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全てを失った日
二人だけのお茶会
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恐らく既に不法侵入者については知らされているはずだ。厨房に繋がる扉はやはり鍵がかかっていない。ただの不用心ではない。今度こそ招かれているのだと確信した。
厨房の台の上に並ぶのは明日のパーティーのための料理の具材、そしてその中央には天井に付きそうなほど巨大なケーキが置かれていた。
『To my dear Alice.』と書かれたケーキを見た瞬間、気付けば僕はそのケーキの乗った台を蹴り飛ばしていた。
「お……っ!なーにやってんだ、あーあ、勿体ねえ~~!」
「……」
床の上、無様に潰れたケーキを見て「あちゃー」という顔をしていた三日月ウサギは無事な一欠片を素手で掴み、つまみ食いする。「うめえ」なんていうやつの声など聞こえなかった。
食堂へと繋がる扉の方から複数の足音が駆け寄ってくる。今の音に気付いたのだろう。僕は食料庫に繋がる扉をわざと開き、そして咄嗟に潰れたケーキを夢中になって食べていた三日月ウサギの首根っこを掴んだ。
「ウサギ、こっちだ」
「んえ?」
「いつまで食べてる……ここに隠れるぞ」
そう、近くの大きな冷蔵庫を開いた。中は大人六人ほどは悠々と入れるほどの広さだ。幸い中は空いている。僕はそこへ三日月ウサギを無理矢理詰め込み、続いて僕自身も身を隠して扉を締めた。
明日の材料なのか、足元には冷凍肉や魚が転がっている。ぼんやりとした明かりの中、肌寒い空調だがヒートダウンするには丁度いい。
それから間もなくして食堂の方から追手がやってきたようだ、扉か開く音ともに厨房の方が騒がしくなる。
それからさっきわざと開けていた食料庫の扉に気付いたようだ、バタバタと複数の足音が冷蔵庫の前を抜けていく。……食料庫は広くはない、すぐに戻ってきて城内へと探しに行くはずだ。それを待つ。
「……んで、秘密基地ってどこ?」
「お前な……黙るってこともできないのか」
「だって気になんだよ」
「……どうせすぐにわかる、暫く黙ってろ」
そう応えれば、三日月ウサギはむうっとしたあと「ケチ」と凍った肉袋を椅子代わりにその場に座り込んだ。罰当たりなやつめ、と思ったがここまできて罰もクソもない。
……本当だったらこの冷蔵庫はフルーツなどで溢れかえっていた。母は肉料理や魚料理を好まない。旬のフルーツがふんだんに使われたいちごジャムの甘いタルトや紅茶を好むような人だ。
この肉や魚を誰が好むのか、考えたくもなかった。
暫くすると再び厨房が騒がしくなり、そして食堂の方へと再び足音が向かうのが分かった。
頭の悪い連中のことだ、僕達が既に城内へ逃げたと勘違いしてることだろう。更に暫くして完全に静寂が戻ったのを確認し、僕は冷蔵庫の扉をそっと開いた。……よし、誰もいない。
「ウサギ、出ろ。今の内に移動するぞ」
「お、やっと秘密基地か?」
「どうだかな」
今この隙に先に行くべきなのだろうが、ただでさえ多勢に無勢だ。エースと合流することを優先すべきだろう。僕は三日月ウサギを連れ、約束した秘密基地へと向かうことにした。
――遠い、昔の記憶だ。
まだ幼かった僕は城壁の外、城下町で遊ぶ子供たちを羨ましく思ったことがあった。
走り回り、泥で汚れ、剣に模した木の棒で遊び回ってる子供たちを見る度母――女王は「野蛮な」と眉を潜めていた。そして決まって次には「お前はああはなってはいけないよ」と僕の頭を撫でるのだ。
だから、僕は女王の前では彼女の望む姿でいた。
毎日のように入れ違いでやってくる家庭教師たちに勉学を学んだ。剣術も習ったが、どうやっても僕は年の近いエースにすら勝てることができなかった。だからその分、勉強した。
彼女に、母に失望されないために。
一度、城壁を攀じ登って侵入してきた町の子供がいた。本来ならば不法侵入者は兵たちに捕らえられ地下の牢に送り込まれる。けれどその場には僕しかいなくて、その子供は『泥棒じゃない、その綺麗な薔薇を近くで見たかったんだ』と言った。
僕はそれを信じた。そして、兵を呼ばない約束にその子供から色んな話を聞いた。
庶民の暮らし、その子供が好きな遊び、それから家族の話……。今ではそのどれもが靄がかったように思い出せないが、一つだけ鮮明に覚えてることがある。
子供たちの間では秘密基地といって大人には知られない自分たちだけの秘密の場所をつくるという。そこには大切なものや自分の好きな玩具やぬいぐるみを持ち寄り、大半を過ごすのだ。
その話を聞いた当時、僕はカルチャーショックを受けた。周りには常に大人がいた。母と父、側近、世話係のメイドや執事。そんな大人たちも知らない、子供だけの秘密の場所――。
『僕でも、こんな大人たちがたくさんいるところでも秘密基地……作れるのか?』
その一言。たった一言を尋ねるのに僕は決死の思いで声を絞り出したのを覚えてる。母に対する裏切りだと思っていた。それでも、子供ながらに覚えた憧れを捨てることができなかった。
その子供は笑って、そして大きく頷いた。
『こんな広いお城だもん、きっとあるよ。大人たちも知らない、君だけの場所が』
『僕だけの場所……』
『君だけが知ってる秘密の扉とかないの?』
『扉……』
『なんだっていいよ、狭くったっていい』
頭の中で城内地図を浮かべ、玄関口から一つ一つ頭の中で辿っていく。――そして、見つけた。
あった、と言うとその子供は目を爛々と輝かせた。それから僕たちは思い当たった場所へと向かう。ちょっとした冒険だった。中庭の薔薇庭園の奥、小さな抜け道がある。それは恐らく当時飼っていた犬が作った道だろうがそれを通り抜ければそこには歪にできた薔薇のドームがあったのだ。
自然にできたものではないだろうが、それでも人目から憚れたその空間は僕にとって初めての場所だったのだ。
『王子、王子、どこですか?』
そんなとき、僕を探していたらしいエースの声が聞こえてきて、僕は急いでその子供を裏から抜け出させたのだ。そのあと、エースにだけは秘密基地のことを話したのだ。……エースは僕と同じ子供だったから、エースは母たちには黙っててくれた。
当時はまた会えないかとあの秘密基地で待っていたことがあった。けれど、二度と会うことはなかった。
何故今になってそんなことを思い出すのか、理由は一つだけだ。
「なるほど、この先が秘密基地か。……にしても、すげー薔薇の育ち方だな」
「うちの庭師は優秀だったからな」
「庭師の腕の問題じゃねえだろこれ……」
あの頃とは成長した今、幼い頃は通り抜けられた道も無理矢理掻き分けていくしかない。
露出した手の甲や首に茨が引っ掛かる度に痛みが走るが、どうってことなかった。
……それよりも、まだ残ってるとはな。自分から言い出したもののまだ残っているのか、そもそもあの道が分かるかなんて半信半疑だった。
秘密基地に入り浸っていたのもまだ子供のときだった。暫くそれどころではなくなって……今の今まで思い出さなかったくらいだ。それでも、記憶のまままるで僕を待っていたかのように道は開いていた。
薔薇を掻き分け進む度、噎せ返るような甘い匂いと血の匂いが濃厚になっていく。
そして、ようやく薔薇の壁が途絶えた。目の前に広がるのはあの頃と変わらないドーム状に広がる蔦の壁。
そして、その中央。
「随分と遅かったね、待ち侘びたよ」
蔦の隙間から射し込む月明かりに照らされて輝くのは白金の髪。何故、と全身が硬直する。息が詰まる。何故、こいつがここにいるんだ。
「ぁ……ッ、あ……」
「久し振り、ロゼッタ。……ずっと、ずっと君にまた会えることを待っていたよ」
忌々しいあの男――アリスはそう吐き気を催すほどの優しい目で僕に微笑みかけるのだ。
「アリス――って、なるほど、テメエがか」
「誰? 君……もしかしてロゼッタのお友達?」
「ああそうだよ、お前に会いに遥々やってきたんだ」
「ふーん……まあどうでもいいけど。それよりも君、その服汚いね。そんなんでロゼッタに寄らないでもらえる?」
「き……ッ」
汚い、と三日月ウサギがブチ切れるよりも先にアリスは僕の前にやってきた。ずっと、遠目にしか見たことなかった。白く眩い髪、そしてその髪と同じように色素の薄い睫毛に縁取られた瞳はキラキラと輝いては僕を映すのだ。
両手で右手を握られたとき、あまりにも急なことにほんの一瞬反応に遅れてしまった。
「ねえ、ロゼッタ、それよりも君のためにローズパイを焼かせたんだ。僕の部屋……ああ、そう、君のお母さんの部屋が丁度空いたから僕の部屋にもらったんだけどそこに用意してるからよかったらお茶会においでよ」
この男が何を言っているのか理解できない。したくもない。僕はその手を振り払い、「ウサギ」と叫んだのとアリスの背後にウサギが現れるのはほぼ同時だった。隙だらけのアリスのその首にナイフの刃を走らせた瞬間、辺りが白く染まる。そして遅れて何かが爆発するような破裂音が響いた。爆弾ではない。発砲だ。
「チッ……!」
「……ッ! ウサギ!」
「おっと、危ないな……いつの間にそんなところにいたんだろう。君ってもしかして大道芸人?」
間一髪直撃は避けたようだが、破損したナイフを捨て新しいものと持ち替えた三日月ウサギは「そうかもな」と笑ってみせた。そして間髪入れずにアリスに斬りかかろうとしたときだった、黒い影がいきなり背後で動いた。
そして、ガキンと再び金属同士がぶつかり火花が散る。鋭く光る剣。そして。
「っと、流石に……そんなナイフと剣とでやり合うのは不利では?」
「遅いよサイス、あと少しで僕の首が飛ぶところだったんだから」
「……すみませんね、ちょっと色々あって」
――何故、サイスがここに。
エースとやり合っていたはずではないか。まさか、と嫌な想像が頭を過る。まさか、いや、そんなはずがない。……けど、じゃあなんでエースがここにいないのだ。
岩のように身体が、爪先から熱が抜け落ちていく。応戦、いや、僕が入ったら邪魔になる。ならば、と後ずさった時。ドン、と背中で何かにぶつかった。
具合悪くなるほどの甘ったるい匂い。そして。
「ハッ!……なあにが色々だあ?お前がヘマするからだろうが、お前がさっさとトドメ刺しときゃよかったんだ」
――鮮血のように赤い軍服。そして乱れた金髪を掻き上げ、男は僕を見下ろして笑うのだ。
「また会えたな、お嬢ちゃん」
「ジャック……ッ!!」
最悪だ。背後をジャック、目の前をアリスに挟まれ逃げ場がない。
それでも、逃げなければ。そう思うのに、この男のせいで嫌な記憶が蘇り判断が鈍りそうになる。逃げなければ。いや駄目だ、分かっている。アリスだけならまだしもジャックが相手で敵う筈がない。おまけに、状況は最悪だ。
衣類のポケットの奥には眠りネズミからもらった劇薬がある。……これを今使うことは難しい。
ならば、と三日月ウサギを見た。
「ウサギ! 僕のことはいい!」
名前を呼べば、サイスの攻撃を避け、そのまま距離を取った三日月ウサギはこちらを見て口元を緩めた。
「行け」と花園の奥を指差す。エースのことを頼んだぞ、と目で訴えれば三日月ウサギは「大胆ね、お前」と笑った。そしてその一瞬、そのまま正反対の薔薇の蔦の引き裂き、そのまま薔薇の奥へと姿を消した。
「お前、待て……ッ!!」
そしてすぐにその後を追い掛けるサイス。
そんな二人に動じるわけではなく、アリスは相変わらず薄気味悪い笑みを携えたままこちらを振り返るのだ。
「良かったの? お友達を逃して」
「……お前が用があるのは僕だろ」
この男は手配書に書いた通り僕は殺すつもりはないらしい。……そしてそれは本当なのだと確信していた。暴れてジャックに捕らえられ再び牢にぶち込まれるくらいならばまだこの男の側にいた方が安全だと分かる。
――吐き気はするが、今はただエースのことが気がかりだった。
そんな僕にアリスは「ロゼッタ」と目を輝かせるのだ。深く、離さないと更に絡められる指に背筋が震える。それも束の間、いきなり身体を抱きしめられるのだ。
「……ッ、お、い……ッ」
「ロゼッタ……嬉しいよ、君が僕の側にいることを選んでくれて……それが、君の選択なんだね」
「……ッ」
何を言ってるのかわからないが、不愉快だ。離せ、と慌てて胸を押し返そうとして、やめた。今はこいつを油断させる方が先だ。隙きを見せて、こいつの隙きを引き出す。
そして――殺す。
「……ジャック、サイスの様子を見ててくれないか」
そう、人の手を握りしめたままジャックに命じるアリス。ジャックがどんな表情をしてるのか確認はできなかった。けど、「了解」と応えるその声は笑っていた。
助かった、とは到底言えない状況だ。
それでもまだ諦めていない。
「それじゃあ僕の部屋へ行こうか。……って言っても 城内のことなら、僕よりも君の方が詳しいだろう?なんたって実家なんだからね」
ジャックがいなければこいつなんて僕と変わらない。現役の兵隊でもなければ、元はただの人間だ。
「……それに、君のパパも心配していたよ。顔を見せてあげないと」
父のことを口に出され、抑え込んでいた自分の中の殺意が再び膨れ上がるのを感じた。
この男に対してもだが、それ以上に父……あの男に対してだ。父と呼ぶことすらも吐き気がする。
……今はまだ駄目だ。そう掌を握り締め、堪える。
僕の無事は不本意ではあるがこの男に保証されている。ならば、エースと三日月ウサギの状況を確認してから動くべきだ。
冷静になれ。そう繰り返し、僕はアリスに手を引かれるがまま秘密基地を後にした。
逃げようと思えばいつでも逃げられた。
それほど、この男は僕に対して無防備だった。
ジャックもいない、他の兵も追い払い一人僕の手を取り軽い足取りで歩いていくのだ。
やつの口から出てくるのはどうでもいい戯言ばかりだ。正直会話する気にもなれない。
やつが同じ人間の言葉を話しているように聞こえなかった。
何も言わない僕にさして気分を害するわけでもなく一人べらべらと話している。
大広間、見張りの兵隊たちは僕とアリスを見るなりぎょっとするが「ロゼッタが帰ってきたんだ、早くパーティーの準備に取り掛かってくれ」と命じては人払いをさせる。
軽やかな足取りで無人になった広間を通り抜け、中央大階段を登るアリス。
その足取りはどんどん早くなる。まるで待ち切れないと言わんばかりの強さで手を引かれ、足が縺れそうになったとき。躓く僕に気付いたアリスは「ああ、ごめん」と申し訳なさげに足を止めた。
そして、視界がふわりと傾く。
「ぉっ、おい……っ!」
「こうした方が早いだろ?」
「っ、降ろせ!今すぐその手を……っ!」
あまりにも不敬極まりない。人をまるで子供かなにかのように抱き上げてくるアリスに、向き合うように抱き抱えられるこの体勢に血の気が引いた。
けれど、膝の下に回された腕にそのまま下半身ごと抱えられてしまえば動けない。自然と近付く顔に息を飲む。アリスは幸せに蕩けたような顔で「嫌だね」と笑った。
「……っ、無礼者が……!」
「ああ、ごめん。……これもマナー違反?……難しいなあ、王子様っていうのは。……これでも俺……いや、僕も君に怒られないようにマナーは学んできたつもりだったけどやっぱりロゼッタみたいにはできないな」
そう、困ったように笑うアリスだがその目でわかる。心の底から困ってるわけではない。怒る僕を見て愉しんでいるのだ、この男は。
声から、目からそれが滲んでいた。
「けど、それって今夜までの話だよ」
見覚えのある扉の前までやってきたアリスはそう言って大きく開いた。赤く薔薇を模した美しい彫刻が施された扉は間違いない、母の部屋だ。
その扉を開いた瞬間全身に甘ったるい匂いが包み込む。
「さあロゼッタ、見てご覧。君の家のパティシエに作らせた。君はローズパイ、そしてローズヒップティーが好きだって彼に聞いたんだ」
部屋の中央、アンティーク調のテーブルの上には二人で食べるにはあまりにも多すぎるローズパイが置かれていた。
僕の肩を掴み、半ば強引に椅子に座らせたアリスはそう僕の両肩を撫でる。
「少し遅いがお茶会を始めよう。
――邪魔な奴らはもういない、二人だけのお茶会だ」
遠くで時計の鐘の音が響いた。
厨房の台の上に並ぶのは明日のパーティーのための料理の具材、そしてその中央には天井に付きそうなほど巨大なケーキが置かれていた。
『To my dear Alice.』と書かれたケーキを見た瞬間、気付けば僕はそのケーキの乗った台を蹴り飛ばしていた。
「お……っ!なーにやってんだ、あーあ、勿体ねえ~~!」
「……」
床の上、無様に潰れたケーキを見て「あちゃー」という顔をしていた三日月ウサギは無事な一欠片を素手で掴み、つまみ食いする。「うめえ」なんていうやつの声など聞こえなかった。
食堂へと繋がる扉の方から複数の足音が駆け寄ってくる。今の音に気付いたのだろう。僕は食料庫に繋がる扉をわざと開き、そして咄嗟に潰れたケーキを夢中になって食べていた三日月ウサギの首根っこを掴んだ。
「ウサギ、こっちだ」
「んえ?」
「いつまで食べてる……ここに隠れるぞ」
そう、近くの大きな冷蔵庫を開いた。中は大人六人ほどは悠々と入れるほどの広さだ。幸い中は空いている。僕はそこへ三日月ウサギを無理矢理詰め込み、続いて僕自身も身を隠して扉を締めた。
明日の材料なのか、足元には冷凍肉や魚が転がっている。ぼんやりとした明かりの中、肌寒い空調だがヒートダウンするには丁度いい。
それから間もなくして食堂の方から追手がやってきたようだ、扉か開く音ともに厨房の方が騒がしくなる。
それからさっきわざと開けていた食料庫の扉に気付いたようだ、バタバタと複数の足音が冷蔵庫の前を抜けていく。……食料庫は広くはない、すぐに戻ってきて城内へと探しに行くはずだ。それを待つ。
「……んで、秘密基地ってどこ?」
「お前な……黙るってこともできないのか」
「だって気になんだよ」
「……どうせすぐにわかる、暫く黙ってろ」
そう応えれば、三日月ウサギはむうっとしたあと「ケチ」と凍った肉袋を椅子代わりにその場に座り込んだ。罰当たりなやつめ、と思ったがここまできて罰もクソもない。
……本当だったらこの冷蔵庫はフルーツなどで溢れかえっていた。母は肉料理や魚料理を好まない。旬のフルーツがふんだんに使われたいちごジャムの甘いタルトや紅茶を好むような人だ。
この肉や魚を誰が好むのか、考えたくもなかった。
暫くすると再び厨房が騒がしくなり、そして食堂の方へと再び足音が向かうのが分かった。
頭の悪い連中のことだ、僕達が既に城内へ逃げたと勘違いしてることだろう。更に暫くして完全に静寂が戻ったのを確認し、僕は冷蔵庫の扉をそっと開いた。……よし、誰もいない。
「ウサギ、出ろ。今の内に移動するぞ」
「お、やっと秘密基地か?」
「どうだかな」
今この隙に先に行くべきなのだろうが、ただでさえ多勢に無勢だ。エースと合流することを優先すべきだろう。僕は三日月ウサギを連れ、約束した秘密基地へと向かうことにした。
――遠い、昔の記憶だ。
まだ幼かった僕は城壁の外、城下町で遊ぶ子供たちを羨ましく思ったことがあった。
走り回り、泥で汚れ、剣に模した木の棒で遊び回ってる子供たちを見る度母――女王は「野蛮な」と眉を潜めていた。そして決まって次には「お前はああはなってはいけないよ」と僕の頭を撫でるのだ。
だから、僕は女王の前では彼女の望む姿でいた。
毎日のように入れ違いでやってくる家庭教師たちに勉学を学んだ。剣術も習ったが、どうやっても僕は年の近いエースにすら勝てることができなかった。だからその分、勉強した。
彼女に、母に失望されないために。
一度、城壁を攀じ登って侵入してきた町の子供がいた。本来ならば不法侵入者は兵たちに捕らえられ地下の牢に送り込まれる。けれどその場には僕しかいなくて、その子供は『泥棒じゃない、その綺麗な薔薇を近くで見たかったんだ』と言った。
僕はそれを信じた。そして、兵を呼ばない約束にその子供から色んな話を聞いた。
庶民の暮らし、その子供が好きな遊び、それから家族の話……。今ではそのどれもが靄がかったように思い出せないが、一つだけ鮮明に覚えてることがある。
子供たちの間では秘密基地といって大人には知られない自分たちだけの秘密の場所をつくるという。そこには大切なものや自分の好きな玩具やぬいぐるみを持ち寄り、大半を過ごすのだ。
その話を聞いた当時、僕はカルチャーショックを受けた。周りには常に大人がいた。母と父、側近、世話係のメイドや執事。そんな大人たちも知らない、子供だけの秘密の場所――。
『僕でも、こんな大人たちがたくさんいるところでも秘密基地……作れるのか?』
その一言。たった一言を尋ねるのに僕は決死の思いで声を絞り出したのを覚えてる。母に対する裏切りだと思っていた。それでも、子供ながらに覚えた憧れを捨てることができなかった。
その子供は笑って、そして大きく頷いた。
『こんな広いお城だもん、きっとあるよ。大人たちも知らない、君だけの場所が』
『僕だけの場所……』
『君だけが知ってる秘密の扉とかないの?』
『扉……』
『なんだっていいよ、狭くったっていい』
頭の中で城内地図を浮かべ、玄関口から一つ一つ頭の中で辿っていく。――そして、見つけた。
あった、と言うとその子供は目を爛々と輝かせた。それから僕たちは思い当たった場所へと向かう。ちょっとした冒険だった。中庭の薔薇庭園の奥、小さな抜け道がある。それは恐らく当時飼っていた犬が作った道だろうがそれを通り抜ければそこには歪にできた薔薇のドームがあったのだ。
自然にできたものではないだろうが、それでも人目から憚れたその空間は僕にとって初めての場所だったのだ。
『王子、王子、どこですか?』
そんなとき、僕を探していたらしいエースの声が聞こえてきて、僕は急いでその子供を裏から抜け出させたのだ。そのあと、エースにだけは秘密基地のことを話したのだ。……エースは僕と同じ子供だったから、エースは母たちには黙っててくれた。
当時はまた会えないかとあの秘密基地で待っていたことがあった。けれど、二度と会うことはなかった。
何故今になってそんなことを思い出すのか、理由は一つだけだ。
「なるほど、この先が秘密基地か。……にしても、すげー薔薇の育ち方だな」
「うちの庭師は優秀だったからな」
「庭師の腕の問題じゃねえだろこれ……」
あの頃とは成長した今、幼い頃は通り抜けられた道も無理矢理掻き分けていくしかない。
露出した手の甲や首に茨が引っ掛かる度に痛みが走るが、どうってことなかった。
……それよりも、まだ残ってるとはな。自分から言い出したもののまだ残っているのか、そもそもあの道が分かるかなんて半信半疑だった。
秘密基地に入り浸っていたのもまだ子供のときだった。暫くそれどころではなくなって……今の今まで思い出さなかったくらいだ。それでも、記憶のまままるで僕を待っていたかのように道は開いていた。
薔薇を掻き分け進む度、噎せ返るような甘い匂いと血の匂いが濃厚になっていく。
そして、ようやく薔薇の壁が途絶えた。目の前に広がるのはあの頃と変わらないドーム状に広がる蔦の壁。
そして、その中央。
「随分と遅かったね、待ち侘びたよ」
蔦の隙間から射し込む月明かりに照らされて輝くのは白金の髪。何故、と全身が硬直する。息が詰まる。何故、こいつがここにいるんだ。
「ぁ……ッ、あ……」
「久し振り、ロゼッタ。……ずっと、ずっと君にまた会えることを待っていたよ」
忌々しいあの男――アリスはそう吐き気を催すほどの優しい目で僕に微笑みかけるのだ。
「アリス――って、なるほど、テメエがか」
「誰? 君……もしかしてロゼッタのお友達?」
「ああそうだよ、お前に会いに遥々やってきたんだ」
「ふーん……まあどうでもいいけど。それよりも君、その服汚いね。そんなんでロゼッタに寄らないでもらえる?」
「き……ッ」
汚い、と三日月ウサギがブチ切れるよりも先にアリスは僕の前にやってきた。ずっと、遠目にしか見たことなかった。白く眩い髪、そしてその髪と同じように色素の薄い睫毛に縁取られた瞳はキラキラと輝いては僕を映すのだ。
両手で右手を握られたとき、あまりにも急なことにほんの一瞬反応に遅れてしまった。
「ねえ、ロゼッタ、それよりも君のためにローズパイを焼かせたんだ。僕の部屋……ああ、そう、君のお母さんの部屋が丁度空いたから僕の部屋にもらったんだけどそこに用意してるからよかったらお茶会においでよ」
この男が何を言っているのか理解できない。したくもない。僕はその手を振り払い、「ウサギ」と叫んだのとアリスの背後にウサギが現れるのはほぼ同時だった。隙だらけのアリスのその首にナイフの刃を走らせた瞬間、辺りが白く染まる。そして遅れて何かが爆発するような破裂音が響いた。爆弾ではない。発砲だ。
「チッ……!」
「……ッ! ウサギ!」
「おっと、危ないな……いつの間にそんなところにいたんだろう。君ってもしかして大道芸人?」
間一髪直撃は避けたようだが、破損したナイフを捨て新しいものと持ち替えた三日月ウサギは「そうかもな」と笑ってみせた。そして間髪入れずにアリスに斬りかかろうとしたときだった、黒い影がいきなり背後で動いた。
そして、ガキンと再び金属同士がぶつかり火花が散る。鋭く光る剣。そして。
「っと、流石に……そんなナイフと剣とでやり合うのは不利では?」
「遅いよサイス、あと少しで僕の首が飛ぶところだったんだから」
「……すみませんね、ちょっと色々あって」
――何故、サイスがここに。
エースとやり合っていたはずではないか。まさか、と嫌な想像が頭を過る。まさか、いや、そんなはずがない。……けど、じゃあなんでエースがここにいないのだ。
岩のように身体が、爪先から熱が抜け落ちていく。応戦、いや、僕が入ったら邪魔になる。ならば、と後ずさった時。ドン、と背中で何かにぶつかった。
具合悪くなるほどの甘ったるい匂い。そして。
「ハッ!……なあにが色々だあ?お前がヘマするからだろうが、お前がさっさとトドメ刺しときゃよかったんだ」
――鮮血のように赤い軍服。そして乱れた金髪を掻き上げ、男は僕を見下ろして笑うのだ。
「また会えたな、お嬢ちゃん」
「ジャック……ッ!!」
最悪だ。背後をジャック、目の前をアリスに挟まれ逃げ場がない。
それでも、逃げなければ。そう思うのに、この男のせいで嫌な記憶が蘇り判断が鈍りそうになる。逃げなければ。いや駄目だ、分かっている。アリスだけならまだしもジャックが相手で敵う筈がない。おまけに、状況は最悪だ。
衣類のポケットの奥には眠りネズミからもらった劇薬がある。……これを今使うことは難しい。
ならば、と三日月ウサギを見た。
「ウサギ! 僕のことはいい!」
名前を呼べば、サイスの攻撃を避け、そのまま距離を取った三日月ウサギはこちらを見て口元を緩めた。
「行け」と花園の奥を指差す。エースのことを頼んだぞ、と目で訴えれば三日月ウサギは「大胆ね、お前」と笑った。そしてその一瞬、そのまま正反対の薔薇の蔦の引き裂き、そのまま薔薇の奥へと姿を消した。
「お前、待て……ッ!!」
そしてすぐにその後を追い掛けるサイス。
そんな二人に動じるわけではなく、アリスは相変わらず薄気味悪い笑みを携えたままこちらを振り返るのだ。
「良かったの? お友達を逃して」
「……お前が用があるのは僕だろ」
この男は手配書に書いた通り僕は殺すつもりはないらしい。……そしてそれは本当なのだと確信していた。暴れてジャックに捕らえられ再び牢にぶち込まれるくらいならばまだこの男の側にいた方が安全だと分かる。
――吐き気はするが、今はただエースのことが気がかりだった。
そんな僕にアリスは「ロゼッタ」と目を輝かせるのだ。深く、離さないと更に絡められる指に背筋が震える。それも束の間、いきなり身体を抱きしめられるのだ。
「……ッ、お、い……ッ」
「ロゼッタ……嬉しいよ、君が僕の側にいることを選んでくれて……それが、君の選択なんだね」
「……ッ」
何を言ってるのかわからないが、不愉快だ。離せ、と慌てて胸を押し返そうとして、やめた。今はこいつを油断させる方が先だ。隙きを見せて、こいつの隙きを引き出す。
そして――殺す。
「……ジャック、サイスの様子を見ててくれないか」
そう、人の手を握りしめたままジャックに命じるアリス。ジャックがどんな表情をしてるのか確認はできなかった。けど、「了解」と応えるその声は笑っていた。
助かった、とは到底言えない状況だ。
それでもまだ諦めていない。
「それじゃあ僕の部屋へ行こうか。……って言っても 城内のことなら、僕よりも君の方が詳しいだろう?なんたって実家なんだからね」
ジャックがいなければこいつなんて僕と変わらない。現役の兵隊でもなければ、元はただの人間だ。
「……それに、君のパパも心配していたよ。顔を見せてあげないと」
父のことを口に出され、抑え込んでいた自分の中の殺意が再び膨れ上がるのを感じた。
この男に対してもだが、それ以上に父……あの男に対してだ。父と呼ぶことすらも吐き気がする。
……今はまだ駄目だ。そう掌を握り締め、堪える。
僕の無事は不本意ではあるがこの男に保証されている。ならば、エースと三日月ウサギの状況を確認してから動くべきだ。
冷静になれ。そう繰り返し、僕はアリスに手を引かれるがまま秘密基地を後にした。
逃げようと思えばいつでも逃げられた。
それほど、この男は僕に対して無防備だった。
ジャックもいない、他の兵も追い払い一人僕の手を取り軽い足取りで歩いていくのだ。
やつの口から出てくるのはどうでもいい戯言ばかりだ。正直会話する気にもなれない。
やつが同じ人間の言葉を話しているように聞こえなかった。
何も言わない僕にさして気分を害するわけでもなく一人べらべらと話している。
大広間、見張りの兵隊たちは僕とアリスを見るなりぎょっとするが「ロゼッタが帰ってきたんだ、早くパーティーの準備に取り掛かってくれ」と命じては人払いをさせる。
軽やかな足取りで無人になった広間を通り抜け、中央大階段を登るアリス。
その足取りはどんどん早くなる。まるで待ち切れないと言わんばかりの強さで手を引かれ、足が縺れそうになったとき。躓く僕に気付いたアリスは「ああ、ごめん」と申し訳なさげに足を止めた。
そして、視界がふわりと傾く。
「ぉっ、おい……っ!」
「こうした方が早いだろ?」
「っ、降ろせ!今すぐその手を……っ!」
あまりにも不敬極まりない。人をまるで子供かなにかのように抱き上げてくるアリスに、向き合うように抱き抱えられるこの体勢に血の気が引いた。
けれど、膝の下に回された腕にそのまま下半身ごと抱えられてしまえば動けない。自然と近付く顔に息を飲む。アリスは幸せに蕩けたような顔で「嫌だね」と笑った。
「……っ、無礼者が……!」
「ああ、ごめん。……これもマナー違反?……難しいなあ、王子様っていうのは。……これでも俺……いや、僕も君に怒られないようにマナーは学んできたつもりだったけどやっぱりロゼッタみたいにはできないな」
そう、困ったように笑うアリスだがその目でわかる。心の底から困ってるわけではない。怒る僕を見て愉しんでいるのだ、この男は。
声から、目からそれが滲んでいた。
「けど、それって今夜までの話だよ」
見覚えのある扉の前までやってきたアリスはそう言って大きく開いた。赤く薔薇を模した美しい彫刻が施された扉は間違いない、母の部屋だ。
その扉を開いた瞬間全身に甘ったるい匂いが包み込む。
「さあロゼッタ、見てご覧。君の家のパティシエに作らせた。君はローズパイ、そしてローズヒップティーが好きだって彼に聞いたんだ」
部屋の中央、アンティーク調のテーブルの上には二人で食べるにはあまりにも多すぎるローズパイが置かれていた。
僕の肩を掴み、半ば強引に椅子に座らせたアリスはそう僕の両肩を撫でる。
「少し遅いがお茶会を始めよう。
――邪魔な奴らはもういない、二人だけのお茶会だ」
遠くで時計の鐘の音が響いた。
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