺を整えていた。
それにしても、と手に先程のお茶会のことを思い返した。
三日月ウサギと呼ばれたあの男、どういうつもりなのだろうか。
一人でも味方は多いに越したことはないが、最初出会ったばかりのとき露骨に敵対視してきたあの男を思い出す。
母に恨みを持っている者は悔しいが、少なくはない。それでも全員が全員逆恨みにも等しい。己の杜撰さを全て国の、女王のせいにするような輩ばかりだ。
そしてそのような者ほど、突如現れたアリスを『救世主』と崇め奉る――それが共通点だった。
しかし、あの三日月ウサギは母を嫌い、アリスを殺すという僕の手伝いを買って出たのだ。
……つくづく、理解できない。
エースが目を覚ますまで自分も一休みするかとベッドに入ろうかとしたが、無理だった。
全身は起きがけの全身の痛みすら忘れるひどく昂ぶっており、目を閉じてもアリスを殺すシーンばかり想像しては眠れそうにない。
……少し、散歩でもするか。
あわよくばあの奇っ怪な紳士にもう一杯薔薇の紅茶をねだりに行くか。
そんなことを考えながらもぞりとベッドから起き上がったときだ。
いきなり部屋の扉が蹴破る勢いで開かれる。
「……ッ! な……――ッ」
「よぉ、邪魔すんぜー!」
入ってきたのは三日月ウサギだ。
外れかける扉に驚く暇もなく、ベッドの上で固まる僕を見つけると三日月ウサギはニィと笑う。
そして、ズカズカと僕に詰め寄ってきた。
「な……っ、なんだ、ノックくらいしろ無礼者が……ッ!」
「あーうっせえな。お前に渡したいものがあってきたんだよ」
「は、渡したいものだと……?」
そ、と三日月ウサギはよれよれの上着のポケットに手を突っ込み、そして何かを取り出した。
「ほら、手ぇ出してみろ」
「……変なものじゃないだろうな」
「それは自分で確認してみりゃいいだろ」
そう言って、差し出した手のひらの上にごとりと何かが載せられる。
三日月ウサギが用意した手のひら大の小瓶に息を飲んだ。
「……これは、なんだ」
「さっきなあ、眠りネズミに用意させたんだ。一滴でも飲めば致死量になる劇薬だ」
「……ッ!」
眠りネズミ――あのぼんやりとした男がこれを?
何故、というのは言わなくてもわかる。けれど、どうしてあいつがこんな代物を作れるのか。
……なるほどな、所詮はあいつもつまはじきもの仲間ということか。
そして、これを託された意図は一つだけだ。
そう理解した瞬間口元が歪んだ。
「俺は毒なんか地味なもんは好きじゃねえんだが、見たところ王子様。アンタ肝は据わってるがほそっこい腕してるしな」
「余計なお世話だ。……といいたいところだが、有り難く頂戴しておこう」
「なんせ国挙げてのパーティーだ。料理に混ぜれば効果覿面だしな」
そう、抜けるような笑い声を漏らす三日月ウサギに思わずひやりとしたものを覚える。
「おい……お前を同行するとは行ったが、国民たちを皆殺しにするわけではないからな。あくまでも狙いはアリス、そしてキングだ」
「ああ? 何甘っちょろいこと言ってんだ? じゃあお前を捕らえようとしてきた軍人はどうするんだよ」
「殺す」
「じゃあアンタのママが死んで喜んでるやつらは?」
「殺す」
「――じゃ、皆殺しだな」
……この男は、と呆れて言葉もでない。
けれど、それがただこの男の悪趣味なジョークで収まらないのが現状だ。
今までは守るべき対象としてきた国民達が敵に回る。
――母が守ってきたこの国が戦場となる。
あってはならない事だと思うが、その域はとっくに通り越してるのだろう。
母が不当な理由で処刑されたあの瞬間、決定的に顔を変えたのだ。
エースが起きたのは一時間経った頃だった。
「お休みのところ失礼します」とやってきたエースに僕はお茶会でのことを話した。
そして、帽子屋から預かった新聞記事も一緒にだ。
記事に目を向けた瞬間顔色を変えたエースだったが、「これからアリスを殺しに国へ戻る」と告げれば間髪入れずにエースは「お供します」と口にした。
「あの憎きアリスも、この馬鹿げた祭りに参加する厚顔無恥の愚民共を一掃してやりましょう」
そう腰に携えた剣の鞘を握り締めるエース。
その目には隠しきれぬほどの怨嗟が滲んでいる。
三日月ウサギと同じようなことを言っているが、僕も今となっては同じ気持ちだ。
筆頭に立つアリスも、それを持ち上げる群衆も全員が敵に見えた。
「……それと、今回三日月ウサギが同行することになった。あいつも協力してくれるという」
「三日月ウサギ……あの無礼な男ですか。――よろしいのですか?」
「少しは使えるだろう。邪魔になるなら捨て置けばいい」
「王子がそう仰るのなら自分はそれに従うまでです」
言いながらも、三日月ウサギへの不信感は隠しきれていないがエースも分かっているのだろう。
いくらなんでも国に対してたった二人で挑むのは無謀だと。
「明日の昼間、ということでしたね……ならば早めに移動して内部に侵入するのが得策でしょう。城に戻るのにも時間が掛かります」
「ああ、そのつもりだ」
「ならばあの男には自分から声を掛けておきましょう。王子はご準備を」
「ああ、頼んだぞ」
そう、エースは部屋を出ていった。
一人取り残された部屋の中、手のひらの小瓶を眺めた。
……準備とは言ったものの、今の僕に残ったものはこれくらいだ。
「……ッつ……」
エースたちの様子を見に行くかと立ち上がったとき、体に鈍い痛みが走った。
――ジャック。
あの男、次にあったら絶対に殺してやる。
そう決意を固め、痛みを堪えそのまま部屋を出た。
客室前の通路にはエースと三日月ウサギがいた。そして、部屋から出てきた僕を見るとエースは「王子、お待ちしておりました」と一礼するのだ。
「三日月ウサギ、お前ももう動けるのか」
「ああ。ちょーど退屈してたんだ。さっさと行こうぜ」
そうニィと笑う三日月ウサギは踵を返そうとし、そして「あ」と何かを思い出したようにこちらを振り返る。
「む。……なんだ、忘れ物か?」
「三日月ウサギって長ったらしいな。お前もミカちゃんって呼んでくれてもいいんだぞ?」
「何を言い出すかと思えば……」
「それは王子が決めることです。貴方のような者が強制することではありません」
そして何故お前が答えるんだ、とエースを横目に睨むがエースは素知らぬ顔をしている。
「きゃんきゃん煩え犬だなぁ?ご主人様取られて妬いてんのか?」
「取られてなどいない、それに俺は犬では……ッ」
「……くだらん問答する暇はない。一分一秒でも惜しい状況だぞ。さっさと行くぞ。……エース、ウサギ」
そう啀み合ってる、というよりも一方的に噛み付くエースを遊んでいる三日月ウサギに声を掛ければ、三日月ウサギは笑う。三日月をひっくり返したような歪な笑顔。どうやらウサギ呼びが気に入ったようだ。
「んじゃ帽子屋のおっさんに声掛けに行くか」
そう三日月ウサギが口を開いたときだった。
「その必要はないよ」
いつの間に通路の奥に立っていた帽子屋、そしてその隣には「見送りに来たよぉ」とアクビ混じり手を振ってくる眠りネズミに思わずいつの間にと息を飲む。
「そろそろだろうと思って様子を見に来たんだ。……うんうん、三人とも仲良くなったようでなんとも喜ばしいことだね」
「ディムも喜んでいるよ」と微笑む帽子屋。
どこが仲良く見えるのかということよりもまた例の虫がいるのかと思わず辺りを見回したが見つけきれなかった。
いや、見つけ切れなくて逆によかったのかもしれない。
ああそうだ、と帽子屋は思い出したように何かを取り出した。
「もしも城下町で何かあれば『此処』を頼るといい。私の知り合いが営んでる店だ。隠れ蓑にはなるだろう」
そう紙切れをエースに手渡す帽子屋。
エースは「ありがとうございます」とそれを受け取る。
ちらりと手元の紙切れに目を向ければ、そこには住所と建物の名前らしき単語が書かれていた。
『Bill the Lizard』……トカゲのビル?
それを更に横から覗き込んできた三日月ウサギは
「おいここって」と露骨に顔を顰める。
「まあ何か言われた私の名前を出すといい。ハッターは君をご指名だと」
対する帽子屋の態度はあくまでも変わらない。
そう微笑む帽子屋に大丈夫なのかと問い正したくもなるが、利用するかどうかは自分目で見て決めればいい話だ。
「礼を言うぞ、帽子屋。……僕たちを匿ってくれてありがとう」
「なに、そういった水臭いのはなしだ。私はここで君の好きはローズヒップティーを用意して吉報を待っているよ」
ああ、と頷き返す。
そして帽子屋の横、終始どこか上の空な男に目を向ける。
「……眠りネズミ。お前のくれた劇薬もありがたく使わせてもらう」
そう三日月ウサギに貰った例の小瓶についての礼を述べれば、眠りネズミは不思議そうに小首を傾げた。
「ん~……?劇薬?なんだろぉ、それ。僕は傷薬をミカちゃんに渡した気がするんだけどなぁ……?」
……どういうことだ?と三日月ウサギを睨もうとしたときだ。
「まあまあこまけーことはいいんだよ!ほら、さっさと行こうぜ!」
露骨に話題を誤魔化そうと僕とエースの背中を押すように、三日月ウサギは僕たちを半ば強制的に地下から連れ出した。
そしてそのまま帽子屋の屋敷から出たとき、ようやく三日月ウサギは僕たちから手を離すのだ。
「お、おい……ウサギ、どういう……」
「眠りネズミ、あいつは自分で万病に利く万能薬作ってるつもりなんだよ。……言ってやるなよ」
「いやそれは寧ろ言うべきじゃないか?」
「しかし人殺しの薬を作るには天才的な腕だからな、あいつはあのままでいいんだよ」
まあそんな劇薬に助けられる立場ではあるが、僕もエースも恐らく同じ気持ちなのだろう。
……というか、薬を作ろうとして劇薬を開発するって最早それは致命的ではないのか?
そしてその効力を何故三日月ウサギが知っているのか気になったが触れない方がいい気がして、僕は敢えて深く聞かないことにした。
それから僕たちは再び森を抜けて城へと向かおうとしたのだが、途中何人か兵と鉢合わせることになる。
目的は僕とエースなのだろう。
暗い森の中、真紅の軍部はよく目立つ。
咄嗟に近くの木陰に身を隠した僕たち。
「殺しますか」とエースは声を潜めて訪ねてくる。
「……待て、恐らく他にもいるはずだ。それにここで殺せば僕たちの所在が知られ、他の兵まで集まることになりかねん。そうすれば帽子屋にも迷惑がかかるだろう」
もしも謀反した王子を匿っていたとなれば今度こそあの男も死刑を免れないだろう。
……それだけは避けたかった。
「他に仲間がいるかも知れない。隠れてこの森を出る。殺しは国に戻ってからだ」
「焦れってーな。……けどま、確かに俺も宿を失うのは困るしな」
一応は三日月ウサギも帽子屋に恩義は感じているらしい。
この男、知性も理性もない野蛮な男と思っていたがわりと常識はあるのか。
一番飛び出さないか気掛かりだっただけに驚いた。
エースも異論はないようだ。
僕たちは隠れたまま兵に見つからないようにその場をやり過ごそうとした。
……そんなときだ。
「おーい、そっちは居そうか?」
奥から現れた男に思わずエースが反応しそうになる。
静まり返った森の中に響く明るい声。
「サイス殿……ッ!いえ、こちらには……」
――サイス。
ジャックの直属の部下であり、そしてエースの同期、好敵手でもあり――友人だった男だ。
規定の軍帽も視界の邪魔だからと身に付けず、型破りなところがジャックに気に入られて下に付いたような男だ。
今このタイミングで会いたくなかった。
なによりも、エースの反応が気になったのだ。
「おかしいなぁ。あの足跡、王子たちのものだと思ったんだけどな。……まあいいや、じゃあ適当に切り上げようぜ」
夜でも目立つその明るい茶髪を掻き上げ、サイスはそう一般兵の肩を叩いた。
いい加減でルーズ、実力はあるが捜索にはあまりにも向いていない人選だ。
誰が総指揮をとっているのかは明白だ。
恐らくキングかアリスの命だろうが、それでもあまりにもサイスが乗り気ではないことに驚いた。
そのまま立ち去るサイスの背中が見えなくなるまで僕たちは息を潜めていた。そしてやがてその足音も聞こえなくなったとき、「エース」と隣にいた男の顔を覗き込む。
「……王子、申し訳ございません」
「何故お前が謝るんだ。……それよりも、よく我慢したな」
「…………」
エースならばまさかサイスに斬り掛かるのではと思ったが、必死に堪えていたらしい。強く握り締めたその拳は手袋の下で赤くなってるのだろう。
「……しかし、探索があの男でよかった。サイスに見付かれば戦闘は免れないはずですからね」
口ぶりと表情が噛み合っていない。
二人が私生活でもよく一緒に鍛錬したりとしていたことは知っていた。だからこそ、こんなにそばにいた自分たちを見過ごすサイスが許せないのかもしれない。
……職業柄か、それともエースの生まれ持っての性格か。
「そうだな。……それにしてもサイスは本気で僕達を探してるようには見えなかったな」
「あいつはそういうやつなんです。……人を切ること以外に興味がない」
「実戦向きの人間を探索に駆り出すとはな、余程人手に困ってるのか?」
「……でしたら好都合なのですが」
「ま、じゃあ俺達もさっさと行こうぜ。他に足音はないようだしな」
そうだな、と俺達は会話を止め、再び足を進め始めた。
やがて蔦に覆われた城壁が視界に入る。また一歩、また一歩と近づくにつれて辺りの薔薇の匂いは濃くなる。門番は見当たらない。
まるで誰かを待っているかのように開かれたままの門に思わず乾いた笑いが漏れた。
「……あれで招いてるつもりか」
「……そうでしょうね。罠か、或いは本当にノコノコと王子が戻ってくると思ってるのか」
「後者だとすれば救えませんがね」と続けるエースの表情に笑みすらない。
裏口は他にもある。そちらへ回りましょうと続けるエースに僕は同意する。
恐らくあの男のことだ、城内にも城下町にも僕がいないことは既にわかってるのだろう。
だからサイスが森の中に駆り出されたのだ。
「ウサギ、準備しておけよ」
「ようやくかよ、思わず寝ちまうところだったぜ」
「言っておくが、騒ぎ立てるなよ。あくまで穏便にだからな」
「それ、そこの軍人にも言っといた方がいいんじゃねえの? 俺よりもうるせーだろ、絶対」
「馬鹿言え、隠密は俺の得意分野だ」
張り合うエース。
それは僕も初耳ではあるが、本人たちが意識しているのならそれでいいか。
恐らくどこもかしこも見張られているはずだ。
そうとなれば、騒ぎになって人が集まる前に全てを片付けるだけだ。
そして正門を避け、裏門へと回る。
薔薇の木で覆われた裏門は夜は特に暗く、通る人間が少ない。木々を抜け、城の敷地内に足を踏み入れる。そして、息を飲む。
ハートの城の周囲は女王の趣味によりたくさんの薔薇で覆われていた。
日々複数の庭師たちが手入れされていたその木々の真っ赤な薔薇たちには白いペンキがぶち撒けられ、どこもかしこも血のように汚れていたのだ。
「……ッ」
腸が煮え繰り返りそうだった。
誰の仕業かなんて考えることすらも馬鹿らしい。
「うっわ、汚えな。……なんだこれ、前はこんなんじゃなかっただろ?」
「……」
「王子……」
「……僕は大丈夫だ、先を急ごう」
息を吐く。平常心を取り戻そうと務めるが、あまりの怒りに手先の震えが止まらなかった。
母は、この美しい薔薇たちを毎朝眺めるのを日課にしていた。そしてそれは僕も同じだ。城の外へ出るのは許されなかったが、この城内の薔薇を見て回ることは許されたのだ。
「……俺は貴方の味方です」
「そんなこと一々言わずとも知っている」
エースは少しだけ間を置いてはい、と答えるのだ。三日月ウサギはうへ~と痒そうにしていたが、こいつの言動行動に今更目くじら立てるつもりはない。
この林を真っ直ぐに進めば庭に繋がる、そこから城の厨房へと行けるはずだ。
そういえば母のお気に入りだったコックたちはどうしているのだろうか、そんなことを考えていたときだ。
ぱきりと、背後から枝を踏むような音が聞こえた。
それに気付くよりも先に隣にいたエースが動く方が早かった。
キン、と耳を劈くような金属音が響く。振り返り、息を飲む。
僕を庇うように剣を抜いたエースが突然の襲撃を防いだのだ。そして、そこにいた人物に思わず名前を口にする。
「……っ、サイス……」
「お久し振りですねえ、王子……それと、エース」
「あと、そこのそいつは誰だ?」そう笑うサイス、そしてその周囲にはサイスの部下がこちらに銃を向けている。数は多くない。実力でいうなら、サイス以外は有象無象に等しいだろう。現に手の震えで焦点がぶれている。
「おっと動かないでくださいよ。一応俺達、王子を生け捕りにしろって命が降りてるんで。……万が一発砲して当たりどころが悪かったら首飛んじゃうかもしんないんで」
「ならば……その剣を収めるのが先じゃないか? サイス」
「馬鹿言え、お前は別だ」
瞬間エースが受け止めていた剣を持つ手とは別に腰から抜いた短剣をエースの喉仏狙って突こうとするサイス。それを見切ったエースは上体を反らし、その剣を流したあとにガラ空きになった脇腹に思いっきり蹴りを入れた。
「動きが大振りすぎて隙きが多いぞ!」
「ッ、く、はは……相変わらず無茶な……」
エースはうちの近衛兵の中でも優秀な成績を収めている。それは訓練だけではなく、実践でもだ。
そのエースの攻撃を食らっても倒れない人間の方が少ない。動きが鈍ったがそれも一瞬、サイスは笑いながらも次の剣技を繰り出すのだ。そしてエースはそれを受け流す。
サイスも力だけではなく技術と冷静な心を磨けばまだ高みへと望めただろうが、この男は夢中になると周りが見えなくなる。それが欠点なのだろう。今、この男の目には目の前のエースしか見えていないだろう。
そんなとき、三日月ウサギの背後で影が動いた。
「ウサギ」と三日月ウサギを呼べば、僕の言わんことを理解したらしい。はいよ、とやつが笑ったときやつの背後の影が大きく傾いた。そして、ビクビクと痙攣しながら地面に落ちているその男を見て驚く僕にやつは笑うのだ。
「言ったろ? 俺の方が隠密向きだって」
いつの間にかに手の中に握られていたナイフの先端は赤く濡れていた。それからすぐ他の奴らは三日月ウサギが危険だと判断したようだ、一斉に向けられ、発砲されるのを見越して姿を消したと思えばいきなり体が軽くなる。
三日月ウサギに抱き抱えられたのだとすぐに理解した。瞬間、向けられていた銃口に躊躇いが現れる。
「おい、いいのか? お前らの大好きな王子に誤射ったら大変なんだろ?」
「自殺願望あるやつは撃てよ、もしお前らが撃つなら俺もこいつを殺すけどな」このウサギ、無茶苦茶である。
けれど悪くない手だ。確実に出来る隙をウサギは逃さなかった。自ら人を振り回しながら敵陣に突っ込んだウサギはそのまま躊躇なく一人、また一人へとそのナイフの刃先を剥き出しになった首に突き立て、引っかくのだ。
確実に息の根を止める。それは素人にできるものではない。或いは訓練を積まれた軍人でも、殺すとなれば躊躇するものだ。それでもこの男にはそれがないのだ。
生温い血を被る度に噎せ返りそうなほどの匂いは濃くなり、あっという間に人の気配はエースとサイスだけになる。
「おーおー、やってんね」
「……おい、ウサギ……」
「この分なら心配はいらなさそうだな」
そう、一戦交えるエースたちを遠巻きに見ていた三日月ウサギはそう言って僕を抱き抱え直すのだ。
まさか、とやつを見上げたとき。
「おい軍人!そっちは頼んだぞ!」
「――……ッ!お、おい……ッ!」
まさかこのままエースを置いていくつもりなのか。
……けれど遅かれ早かれ追手が来るだろう。このまま三人捕まっては元も子もない。
ならば、と大きく息を吸う。
「……っ、エース、“秘密基地”で待っている!」
そうエースに向かって叫べば、エースは振り返る
ことなく「すぐに向かいます」と目の前の剣を弾く。
「行くぞ」と三日月ウサギに向き直れば、「りょーかい」とやつは笑ってそのまま金属音響き渡る薔薇園を抜け、城内へと向かう。
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