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第一話
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「あなたをずっと、お慕いしておりました。
あなたの笑顔が好きでした。柔らかな声を耳にする度心躍らせていました。あなたのちょっと鈍臭いところも、可愛くて大好きだったのです。
初めて出会った時から一目惚れでした。今でも心より愛しています。
けれどこれはあくまで政略結婚。あなたの中に私への恋情がないことも知っていました。ですがせめて、信じてほしかった。
私が無実なのだと、そう言えばあなただけは信じてくださると思っていたのです。いいえ、思いたかったのでしょう。
しかしそれは私の愚かなる願望でしかありませんでした。
……私、もう疲れてしまいました。もう、何もかもがどうでも良くなってしまったのです。
だってあなたといられない世界だなんて、私には必要ありませんから――」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「アナベル、おはよう。今日は暖かい日だよ。昔みたいに一緒に外で遊ばないかい」
僕が声をかけても、彼女はうんともすんとも言わない。
アナベル・メリーエ公爵令嬢。メリーエ公爵家の長女にして、僕の婚約者だった人だ。
透き通るような銀の髪に青い瞳の、とても美しい少女だった。
僕と同い年で背丈だってうんと小さいのに、しっかりしていたと思う。勉学なんて常に僕の上だったし、作法も完璧。魔法も稀に見る天才の域に達していたという。
愚かで弱すぎる僕にはあまりにも不釣り合いな婚約者だったのだろう。
だから僕は劣等感を抱いてしまった。
何をしてもアナベルより下だ。王たる器に足りないと言われ父にも母にも馬鹿を見る目で見つめられる。
嫌だった。比べられることが、たまらなく嫌いで苦痛だった。
幼い頃は仲良く遊んでいたはずなのに、大きくなるにつれ優秀で完璧になった『氷の公爵令嬢』アナベル・メリーエ。
『氷の公爵令嬢』の名の所以は、誰に対しても決して感情を読ませない無表情であったからだ。王妃教育が始まった頃から表情は消え失せ、可愛げのない女だと僕は思うようになっていた。
十五歳になる頃にはすっかり疎ましい存在と感じてしまっていた彼女の醜聞を耳にした時、僕は最低なことに歓喜してしまったんだ。
――これで別れられる大義名分ができる。
こんな僕とアナベルが一緒にいたって幸せになれないだろう。だから僕らは別れるのが一番なんだと思い込んでいたのだ。
しかも内容はアナベルが他の男と一夜を共にしたという、令嬢にあるまじきものだ。だが僕と別れさえすれば、その男とくっつくこともできる。アナベルだって万々歳じゃないか。
今考えると僕の考えは幼稚でどうしようもなかったとしか言いようがない。浮気女という汚名を夜会という公の場で着せられたアナベルに明るい未来などないのは、少し考えればわかることだったろうに。
「アナベル・メリーエ。君との婚約を破棄するッ!」
馬鹿だ。僕は、大馬鹿だ。
アナベルはあんなにも僕を愛してくれていたのに。どうしようもない僕を、最後まで見放さずにいてくれたたった一人の人だったのに。
「さようなら、私の愛しのお方」
失望し、悲しげな笑みを浮かべたアナベルは僕にそう言い残すと――自ら氷の魔法を生じさせ、分厚く冷たい氷にその身を閉ざした。
夜会は騒然となった。公爵令嬢の氷を溶かすためにたくさんの魔道士が投入されたが、どんな魔法を放っても全て無駄。
こうして彼女は本物の『氷の公爵令嬢』になってしまったわけだ。
こんなはずじゃなかった、なんて、僕が言っていいはずがないけれど。
ただただ僕は戸惑うことしかできず、静かに震えていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「これはアナベルの日記です。せいぜい読んで、ご自分の罪を理解してくださいませ」
「渡したいものがある」と言って王宮までやって来たメリーエ夫妻。
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたメリーエ公爵夫人から手渡されたのは、羊皮紙で作られたノートだった。
僕は正直それを受け取りたくないと思った。アナベルがあんなことになってしまったのは僕にとってもショックなことで、これ以上彼女のことを考えると頭がどうにかなりそうだったからだ。
だが目を血走らせるメリーエ公爵が僕の逃げを許さなかった。日記帳を押しつけ、文字を読むこともできないのかと鬼のような形相で僕を罵倒したのだ。
本来ならば王太子にそんなことを言うなんて不敬罪で処せられてもおかしくない。
だが僕は公爵夫妻に気圧され、反論することなく日記帳を受け取ってしまった。そしてその場で目を通した。
そして僕は、後悔した――。
あなたの笑顔が好きでした。柔らかな声を耳にする度心躍らせていました。あなたのちょっと鈍臭いところも、可愛くて大好きだったのです。
初めて出会った時から一目惚れでした。今でも心より愛しています。
けれどこれはあくまで政略結婚。あなたの中に私への恋情がないことも知っていました。ですがせめて、信じてほしかった。
私が無実なのだと、そう言えばあなただけは信じてくださると思っていたのです。いいえ、思いたかったのでしょう。
しかしそれは私の愚かなる願望でしかありませんでした。
……私、もう疲れてしまいました。もう、何もかもがどうでも良くなってしまったのです。
だってあなたといられない世界だなんて、私には必要ありませんから――」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「アナベル、おはよう。今日は暖かい日だよ。昔みたいに一緒に外で遊ばないかい」
僕が声をかけても、彼女はうんともすんとも言わない。
アナベル・メリーエ公爵令嬢。メリーエ公爵家の長女にして、僕の婚約者だった人だ。
透き通るような銀の髪に青い瞳の、とても美しい少女だった。
僕と同い年で背丈だってうんと小さいのに、しっかりしていたと思う。勉学なんて常に僕の上だったし、作法も完璧。魔法も稀に見る天才の域に達していたという。
愚かで弱すぎる僕にはあまりにも不釣り合いな婚約者だったのだろう。
だから僕は劣等感を抱いてしまった。
何をしてもアナベルより下だ。王たる器に足りないと言われ父にも母にも馬鹿を見る目で見つめられる。
嫌だった。比べられることが、たまらなく嫌いで苦痛だった。
幼い頃は仲良く遊んでいたはずなのに、大きくなるにつれ優秀で完璧になった『氷の公爵令嬢』アナベル・メリーエ。
『氷の公爵令嬢』の名の所以は、誰に対しても決して感情を読ませない無表情であったからだ。王妃教育が始まった頃から表情は消え失せ、可愛げのない女だと僕は思うようになっていた。
十五歳になる頃にはすっかり疎ましい存在と感じてしまっていた彼女の醜聞を耳にした時、僕は最低なことに歓喜してしまったんだ。
――これで別れられる大義名分ができる。
こんな僕とアナベルが一緒にいたって幸せになれないだろう。だから僕らは別れるのが一番なんだと思い込んでいたのだ。
しかも内容はアナベルが他の男と一夜を共にしたという、令嬢にあるまじきものだ。だが僕と別れさえすれば、その男とくっつくこともできる。アナベルだって万々歳じゃないか。
今考えると僕の考えは幼稚でどうしようもなかったとしか言いようがない。浮気女という汚名を夜会という公の場で着せられたアナベルに明るい未来などないのは、少し考えればわかることだったろうに。
「アナベル・メリーエ。君との婚約を破棄するッ!」
馬鹿だ。僕は、大馬鹿だ。
アナベルはあんなにも僕を愛してくれていたのに。どうしようもない僕を、最後まで見放さずにいてくれたたった一人の人だったのに。
「さようなら、私の愛しのお方」
失望し、悲しげな笑みを浮かべたアナベルは僕にそう言い残すと――自ら氷の魔法を生じさせ、分厚く冷たい氷にその身を閉ざした。
夜会は騒然となった。公爵令嬢の氷を溶かすためにたくさんの魔道士が投入されたが、どんな魔法を放っても全て無駄。
こうして彼女は本物の『氷の公爵令嬢』になってしまったわけだ。
こんなはずじゃなかった、なんて、僕が言っていいはずがないけれど。
ただただ僕は戸惑うことしかできず、静かに震えていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「これはアナベルの日記です。せいぜい読んで、ご自分の罪を理解してくださいませ」
「渡したいものがある」と言って王宮までやって来たメリーエ夫妻。
涙で顔をぐちゃぐちゃにしたメリーエ公爵夫人から手渡されたのは、羊皮紙で作られたノートだった。
僕は正直それを受け取りたくないと思った。アナベルがあんなことになってしまったのは僕にとってもショックなことで、これ以上彼女のことを考えると頭がどうにかなりそうだったからだ。
だが目を血走らせるメリーエ公爵が僕の逃げを許さなかった。日記帳を押しつけ、文字を読むこともできないのかと鬼のような形相で僕を罵倒したのだ。
本来ならば王太子にそんなことを言うなんて不敬罪で処せられてもおかしくない。
だが僕は公爵夫妻に気圧され、反論することなく日記帳を受け取ってしまった。そしてその場で目を通した。
そして僕は、後悔した――。
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