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第一章 寒空のリュート
第二話 騎士クレイグ
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大理石で作られた彫刻のように真っ白な肌をした少女だった。
黒いベールが跳ね上がり、顔の下半分と目の部分がかすかに見て取れた。
瞳はなく、目は真っ黒な空洞のようになっていて、闇だけがそこにあった。
唇から耳にかけて朱色のものがはしり、セリナは一瞬、頬紅がすれたものかと勘違いした。
だが、すぐにそれが血の色だとわかると、背筋に悪寒が走る。
大きく裂けた口をひらき、少女はなにかを叫んでいた。
――かえ、して―……。
返して? 何を返すのだろうか? 彼女からバスタ男爵家がなにかをうばったというのだろうか?
詳しく聞き取ろうとして耳を澄ます。
ごぼり、と喉から血が逆流し、言葉が声になるまえに散ってしまうようだった。
少女の胸辺りが怪しく煌めく。
セリナは左腕にあったブラックオパールの飾りが、いつのまにかそこに移動したのだと理解する。
苦し気にみをよじり、悶えるようにして少女はお腹を抱え、前のめりに倒れこんでしまった。
口からでた血が、ごぼごぼと床を血の色にひたしていく。
顔から血の気が引いたセリナを見て、夫人は不思議そうに後ろを振り返った。
――私のパルティを返して……。
少女は絨毯のうえで苦悶の声をあげた。
パルティ、どこかで聞きおぼえがある。
「男爵夫人! パルティという単語に聞きおぼえあありませんか!?」
「パルティ……?」
怪訝そうな顔をして夫人はセリナに向き直った。
頬に手を当て、視線を宙に彷徨わせて、ああ、とおもいだしたかのように一声打つ。
「イヴァダストのパルティ。王国でも最上位に並ぶ国宝級のブラックオパールですわ。確か、イヴァダスト子爵が所蔵していたはず……」
そこまで言い、夫人の顔が青ざめた。
イヴァダスト子爵は昨年、爵位を没収されて没落した富裕商人だった。
王国でも一、二を争う海運事業を展開していたが、隣国で盗掘された鉱石や宝石などを輸入し、販売した罪で爵位を没収され、一家は離散したのだった。
その時、国税庁から派遣され専任として捜査をおこなっていたのが、誰でもないバスタ男爵だ。
ここまでは新聞や夜会などで仕入れた知識だが、まさか――。
「では、幽霊の正体もおのずとみえてくるはずです」
「まさか……イヴァダスト子爵には令嬢がおられたはず。確は名は――」
セリナの視界の奥で、令嬢の幽霊がぴくり、と反応する。
どうやら、イヴァダスト子爵という言葉になにかを感じたようだ。
ゆらり、と立ち上がり、その手にしていた短剣をすうっ、と上に引き上げた。
「アーネスト嬢」
「いけない!」
夫人が少女の正体を言い当てると同時に、幽霊は短剣を思いきり夫人へと向かい突き立てる。
セリナはとっさに座卓を超え、夫人の手をとり自分のほうへと引き寄せた。
ガタン、と座っていた椅子がバランスを崩し、二人は床に転げてしまう。
幽霊――アーネスト嬢は一度目を仕損じたことに虚しさを感じたのか、ほう、と大きくためいきを漏らす。
虚ろな瞳で標的であるミシェルを見据え、再び、こんどは両手で短剣を握って持ち上げた。
「イナーフ……」
するすると足音なく近づいてくる恐怖を押し殺しながら、セリナはアーネスト嬢の胸元にあるブラックオパールをじっと見つめた。
真っ黒だった宝石は時折、青く光り輝く。
生命が誕生する明滅をあらわしているようで、とても不気味だ。
これからなにかがアーネスト嬢のなかから羽化してくるような、そんな予感を感じさせる。
それはイナーフと呼ばれる怪異。化け物だ。
人の欲望を捉えて離さず、卵が開花する頃になるまで精神に根付いて、じっと時期を待つ寄生虫のような存在。
人の精神に憑依するとされているのに、羽化するまえにはなぜかこのような幽霊騒動が起き、そして、狙われた人物が宿主となってイナーフが顕現する。
セリナはこのような光景をこれまで幾度も目にしてきた。
「男爵夫人、逃げますよ。時間がありません」
「え、逃げるって。あなた……」
「いいから立って! ほら、さあ! 時間が無いのです!」
セリナは事態を理解するまで動こうとしないミシェルをしかりつけ、ようやく立たせたときには、さらに時間が推していた。
イナーフが羽化する時、まず青の光が発せられる。
緑、白、黄色、赤、そして紫に到達すると、見事、イナーフの誕生だ。
その時間は青の点滅から一時間ともたない。
紫色になるまでの間に、イナーフは宿主に完全な憑依を果たし、魔獣へと変化させてしまう。
まだ時間はあった。問題は距離だ。
あと数歩でイナーフになる前のアーネスト嬢が、セリナたちに近づこうという距離まで進んできている。
「魔神バロッサム、腐蝕の加護を!」
胸元から一枚の紙を取り出すと、セリナは手から不思議な炎を描きだし、その紙を焼いた。
魔炎と呼ばれる能力で、どろどろしたマグマのような状態で発動する。
紙には簡易的な結界を施す内容の呪文が描かれており、魔炎で燃やすことによって一時的な壁を張り巡らせることができる。
セリナはミシェルを連れて入り口を駆け抜け、結界を張った。
銀色の不可視の壁が形成され、室内にアーネスト嬢を押しとどめてしまう。だが、時間はそうそう稼げないだろう。
「これは――?」
「結界です、夫人。……あなたはいま、イナーフに狙われておいでです」
「どうして? これは怪異の仕業だったのではなくって!?」
「その怪異がイナーフだったのです! 逃げますよ!」
一階にある応接間から玄関まではさほど距離はない。
玄関に向かえば、神殿の馬車が待っている。
神官などはいないが、乗り込めば幽霊から逃げるには容易いはずだった。
しかし――。
ギィン。と硬質な音が響き、応接間と廊下とを隔てた壁が、あっというまに崩れ去る。
もろくなり老朽化してぱらぱらと砂のようになって散っていく、壁を見て、ようやく夫人も事態を理解したようだ。
ひっ、と小さく恐怖が口の端から洩れた。続いて彼女の体がふっと、重くなる。
音を聞きつけて家人たちがそれぞれの部屋から顔を出し、駆けつけてくる者も幾人かいた。
彼らの姿を見たセリナは寄らないで下さい! と叫び夫人を外へと連れ出そうとする。
ぐいっと引っ張った夫人は意識を失っていた。
気を失った人間はたとえ子供であっても重いものだ。
それが夫人ともなると、まだ少女の域をでないセリナにはとても背負いきれない。
つんのめり二人して前に倒れこむ。
駆けつけた家人が夫人の周りによってきて、もう逃げ場などはどこにもない。
なにしろ、彼等には霊やイナーフなどそのものが見えていないのだから、対応のしようがない。
アーネスト嬢は夫人の前に立ち、銀色の短剣を再び振り上げた。
そのときふと、香りがした。澄み切っていて品格のある、身の引き締まるような香りだった。
開いていた玄関からその香りは漂いっており、セリナが引き寄せられるようにそちらを見ると、香りが高まった。
濃密な甘を含んだ豊潤な果実のような香りに変わり、顔を上げると煌びやかな絵が目に入った。
てっきりイナーフの胎動のかがやきか、と思ったが違った。
それは鱗だった。魚類や爬虫類のようなぬめぬめとしたものではなく、硬質でそれでいて滑らかな動きを見せる鱗――。
さらに目を上げると、部屋の天井にまで届きそうんな首長竜が目に入った。
飛竜でもない、馬の代わりに使われる土竜の類でもない。
蛇のような全身がとぐろを巻き、アーネスト嬢をその中心において巻き付いているのだった。
拘束された霊は身もだえするものの、締めつける力が強くなるほど、身動きが取れなくなっていくようだ。
手にした短剣で竜を攻撃しても、まるで効いていない。
やがてとぐろを巻いたそのうちに姿が消えていった。
最初、セリナには竜が生きているのか、それとも霊とおなじような不可視だが存在するものなのか、見分けがつかなかった。
右目で現実を見、左目で不可視の闇を見る。
それが六歳のとき、イナーフの血を浴びて覚醒したセリナの能力だ。
左右の目をそれぞれ開き閉じした結果、竜はセリナだけに見えているものだと発覚した。
竜はぱっととぐろを解き、もはや抵抗できなくなったアーネスト嬢を、ごろりと床上に放り出した。
頭を近づけてふっと息を吹きかけるようにすると、アーネスト嬢の頭がきえ、胴体がきえ、最後に下半身が消えた。
彼女がまき散らしていた血や、おどろおどろしい憎しみに満ちた銀の短剣もどこかに消え去っていた。
竜は満足そうに口元を歪めると、煙のように消えてしまった。
赤黒く血脈のように鮮烈で、それでいてときおり、白銀の輝きを見せる竜。
荘厳で神聖なる象徴であるものが、無双の覇気を示して助けてくれたのだとわかるまでに、時間が必要だった。
「奥様、しっかりなさってください!」
「神官様、どうなっているのですか!」
家人たちが続々と集まってきて、その数は十を超えていた。
セリナは問い詰られ、肩を揺さぶられて、ようやく夢うつつの世界から現実へと引き戻された。
竜が消えていった方向を見やると、玄関から誰かが入ってくる。
男だった。
二十代半ば、騎士の制服がよく似合う、長身の青年だった。
朱色の生地に、肩から斜めに青の二本線が走っている。
貴人だ、とセリナは思った。
神殿でもめったに目にすることのない上位の洋装だ。
精悍な顔つきと鷹揚な態度から乱暴そうだ、と思ったが野蛮ではなさそうだ。
視線が絡み合うと、彼は意味ありげな笑みを口元に浮かべていた。
青年は竜の香りをまとい、煙が消えた瞬間、彼を竜が取り巻いたように見えた。
セリナは何が起こったのかわからず、呆気に取られてしまい、ただ彼を見つめるだけだった。
「誰だ、おまえは!?」
「バルッサム神殿の者です。彼女を迎えに参りました」
「この神官を?」
「ええ、夫人にお怪我はありませんか?」
彼が問うと、家令は夫人の様子を心配しているようだった。
医者を、と鋭く命じる家令の手を制した騎士が夫人の胸に向かい手を掲げると、セリナが結界を発動させた時と同じような、深紅と銀が入り混じった光が発せられる。
上級の神聖魔法だ、とまだ扱えない魔術を行使する彼を見て、セリナは心がおどった。
「気を失っているだけです。このまま寝室に運び寝かせて差し上げれば、目を覚ますでしょう」
「ありがとうございます、騎士様!」
冷たいが抑揚のある声で、言葉の端にいたるまで礼節を弁えた言葉遣い。
聞く者の心に安心を与え、警戒を解き、信を得るに重宝する。そんな声だった。
彼は幽霊じゃない。
人と言葉を交わしていた。
家令と一言、二言交わしてから、騎士はセリナの手を引き、立ち上がらせる。
もう心配はない、と優しい一声が頭の上から降ってきて、心が落ち着いた。
「先に君が来ていたのは知っている」
「え、ああ、はい。騎士様」
彼は神を同じくするバルッサムの騎士だ。
胸にある紋章がそれを示していた。
どうせ上官からなにかを命じられてやってきたのだろうとセリナは考え、深く考えなかった。
家令は夫人を寝室に運ぶようにと家人に伝えていた。
「クレイグだ。あなたは?」
「わたし? セリナでございます、騎士様」
てっきり自分の名を知っているのかと思っていたがそうではないらしい。
クレイグと名乗った上級騎士は、あなたの助けがいる、とセリナに小さく囁いた。
「なにをお助けしろとおっしゃるのでございますか、騎士様」
「知れたこと。あなたは魔炎が使える」
「……」
魔炎。
セリナが六歳の時、イナーフの血を浴びて以降、手に入れた特殊能力だ。
幻の炎を出現させて周囲にまぼろしを発生させたり、強い作用を持つ幻覚を見せたり、小型の魔獣や低級の怪異ならば、祓うことができる。
「この状況はまずい。特に俺がここにいることを知られたままでは、いろいろと醜聞が立つ」
「記憶を消せ、と。そうおっしゃいますか」
「そうだな。できればあなた単独で霊を撃退した、というようにしていただければ、助かるのだが」
「……それはさきほど現れた竜に関わる問題ですか?」
騎士は、ほう? と面白そうな顔をした。
見たのか、あれを。と一息つき、セリナが答えたようにしてくれと申し付ける。
幻炎を見せることは人騙すような感覚がして気が引けるが、セリナは神官として役割を引きうけた。
人々はセリナに夫人が襲われ、助けられた感謝をし、見送りを立ててくれた。
やがてこの隠し立てがセリナを窮地に追い込むことになるのだが。
玄関の向こうで待っていた騎士の手に寄り添われて二人は神殿の馬車へと向かう。
セリナが乗ってきたのは女官や下級神官が乗る一頭立てだが、それはすでにいなくなっており、男爵邸の前には四頭立ての立派な馬車が用意されていた。
「では、神殿に戻ろうか」
「あの……あなた様はどちら様で? わたし、そのような貴人の衣をまとうおかたに縁はございません」
「俺か?」
「え、あの。はい、あなた様です」
「俺は……クレイグ。ただの神殿騎士だ」
馬車に戻り、言葉遣いが砕けたものになる。よくとおるいい声だった。
貴人に相応しい鷹揚さを備えている。
だが、セリナの脳裏によぎったのは、……なんだか怪しい、というものだった。
黒いベールが跳ね上がり、顔の下半分と目の部分がかすかに見て取れた。
瞳はなく、目は真っ黒な空洞のようになっていて、闇だけがそこにあった。
唇から耳にかけて朱色のものがはしり、セリナは一瞬、頬紅がすれたものかと勘違いした。
だが、すぐにそれが血の色だとわかると、背筋に悪寒が走る。
大きく裂けた口をひらき、少女はなにかを叫んでいた。
――かえ、して―……。
返して? 何を返すのだろうか? 彼女からバスタ男爵家がなにかをうばったというのだろうか?
詳しく聞き取ろうとして耳を澄ます。
ごぼり、と喉から血が逆流し、言葉が声になるまえに散ってしまうようだった。
少女の胸辺りが怪しく煌めく。
セリナは左腕にあったブラックオパールの飾りが、いつのまにかそこに移動したのだと理解する。
苦し気にみをよじり、悶えるようにして少女はお腹を抱え、前のめりに倒れこんでしまった。
口からでた血が、ごぼごぼと床を血の色にひたしていく。
顔から血の気が引いたセリナを見て、夫人は不思議そうに後ろを振り返った。
――私のパルティを返して……。
少女は絨毯のうえで苦悶の声をあげた。
パルティ、どこかで聞きおぼえがある。
「男爵夫人! パルティという単語に聞きおぼえあありませんか!?」
「パルティ……?」
怪訝そうな顔をして夫人はセリナに向き直った。
頬に手を当て、視線を宙に彷徨わせて、ああ、とおもいだしたかのように一声打つ。
「イヴァダストのパルティ。王国でも最上位に並ぶ国宝級のブラックオパールですわ。確か、イヴァダスト子爵が所蔵していたはず……」
そこまで言い、夫人の顔が青ざめた。
イヴァダスト子爵は昨年、爵位を没収されて没落した富裕商人だった。
王国でも一、二を争う海運事業を展開していたが、隣国で盗掘された鉱石や宝石などを輸入し、販売した罪で爵位を没収され、一家は離散したのだった。
その時、国税庁から派遣され専任として捜査をおこなっていたのが、誰でもないバスタ男爵だ。
ここまでは新聞や夜会などで仕入れた知識だが、まさか――。
「では、幽霊の正体もおのずとみえてくるはずです」
「まさか……イヴァダスト子爵には令嬢がおられたはず。確は名は――」
セリナの視界の奥で、令嬢の幽霊がぴくり、と反応する。
どうやら、イヴァダスト子爵という言葉になにかを感じたようだ。
ゆらり、と立ち上がり、その手にしていた短剣をすうっ、と上に引き上げた。
「アーネスト嬢」
「いけない!」
夫人が少女の正体を言い当てると同時に、幽霊は短剣を思いきり夫人へと向かい突き立てる。
セリナはとっさに座卓を超え、夫人の手をとり自分のほうへと引き寄せた。
ガタン、と座っていた椅子がバランスを崩し、二人は床に転げてしまう。
幽霊――アーネスト嬢は一度目を仕損じたことに虚しさを感じたのか、ほう、と大きくためいきを漏らす。
虚ろな瞳で標的であるミシェルを見据え、再び、こんどは両手で短剣を握って持ち上げた。
「イナーフ……」
するすると足音なく近づいてくる恐怖を押し殺しながら、セリナはアーネスト嬢の胸元にあるブラックオパールをじっと見つめた。
真っ黒だった宝石は時折、青く光り輝く。
生命が誕生する明滅をあらわしているようで、とても不気味だ。
これからなにかがアーネスト嬢のなかから羽化してくるような、そんな予感を感じさせる。
それはイナーフと呼ばれる怪異。化け物だ。
人の欲望を捉えて離さず、卵が開花する頃になるまで精神に根付いて、じっと時期を待つ寄生虫のような存在。
人の精神に憑依するとされているのに、羽化するまえにはなぜかこのような幽霊騒動が起き、そして、狙われた人物が宿主となってイナーフが顕現する。
セリナはこのような光景をこれまで幾度も目にしてきた。
「男爵夫人、逃げますよ。時間がありません」
「え、逃げるって。あなた……」
「いいから立って! ほら、さあ! 時間が無いのです!」
セリナは事態を理解するまで動こうとしないミシェルをしかりつけ、ようやく立たせたときには、さらに時間が推していた。
イナーフが羽化する時、まず青の光が発せられる。
緑、白、黄色、赤、そして紫に到達すると、見事、イナーフの誕生だ。
その時間は青の点滅から一時間ともたない。
紫色になるまでの間に、イナーフは宿主に完全な憑依を果たし、魔獣へと変化させてしまう。
まだ時間はあった。問題は距離だ。
あと数歩でイナーフになる前のアーネスト嬢が、セリナたちに近づこうという距離まで進んできている。
「魔神バロッサム、腐蝕の加護を!」
胸元から一枚の紙を取り出すと、セリナは手から不思議な炎を描きだし、その紙を焼いた。
魔炎と呼ばれる能力で、どろどろしたマグマのような状態で発動する。
紙には簡易的な結界を施す内容の呪文が描かれており、魔炎で燃やすことによって一時的な壁を張り巡らせることができる。
セリナはミシェルを連れて入り口を駆け抜け、結界を張った。
銀色の不可視の壁が形成され、室内にアーネスト嬢を押しとどめてしまう。だが、時間はそうそう稼げないだろう。
「これは――?」
「結界です、夫人。……あなたはいま、イナーフに狙われておいでです」
「どうして? これは怪異の仕業だったのではなくって!?」
「その怪異がイナーフだったのです! 逃げますよ!」
一階にある応接間から玄関まではさほど距離はない。
玄関に向かえば、神殿の馬車が待っている。
神官などはいないが、乗り込めば幽霊から逃げるには容易いはずだった。
しかし――。
ギィン。と硬質な音が響き、応接間と廊下とを隔てた壁が、あっというまに崩れ去る。
もろくなり老朽化してぱらぱらと砂のようになって散っていく、壁を見て、ようやく夫人も事態を理解したようだ。
ひっ、と小さく恐怖が口の端から洩れた。続いて彼女の体がふっと、重くなる。
音を聞きつけて家人たちがそれぞれの部屋から顔を出し、駆けつけてくる者も幾人かいた。
彼らの姿を見たセリナは寄らないで下さい! と叫び夫人を外へと連れ出そうとする。
ぐいっと引っ張った夫人は意識を失っていた。
気を失った人間はたとえ子供であっても重いものだ。
それが夫人ともなると、まだ少女の域をでないセリナにはとても背負いきれない。
つんのめり二人して前に倒れこむ。
駆けつけた家人が夫人の周りによってきて、もう逃げ場などはどこにもない。
なにしろ、彼等には霊やイナーフなどそのものが見えていないのだから、対応のしようがない。
アーネスト嬢は夫人の前に立ち、銀色の短剣を再び振り上げた。
そのときふと、香りがした。澄み切っていて品格のある、身の引き締まるような香りだった。
開いていた玄関からその香りは漂いっており、セリナが引き寄せられるようにそちらを見ると、香りが高まった。
濃密な甘を含んだ豊潤な果実のような香りに変わり、顔を上げると煌びやかな絵が目に入った。
てっきりイナーフの胎動のかがやきか、と思ったが違った。
それは鱗だった。魚類や爬虫類のようなぬめぬめとしたものではなく、硬質でそれでいて滑らかな動きを見せる鱗――。
さらに目を上げると、部屋の天井にまで届きそうんな首長竜が目に入った。
飛竜でもない、馬の代わりに使われる土竜の類でもない。
蛇のような全身がとぐろを巻き、アーネスト嬢をその中心において巻き付いているのだった。
拘束された霊は身もだえするものの、締めつける力が強くなるほど、身動きが取れなくなっていくようだ。
手にした短剣で竜を攻撃しても、まるで効いていない。
やがてとぐろを巻いたそのうちに姿が消えていった。
最初、セリナには竜が生きているのか、それとも霊とおなじような不可視だが存在するものなのか、見分けがつかなかった。
右目で現実を見、左目で不可視の闇を見る。
それが六歳のとき、イナーフの血を浴びて覚醒したセリナの能力だ。
左右の目をそれぞれ開き閉じした結果、竜はセリナだけに見えているものだと発覚した。
竜はぱっととぐろを解き、もはや抵抗できなくなったアーネスト嬢を、ごろりと床上に放り出した。
頭を近づけてふっと息を吹きかけるようにすると、アーネスト嬢の頭がきえ、胴体がきえ、最後に下半身が消えた。
彼女がまき散らしていた血や、おどろおどろしい憎しみに満ちた銀の短剣もどこかに消え去っていた。
竜は満足そうに口元を歪めると、煙のように消えてしまった。
赤黒く血脈のように鮮烈で、それでいてときおり、白銀の輝きを見せる竜。
荘厳で神聖なる象徴であるものが、無双の覇気を示して助けてくれたのだとわかるまでに、時間が必要だった。
「奥様、しっかりなさってください!」
「神官様、どうなっているのですか!」
家人たちが続々と集まってきて、その数は十を超えていた。
セリナは問い詰られ、肩を揺さぶられて、ようやく夢うつつの世界から現実へと引き戻された。
竜が消えていった方向を見やると、玄関から誰かが入ってくる。
男だった。
二十代半ば、騎士の制服がよく似合う、長身の青年だった。
朱色の生地に、肩から斜めに青の二本線が走っている。
貴人だ、とセリナは思った。
神殿でもめったに目にすることのない上位の洋装だ。
精悍な顔つきと鷹揚な態度から乱暴そうだ、と思ったが野蛮ではなさそうだ。
視線が絡み合うと、彼は意味ありげな笑みを口元に浮かべていた。
青年は竜の香りをまとい、煙が消えた瞬間、彼を竜が取り巻いたように見えた。
セリナは何が起こったのかわからず、呆気に取られてしまい、ただ彼を見つめるだけだった。
「誰だ、おまえは!?」
「バルッサム神殿の者です。彼女を迎えに参りました」
「この神官を?」
「ええ、夫人にお怪我はありませんか?」
彼が問うと、家令は夫人の様子を心配しているようだった。
医者を、と鋭く命じる家令の手を制した騎士が夫人の胸に向かい手を掲げると、セリナが結界を発動させた時と同じような、深紅と銀が入り混じった光が発せられる。
上級の神聖魔法だ、とまだ扱えない魔術を行使する彼を見て、セリナは心がおどった。
「気を失っているだけです。このまま寝室に運び寝かせて差し上げれば、目を覚ますでしょう」
「ありがとうございます、騎士様!」
冷たいが抑揚のある声で、言葉の端にいたるまで礼節を弁えた言葉遣い。
聞く者の心に安心を与え、警戒を解き、信を得るに重宝する。そんな声だった。
彼は幽霊じゃない。
人と言葉を交わしていた。
家令と一言、二言交わしてから、騎士はセリナの手を引き、立ち上がらせる。
もう心配はない、と優しい一声が頭の上から降ってきて、心が落ち着いた。
「先に君が来ていたのは知っている」
「え、ああ、はい。騎士様」
彼は神を同じくするバルッサムの騎士だ。
胸にある紋章がそれを示していた。
どうせ上官からなにかを命じられてやってきたのだろうとセリナは考え、深く考えなかった。
家令は夫人を寝室に運ぶようにと家人に伝えていた。
「クレイグだ。あなたは?」
「わたし? セリナでございます、騎士様」
てっきり自分の名を知っているのかと思っていたがそうではないらしい。
クレイグと名乗った上級騎士は、あなたの助けがいる、とセリナに小さく囁いた。
「なにをお助けしろとおっしゃるのでございますか、騎士様」
「知れたこと。あなたは魔炎が使える」
「……」
魔炎。
セリナが六歳の時、イナーフの血を浴びて以降、手に入れた特殊能力だ。
幻の炎を出現させて周囲にまぼろしを発生させたり、強い作用を持つ幻覚を見せたり、小型の魔獣や低級の怪異ならば、祓うことができる。
「この状況はまずい。特に俺がここにいることを知られたままでは、いろいろと醜聞が立つ」
「記憶を消せ、と。そうおっしゃいますか」
「そうだな。できればあなた単独で霊を撃退した、というようにしていただければ、助かるのだが」
「……それはさきほど現れた竜に関わる問題ですか?」
騎士は、ほう? と面白そうな顔をした。
見たのか、あれを。と一息つき、セリナが答えたようにしてくれと申し付ける。
幻炎を見せることは人騙すような感覚がして気が引けるが、セリナは神官として役割を引きうけた。
人々はセリナに夫人が襲われ、助けられた感謝をし、見送りを立ててくれた。
やがてこの隠し立てがセリナを窮地に追い込むことになるのだが。
玄関の向こうで待っていた騎士の手に寄り添われて二人は神殿の馬車へと向かう。
セリナが乗ってきたのは女官や下級神官が乗る一頭立てだが、それはすでにいなくなっており、男爵邸の前には四頭立ての立派な馬車が用意されていた。
「では、神殿に戻ろうか」
「あの……あなた様はどちら様で? わたし、そのような貴人の衣をまとうおかたに縁はございません」
「俺か?」
「え、あの。はい、あなた様です」
「俺は……クレイグ。ただの神殿騎士だ」
馬車に戻り、言葉遣いが砕けたものになる。よくとおるいい声だった。
貴人に相応しい鷹揚さを備えている。
だが、セリナの脳裏によぎったのは、……なんだか怪しい、というものだった。
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