黒髪令嬢と百年前の約束

ミカエル

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優しい父

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喉を切られ、熱い血があふれ出した感触と共に意識が闇に沈んでいったはずだった。

 ──次の瞬間。

 「美緒」

 穏やかで落ち着いた声が耳に届いた。

 ぶはっと荒い息が漏れる。肺に空気を取り込もうとして、肩が大きく上下した。喉を押さえた。けれど血は出ていない。視界に広がるのは、さっきまでの煤けた長屋ではなく、柔らかな照明に包まれたホテルの控室だった。

 モデルが使うようなドレッサー、整然と並べられた化粧道具。目の前に立っているのは、父。

 「お父さん、ここはどこ?」」
 私は立ち上がって父に詰め寄る。

 「美緒、どうした。やっぱり出るのはやめるかい?」
 父が優し気な表情で聞いてくる。

 呼吸はまだ乱れていた。あの瞬間の痛みと恐怖が全身に残っていて、現実感がつかめない。私は喉に手を当てたまま、震える声で答えた。
「……お父さん……?」

 父はやさしくうなずいた。
「そうだ。もうすぐ選考会が始まるが、無理はしなくていい」

 私はただ、荒い息を整えながら、自分が確かに生きてここにいることを必死に確認していた。

 私は鏡に顔を近づけた。喉には、傷なんてない──はずだった。けれど、うっすらと走る白い線が、汗の粒に浮かんで見えた。指の腹で触れると、ぞわり、と浅い痛みが返ってくる。

 夢じゃない。少なくとも、体は覚えている。

 「顔色が悪いな。水、持ってこよう」
 父がポットに手を伸ばす。口調は柔らかい。違和感が胸にひっかかった。

 「……お父さん、選考会、やめてもいいの?」
 試すように訊くと、父は一瞬まばたきをし、口角をやわらかく上げた。
 「無理をしてまで出る場ではないよ。もともと、ああいう華やかな席は好きではないからね」

 ──え?
 思わず息が詰まった。いつもの父なら「九条家のために恥をかくな」と言うはず。

 「でも……九条家の名誉とか、そういうのは?」
 「名誉よりも、お前が元気でいることのほうが大事だよ。うちは多少贅沢をしても困らないんだ。わざわざ背伸びをする必要はないからね」

 少し贅沢をしても困らない。
 その言い方が、妙に現実的で、落ち着き払っていた。

 「……本当に、お父さんなの?」
 口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

 父は困ったように笑い、肩をすくめた。
 「何を言っているんだ。昔からそうだろうさ」

 違う。私の知っている父は、金もないのにブランド物や妙な会員権に飛びついては、結局無駄にしてばかりだったはず。

 「……じゃあ、あの会員制リゾートのパンフレットは?」
 「ああ、あれか。知り合いに勧められて一応見てみたんだよ。でも、まったく必要ないと思ってすぐに捨てたよ。そんなものより家で穏やかに過ごす方が性に合っているからね」

 会員制リゾートを「必要ない」と言い切った?
 優しい言葉。現実的な響き。けれど、だからこそ異様だった。

 「お父さん、“九条の誇りを忘れるな”って、いつも言ってたじゃない」
 「そんな窮屈なものは要らんさ。お前が笑っていられれば、それが一番の誇りだからね」

 胸の奥に冷たいものが広がっていく。
 確かに目の前にいるのは父。声も仕草も変わらない。けれど、私の知っている父ではない。

 ──優しいのに、まるで別人。
 違和感がどんどん大きくなって、呼吸まで浅くなるのを感じていた。




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