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名付けるなら愛しさ(side橘)
しおりを挟むはっと目が覚めた。
見ていた夢に強張る体が、徐々に現在になじみ弛緩する。ほっと安堵のため息を吐く。体を起こすと、白み始めた朝日が戸の隙間から柔らかに漏れているのが見えた。
初春とはいえ、朝は寒い。氷の針のような冷たい水で、何かを断ち切るように顔を洗い弓を持って外に出た。
先ほどの夢の続きを、思い出す。
◇
八年前、自棄になって無気力になっていた橘を動かしたのは、やはり桜だった。
桜の兄が西園寺家にやってきた時、彼が言葉少なに話した桜の近況は、とても皇后候補に選ばれた姫君の生活とは思えない。最低限の教育だ。皇后にする気が全く見えない。
桜の父は、桜が憎いのかもしれない。
そう思い至って、一度彼と対峙した時の仄暗い瞳と、橘の父の言葉を思い出す。
『あの女性が亡くなった時、彼は本当にひどい状態だったんだ』
桜の母は、桜の出産と共に亡くなったと聞いた。
背筋が寒くなる。
確かなことは桜の周りに彼女の幸せを願う人間はいないということだ。目の前の友人も、父母に逆らってでも異母妹を助けようとは思っていない。
考え込む橘に友人が、怪訝な顔をした。橘は彼の眉にほんの少し見える桜の面影を見て、思わず微笑した。
(俺は。俺だけは、桜の幸せを願おう)
ずっと一緒にいる夢は、もう絶対に、叶わない。
ならばせめて、彼女がずっと幸せでいられるように、桜を守ろう。
そう決めたら後は、道は一つだ。
そこからの八年は、ただがむしゃらに桜の近衛になることだけを目標にした。
元々武術の才はあった。後は磨いていくだけだ。我ながらこの八年、自分以上に剣を振るい弓を射った者はいないと思う。
崩御した先代帝に変わって即位した若宮ーー帝に、父のコネを使い謁見を願った。
処罰を覚悟で近衛武士を決める時は家との縁ではなく、実力で決めてもらえないだろうかと願った。
それを聞いた帝は、全てを見透かすような美しい顔で笑った。
「こう言えばいいじゃないか。『三の姫を選ぶな。この西園寺橘の嫁にしてくれ』と」
「そんなことは、望んでおりません」
難儀な男だな、と愉快そうに笑う。
「そういうのは、嫌いじゃない。ただ、丁度よかった。実力で決めるまでもない、お前は東一条家の護衛だ」
「……丁度良かった、とは」
「お前が気にすることではない」
そう言って、帝は底の見えない笑顔を橘に向けた。
「お前がそこまでする価値のある女性か。彼女に会うのが、楽しみだ」
◇
試練はとうとう、明日に迫る。
一部の平民にも公開される花の儀――武士の試練は、所詮ただの祭りにしか過ぎない。
そう、ただの祭りだ。
しかし自分は一位を獲り、胸に燻る汚い衝動を消さねばならない。
花の儀が終われば、桜はもう会うことすら叶わぬ地位につく。
練習場につき、弓を構えて矢を射った。正鵠に当たる。
手のひらに走る鋭い痛みに眉を顰める。
橘が武士になったのは、それ以外に桜と繋がる道が無かったからだ。
同時に罪滅ぼしでもある。恐らく俺に家族愛を持っていたであろう桜に、自分の感情一つで拒絶し文の返事も送らなかった。送れなかった。
再会した時、それを心の底から後悔した。
彼女は傷ついたに違いない。
再会した時、彼女は拒絶と怯えを孕んだ瞳で橘を見ていた。
また矢を射る。外した。
先日の花見の席で、帝を見る桜の眼差しはかつて橘に向けられた眼差しに似ていた。
目を逸らすことはできなかった。思い出の中の聖域にだけ生きていた桜が、橘の目の前に現れたのだ。
橘ではない、他の男の手によって。
胸に燃えあがったのは激しい嫉妬だ。
その時自覚した。
桜の夢を叶えるためだけに生きる覚悟など、定まっていなかったのだと。
本当は彼女が皇后となる姿など、想像なんてしたくない。あの髪も肌も心も全て俺のものにしたかった。
しかしもう、桜を裏切るつもりはない。
彼女を思うと痛む心は、桜が幸せになる道になる。
あの頭にこの世で一番尊い冠を載せ、誰にも傷つかせることのない至高の座を捧げよう。
手首に巻いた布を見て、愛おしさがこみあげた。
(そうしていつか。いつか俺は、彼女のためにこの命を捧げよう)
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