誰が女王を殺した?

田原摩耶

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全てを失った日

地下牢獄のディーとダム

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 向かい側に腰を掛けるのはアリスだ。
 自分はフォークに手をつけることなくただ僕を真っ直ぐに見据え、目が合えばただ薄く微笑む。

 異様な空間に吐き気がした。
 母の部屋にこいつがいることにだ。
 この部屋は完全な私室だ、母の部屋に入ることは身内である僕でも父でも許されない。……許されなかった。それをこの男は我が物顔で入り浸り、まるで自分のもののように扱う。吐き気がした。
 紅茶のリラックス作用も関係ない。母との思い出も、記憶も全てこの男に塗り替えられる。

「……どうしたの? ロゼッタ」
「…………」
「もしかしてお腹がいっぱいなのかな?」

 お前みたいな得体の知れないやつが用意した物など口にできるわけがないだろう。できるか。ふざけるな。喉先まで出かかった言葉を飲み込む。紅茶の中身をぶち撒けてやりたかった。お前のせいで母が死んだと、お前は人殺しだと。この手で殺してやりたい。何度も陶器の破片でその目も心臓もズタズタに潰してやりたい。
 憎悪で心の臓まで黒く塗り潰されそうになる。
 今なら、できる。この怒りに身を任せることもできた。最悪駆け付けた兵に殺されるかもしれない。それでも三日月ウサギならエースを助けてなんとかしてくれるだろう。エースならば王を殺すことも容易いはずだ。そもそも僕はこの男を一矢報いることができればそれでいい。
 拳を握り締めたとき、指先に何かが当たった。……毒薬の小瓶だ。そうだ、こいつの食べるものにこれを仕込めば確実に殺せる。殴りかかるよりかは遥かに現実的だ。それでも、簡単に死なせてやるかという気持ちとせめぎ合い頭の中が、心の奥がぐちゃぐちゃになっていく。

「ロゼッタ?」
「……ッ!」
「……せっかくのティーが冷めてしまうな。新しいものを用意させようか?」

 誰かを呼びに行くつもりか。
 チャンスだ、と息を飲む。

「ああ、僕は……湯気が立つほど熱いものではなくては口に合わない」
「へえ、そうなのか。……でも君って猫舌じゃなかったっけ?」
「……ッ、今は違う」

 そもそもなんでお前が知ってるんだ、と疑問に思ったとき。アリスは「待ってて」と立ち上がり部屋から出ていくのだ。
 ――今だ!
 そう、やつが部屋を出ていったのを見計らいポケットから劇薬の入った小瓶を取り出した。
 蓋を開き、やつの側に置いてある紅茶の中と、念の為ローズパイに数適垂らす。色はないので怪しまれないだろう。全て使うか迷ったが、あとからまた使う機会が嫌でもくるはずだ。
 僕は再びポケットに仕舞い、自分の席へと腰を下ろした。
 間もなくしてアリスが戻ってきた。その手にはティーロトリーが押され、そしてその上にティーポットが載せられている。

「お待たせ、ロゼッタ。すぐに用意するから待っててね。君のためにここの執事……名前をなんて言ったかな、あの双子の……そう、ダム……ディーだっけな? まあ、どちらかに聞いたんだよ。ほら、見ててね」

 言いながら、もたつきながらも新しいティーカップに紅茶を注ぐアリス。あまりにも不慣れ、見ていられない。が、そんなことよりも僕はアリスの口から出てきたその名前に意識を持っていかれた。
 トゥイードル・ディーとトゥイードル・ダム。
 双子の執事の顔を思い出す。数年前に父が連れてきたこの城では新参者の執事だが、そうか……あいつらは父に可愛がられていた。母は素性の知らない彼らにお茶を淹れさせず、昔からいる執事長やシェフが用意したものだけに口をつけていた。
 それが気に入らなかったのか。だからアリスなんかと仲良くしているのか。あの双子も敵なのだと思えば不快感で髪を掻き毟りたくなる。
 ……まだ幼かった僕に『クイーンには秘密だよ』と度々おやつをくれた二人のことを僕は少しでも信じていたかった。いや、まだ分からない。無理矢理アリスに命じられただけかもしれない。一人思案してると、どうやら悪戦苦闘の末ようやく用意できたらしいティーカップを僕の目の前にそっと置くアリス。

「さあ、どうぞ」

 そう用意されたティーカップには当たり前だが湯気が立っている。……熱そうだ。
 さっきは咄嗟に無茶振りして注文したが、あくまでも退席をさせるための嘘だった。けど、自分からケチ付けて飲まないのも怪しまれるだろう。
 それよりもだ。

「……お前も席についたらどうだ」
「ああ、そうだね」

 促せば、アリスは向かい側のチェアに腰を掛ける。そして再び頬杖をついて僕が飲もうとする様子を見てるのだ。何をしてるんだ。早く飲め。それを飲むんだ。一口でもいい。

「……お前は飲まないのか」

 逸る気持ちを抑え、そうなるべく怪しまれないように尋ねれば「そうだね」とアリスはティーカップの持ち手に指をかける。
 きた、と顔を上げたときだった。アリスはそのまま中に入った紅茶を床のカーペットへと捨てたのだ。

「僕、薔薇の匂いって嫌いなんだよね。吐き気がして気持ち悪くなっちゃって」

 薔薇色のカーペットにシミが広がっていく。
 そしてその紅茶が捨てられた一部がまるで色が抜け落ちたように白く変色するのを見て、「ん?」とアリスが小首を傾げた。
 しまった、と思ったときには遅い。アリスは立ち上がり、僕が手にしようとしていたティーカップを奪った。そして。

「ぁ……ッ!」

 再び、アリスは躊躇いなく紅茶を捨てる。真紅のカーペットにもう一つ大きなシミが滲む。けれど、そのシミは広がりはすれどもう一方同様色が抜け落ちることはない。
 しまった、流石に気付かれたか。
 鼓動が跳ね上がる。汗が滲む。アリスの表情から笑顔が消え失せていくのを見て全身が冷たくなる。そして、アリスの双眼はゆっくりとこちらを向くのだ。

「……良かった、君の方は無事だったんだね」
「ぁ……アリス……」
「ああ、分かってるよ」

 あのとき毒を盛れたのは僕しかいない。
 立ち上がるアリスはそのまま宥めるように僕の背中を撫でた。その冷たい掌に感触に背筋が震えた。

「……ディーとダム、あいつらの仕業だな」

 その声は一切笑っていない。いつもの軽薄な響きもなかった。



「アリス……っ」

 そのまま部屋を出ていこうとするアリスを咄嗟に呼び止めれば、アリスはこちらを振り返るのだ。
 先程までのぞっとするような冷たい目ではなく、いつものアリスがそこにはいた。
 そして、何を勘違いしたのかアリスは人を抱き締めるのだ。

「……ッぉ、おい……!」
「危なかった。……もしこのカップにロゼッタが口を付けていたと思うと……」

 そう、耳元で囁くアリスは言いかけて深く息を吐くのだ。生暖かな吐息が吹きかかり嫌な汗が滲む。おい、とアリスを見上げたとき、アリスはその端正な顔に笑みを浮かべた。

「……少し待っててくれ。すまないね、今夜は君は客人だというのにろくに持て成せなくて」
「待て、どこに行くつもりだ」
「どこって……悪い人を裁きに行くんだよ」

 裁くと、アリスは躊躇なく続けた。
 悪人というのが誰を指しているのか分かる。ディーとダムを犯人だと思い込んでいるのだろう。濡れ衣だ、何故なら毒も僕が仕込んだからだ。
 そこまで考えて、脳裏に最後に見た女王の姿が過る。罪人のように捕らえられ、観衆の前で頭を押さえつけられる母を。
 もし、ディーとダムがこの城に残っているのが本意でなければ。そう考えると胸の奥からおどろおどろしいものが込み上げてきた。
 ――これは、恐怖か?

「……ッ、僕も……連れて行け」

 この男は人を断罪することに躊躇がない。……悪と決め付ければそれこそ無実の人間だろうがその言葉にも聞く耳を持たない。
 一度、父が言っていた。アリスと女王は似ていると。けれど、僕はそう思わない。母は結果的に全て正しい方へと導いてくれていた。
 けれどこの男はどうだ?……国のためではない、全ては私利私欲のためだ。その口八丁と見目のよさで他人の心を惑わし、利用する。この男の思い通りにするわけにはいかない。

「……ロゼッタ」

 何かを考えていた様子のアリスだったがそれも束の間、すぐに「わかった」と頷くのだ。

「けど、危険だと思ったらすぐに帰すからね」

 それはどういう意味だ。アリスはただ微笑んだまま「それじゃあ行こうか」と僕の手を取るのだ。
 部屋の外には屈強な男が一人。見慣れた真紅の兵服に身を包んでいるが、顔には見覚えがない。アリスはその男に「ディーとダムに会いに行く」とだけ伝えれば男は無言で何かを手渡した。
 ――鍵だ。鉄の輪にハメられた鍵を手にしたアリスはそのまま僕の手を引いて地下へと向かう。

 城の中は恐ろしいほどまでに静かだ。
 階段を降りていく。二人分の足音が静まり返った周囲に反響する。地下へと降りれば降りるほど後には戻れないような気になる。今だ、今こいつを階段から突き飛ばせば。そう思うのに、身体が思うように動かない。嫌な記憶が蘇り、自然と呼吸が浅くなり汗が滲む。
 地下特有の饐えた空気、そして錆びたような匂い。辿り着いた先には重厚な鉄の扉が存在していた。
 ここは――初めてくる場所だった。罪人たちを閉じ込める地下牢屋とはまた違うその扉だが、匂う悪臭――嫌な空気はそれ以上だ。
 鍵を使い、扉を開いたアリス。瞬間、扉の隙間から悲鳴のようなくぐもった呻き声が聞こえてくる。
 ――それに続いて、楽しげな笑い声も。
 まず視界に入ったのは壁の蝋燭しか灯りのない薄暗い部屋だった。そしてその部屋の中央、椅子に括り付けられ、拘束された男が一人。
 目隠しと猿轡を噛まされた特徴的な緑色の髪の男には見覚えがあった。――ディーだ。
 二人は姿形顔の部位までもが瓜二つだが、ダムは橙の明るい髪という決定的な違いがあった。
 何故ディーが拘束されているのか。背後のアリスを振り返ろうとしたとき。

「……おや? こんな時間にお客様かと思えばアリスじゃないか」

「いけないなあ、こんな時間まで夜ふかしだなんて。子供は眠る時間だよ」見知らぬ男がそこにはいた。明るいバイオレットの髪。垂れ目がちなその男はアリスを見るなりにぃ、とほほ笑み、そして僕へゆっくりと視線を向けるのだ。
 ほう、と男が近付いてきたとき、僕と男の間に立つようにアリスが割入ってきた。

「チェシャ、ダムはどこだ?」
「ああ、双子の片割れ君ならそこの牢にいるよ。二人一緒だと騒がしくて仕方ないからこうやって一人ずつにしてるのさ。俺は緑色が嫌いだからまずはそいつからだ。ああ、オレンジの彼ならまだ何もしていないから口は聞けるはずだよ」

 チェシャ、と呼ばれたこの男はなんなのか。アリスの知り合いであることには違いないがここで何をしているのか。聞きたいことはあったはずなのに、本能が関わるなと叫んでいる。開いた口からは何も言葉が出なかった。そんな僕の腕を引いたアリスは「そうか」とだけ応え、そのままその部屋の奥へと向かった。

 奥には薄汚い牢屋に繋がっていた。
 懲罰房が存在することは知っていたが、初めて来た。あまりの不衛生さに思わず顔を顰める。
 アリスの肩越しに牢屋の中を確認すれば――いた。ダムだ。
 牢の片隅、蹲っていた橙頭の青年は怯えたようにこちらを見上げ、そして目を見開く。

「……っ、王子……! ご無事で……」

 歓喜か、それとも困惑か。様々な感情が入り混じった表情で、それでも安心したように檻の隙間からこちらに手を伸ばそうとするダム。けれど、その手が僕に伸びるよりも先にアリスは腰から何かを抜き、ダムの手を思いっきり殴った。

「ッ、ぐ……ッ!!」
「汚い手で触るな、ダム」
「ぁ……っ、アリス……? 待て、なんで……そんなもの……ッ」

 アリスの手に握られてるのはトレンチメイスだ。本来ならば一般人の携帯は許されない。ジャックに殴られたときのことを思い出し、肩が、腕に痛みが走る。鉄製で美しい彫刻が施されたその先端部には人体に対し殺傷力を持たせるため棘が突出している。殴られた拍子に引っかかれたのか、ダムの手の甲に赤い血が滲んだ。
 アリスは表情変えずに「そんなことどうだっていいだろう」と吐き捨てるのだ。そしてそのままダムの腕を掴んだアリスはその腕を檻の外まで引き摺り出し、慣れた手付きでダムの腕を鉄棒に縛り付ける。

「っ、待て、なんで……っ、アリス?!」
「理由ならばお前がよく知ってるだろう? ……僕とロゼッタを陥れようとしたのはこの手か?」
「……は、ちょ……ッ」

 待て、とダムが叫ぶのと同時にアリスがその腕に向かってメイスを振り下ろそうとした。
 骨が砕かれるようなその痛みを知っているだけに、黙って見ることができなかった。

「……ッ、アリス!」

 堪らず、アリスの腕を掴んだ。
 瞬間、アリスはぴたりと動きを止めるのだ。
 そしてゆっくりとこちらを振り返る。

「危ないよ、ロゼッタ。君に傷でもできたら僕はどうすればいい?」

 自分でも自分の行動に呆れた。けれど、ダムに罪がないことを僕は知ってる。
 それに、この反応。アリスに心酔してるようには見えない。
 ……馬鹿なことをしたと思った。ここでダムを庇えば余計怪しまれる。頭では理解していたのに、見過ごせなかったのだ。

「……ロゼッタ?」
「お、うじ……ッ」
「……僕の前で、汚いものを見せるな」

 そう言えば、アリスの表情に笑みが戻る。ああ、そうだね、そうだったねと、一人納得したように微笑み、アリスは「ごめんね、ロゼッタ」と僕の顔を覗き込むのだ。そして、何もなかったようにメイスを上着の下、腰のホルダーへと戻す。

「良かったな、ダム。お前の相手はチェシャにさせよう。……僕だけならともかく、ロゼッタにまで危害を加えようとするなんて許されざる行為だ」
「ま、待てッ、俺にはなんのことか……ッ」
「残念だよ、ダム。君の淹れた紅茶は嫌いではなかったのに」

 噛み合わない会話。ダムが王子、と縋り付くような目を向けてくる。聞きたいことは色々ある、けれどこの男がいる限りそれは難しいだろう。
 アリスは「チェシャ」と虚空に向かって名前を呼んだ、瞬間、何もなかったはずの壁の前にはいつのまにかあの男――チェシャがいた。

「どうした?俺達のアリス」
「ディーはもういい。ダムだ。こいつ、僕の飲む紅茶に毒を入れた。……一歩間違えればロゼッタにまで危害が及んでいただろう」
「ああ、それはなんと嘆かわしい。もう大丈夫だ、アリス。君はなんの心配もしなくていい。目には目を、毒には毒を。……そうだろう? 片割れ君」
「っ、待て、俺は本当に何も……! 誤解だ、何かの……っ!」

 行こう、とアリスに手を引かれる。駄目だ、このまま置いていっては。ここに残せばきっと、ダムは。ディーは。
 後ろ髪を引かれる思いでアリス、と先を歩くアリスを呼ぶ。踏み止まろうと思うのに、力が強い。まるで半ば引き摺られるようにその独房から引き摺り出されるのだ。
 拘束されたままのディーの前を通り過ぎる。ディーは何も見えない。けれど扉の向こうから聞こえてくる片割れの悲鳴に何かが起きてることはわかってるはずだ。より一層暴れているが、アリスはそれを気にも留めず僕を地下から連れ出すのだ。

「アリス……ッ」
「…………」

 カン、カン。と、二人分の足音が響く暗がりの階段。まだ鼻の奥に嫌な匂いがこびり付いているようだった。

「アリス、あいつらを殺す気か……っ、」
「……そんなに二人のことが心配なのかい? 君だってたくさんの兵を殺させてきたというのに、たった二人だ。二人減るかもしれないってだけだ、何も気にすることなんてないだろう?」
「……っ、……」

 言葉が出なかった。
 この男の言葉は理解できる。けれど、一番悍ましかったのがこのアリスという男がそれを口にすることだった。
 ……僕の知っているアリスという男は、少なからずこんな真似をする男ではなかった。
 気に入らないが、生温いことを口にする。人の心を入り込むようなそんな男だった。
 アリスの手にしていたメイスは護身用ではない、人を痛め付けることを目的として作られているものだ。

「……っ、アリス、お前……そのメイス、どうしたんだ」
「ああ、これ? ……チェシャがくれたんだよ、僕には必要なものだって」

 いつもと変わらないアリスがそこにいた。嬉しそうに、思い出したように、先程の明らかに浮いていた得体の知れない男の名前を口にする。
 あの男か、あいつの――。

「……っ、あいつは何者なんだ、お前の……」
「それ、もしかして妬いてる?」
「……は、」
「大丈夫、僕はずっと君だけを見てきたんだ……ロゼッタ。チェシャはただの友達だよ、ここに来たばかりの僕に色んなことを教えてくれたんだ。ちょっと変わり者だけどいいやつだよ」

 どこがだ、良いやつは自分の友人に人殺すための武器をプレゼントしたりなどしない。

 階段をあがれば、城内は騒がしかった。
 兵隊たちが騒々しく走り回っている。
 侵入者だ、と声が聞こえた。……エースたちだろうか。ディーとダムのことで気を取られていたが、こんなところでのんびりしてる暇はないのだ。

「お茶会……どころではなさそうだね。おい、どうした?」

 そう、近くにいた兵を呼び止めるアリス。その兵はアリスを見ると怯えたような顔をして慌てて背筋を伸ばした。

「あ、アリス様……ッ! っと、王子……! ここにいらしたんですね」
「ああ、彼は僕とずっと一緒だ。……この騒ぎはなんだ?」
「王の寝室に曲者が……ッ、恐らく……」

 言い掛けて、その兵はちらりと僕を見た。

「エース殿、かと……思われます」

 その言葉に全身がぞわりと反応する。
 エースが無事という喜びと続いて父の寝室を狙ったエースの行方が気になった。
 エースの名前よりも父のことが引っかかったようだ。アリスの表情が曇った。

「……王はご無事なのか?」
「ええ、丁度ジャック様が部屋の外にいたのですぐに護衛につけたようです」
「それでエースはどうした」
「姿を晦ましてます。件の不審な男も一緒に行動してるようです」

 三日月ウサギのことだろう。内心安堵した。あの二人が一緒ならば大丈夫だろう。
 それにしても、エースは父を狙ったのか。……実の父とは言え、今はこの身体にやつの血が流れてることすら恨めしいほどだ。

「……アリス様も、どこかに身を隠した方がよろしいかと。……どうやら、王子を探されているようですので」
「ああ、ご忠告ありがとう」

 失礼します、とだけ言って兵隊はその場を後にする。心の奥がざわついている。喜びと安堵と、これは……なんだろうか。感じたことのない感情に違和感を覚えたとき、ふと「ロゼッタ」と名前を呼ばれた。

「な……っ、……」

 なんだ、と応えるよりも先に身体を抱き締められた。一瞬何をされたのかわからなくて、続いて甘い匂いに混じって血の匂いがふわりと鼻を掠める。咄嗟に目の前の男を引き剥がそうとするが、背中へと回された腕は僕を離そうとしない。それどころか、まるで慰めるように僕の背筋を撫で上げ、そして悲しそうに目を伏せるのだ。

「大丈夫だよ、ロゼッタ。……何も怖がることはない、君にも指一本傷つけさせないよ」
「っ、おい、アリス……」
「すぐにエースの首を持ってこさせよう」

 その声は笑っていない。
 エースが危ない。そう肌で理解する。あいつはこの私兵団の中でも腕が立つ。けれど、あまりにもジャックという男がネックだった。
 エースとジャックは師弟関係に当たる。エースの剣術も全てジャックが叩き込んだ。……最悪の相手だ。エースが無事ならいいが、ジャックがいるのはあまりにも分が悪い。それに、サイスもいる。
 本気でエースの首が狙われたりでもしたら、そんなことを考えたくもなかった。

「っ、アリス……エースは、いい……っ」
「……何を言ってるんだ? ロゼッタ。まさか、あいつを庇おうとしてるのか?」
「……っ、ああ、そうだ。あいつは僕のことを心配しているだけだ。……っ、殺すな、殺すなと伝えろ」

 一か八かだった。この男は僕の言うことには聞く耳を持つ。ならば、と懇願する。油断させて、こいつを殺すことも可能だ。
「アリス」と、目の前の男を見上げたとき、アリスと視線がぶつかる。その目に浮かぶのは見たことのない色だった。

「……ロゼッタ、悪いが君の願いでもそれは聞き入れられない」
「どうして……」
「僕が彼のことが嫌いだからだよ」
「……ッな」
「僕のロゼッタを危険な目に合わせる国賊だ。……君の護衛ならばもっと他に優秀なものもいる。ああ、そうだ。ジャック……彼は気さくでいいやつだ。だから君の護衛のことならば気にする必要はないさ」
「……ッ」

 代わりの護衛に、とジャックの名前を出され全身が凍り付いた。まるで話が通じない。
 少しでもこの男に縋り付いた己を恥じ、そして決意を固める。やはり、このまま静観してるのは危険だ。……事に移す必要がある。
 様子見など必要ない、もうこの男を殺すしかない。
 劇薬の残った小瓶を握りしめ、奥歯を噛み締めた。
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