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不安の翳り
大神官が私の自室を自ら訪れたのは、昼過ぎのことだった。
西向きの窓から日差しが差し込み、初夏のぽわぽわとした暖かさが心を癒してくれる。
ついうとうととしてしまい、ソファーの上でまどろんでいたら、彼がやってきた。
「ポーツマス」
「マージ。やってくれたな?」
「……ごめんなさい」
大神官。
ポーツマスという名の六十代後半の男性。
聖女と大神官の間柄は、どちらかといえば同じ職場の上司と部下に近いけど。
今の私たちの関係はそれよりももっと深い。
おじいちゃんと孫。
血の繋がりはないけれど、歳の離れた娘ともいえなくもない、そんな関係。
今この状況において故郷に残してきた両親や家族を除けば、彼がもっとも私に近しい存在だった。
「まあまあ、そう落ち込むこともない。もう少し涙を流していてくれたら反省の色が見えたんだがな?」
「またいじわるを‥‥‥」
ポーツマス大神官は、その太い腕とふくよかな肉体で、私を抱きしめてくれた。
途端、張り詰めていた糸が切れるように、私の心から力が抜けていく。
それは頑張って立っていた両足の力を失わせてしまい、私はそこに崩れそうになった。
「おいおい、しっかりするんだ、マルゴット」
「ごめんなさい」
一瞬意識が暗転した。
くらくらっと視界が回る。
足元が崩れて立っていることができなかった。
床に倒れこみそうになる私を、侍女たちが私の体をソファーに横たえてくれた。
「これはよろしくないな。まあ……いきなりあんな状況に置かれたのではまともな判断を下せなかったとしてもそれは仕方がない」
「……反省はしています。でも後悔はしていません‥‥‥」
「困った子だ、マージ。その一人が判断が王国を揺るがそうとしている」
「それは分かっています。やはり罰を受けなければいけないの私なのでしょうね」
天井から降り注がれる太陽の光を片手で遮るようにして、私は神妙な面持ちでそう言った。
大神官は、「ふーむ」と呻くように一言いい、それからしばらくの間黙ってしまう。
それは永遠に近い不安が煮詰められた世界の中を、一人で彷徨うよりも辛い時間だった。
やがて彼は、うつむいていた顔を上げる。
「いや。それはないな。ない、それはない。仮にも聖女が下した決断を、反故にするような真似を神殿はしない」
「……どういうこと、ポーツマス」
「国王陛下が仰られていた。我が国には大きな負債があるらしい」
「負債? このパルシェスト王国に? 我が国は大陸でも三王家と並び称される、強国ですよ。そこにどんな負債があるというの」
大陸を四分する強大な勢力。
魔族に竜族、獣人やエルフといった妖精に近しい種族に、人族。
大陸の中央に位置する広大な大森林を挟んで、東側を魔族と竜族が。
西側を人が。
北側を妖精族が。
それぞれ支配する構造だ。
その西側は北から南へと続く沿岸部と、大陸を水路のように縦断する大河の支流がもたらす肥沃な大地、南部の砂漠地帯に別れている。
三王国はそれぞれ、沿岸部を支配する海洋国家パルシェスト、中央部を支配する農業と工業が盛んなカナルディア、砂漠地帯とそこに眠る鉱物資源を採掘し輸出する資源国家ロイデムのことを示す。
「あの海外から来た新興貴族というのが、どうにも問題でな」
ポーツマスははあ、と大きく一息つくと、来客用の椅子にどっしりと腰を下ろした。
侍女が用意したお茶をすすりながら、困ったもんだとぼやいている。
私達、パルシェストの民にとって『海外』といえば、距離も近しい南の大陸のことを指す。
砂浜や港のある街に行けば、向こうの大陸の姿をその目に見るすることが出来るくらい、距離が近かった。
ただ、問題が一つ。
南の大陸は、別名、魔大陸。
魔族の王が幾柱も住み支配する王国があるという。
そんな呪われた場所だからだ。
「まさか。魔族が今回の一件に関わっているとでも、言うのですか」
「魔族なら、まだいい。そうではなくて、あちらにも人間の国もあれば、エルフの国もある。獣人もしかり‥‥‥」
「ではそれらの国のどこかが、我が国を狙っていると」
「そういう話でも‥‥‥ないのだ」
「要領を得ない話ですね」
大神官はまた、黙ってしまった。
この部屋は暑いといい、かぶっていた神官長以上の位の者が身につける帽子を脱いでしまう。
侍女が今度は冷たくひやした冷水を捧げると、頭の火照りを冷ますかのようにそれを飲み干した。
「つまりなあ、マージ。いや、我が聖女様。我らが国王陛下の弟、ガレリア王弟殿下が問題を起こしてくださったのだ」
「王弟‥‥‥つまり大公様が、何をなさったとおっしゃるのですか」
こちらもまた、侍女が用意した冷水で喉を潤しながら、彼はどんな人物だったかと脳裏で記憶を呼び覚ます。
ガレリア大公。
王位継承権を持たず、この王都からはるかに東にのぼった地でいくつもの鉱山と農地を所有し、数百から数千の農奴隷を従える、大農園主だったはず。
そのあまりの贅沢ぶりに、国王陛下からは幾度か注意を受けていたと思い出す。
だけどどうして彼が出てくるのだろう。
「二十五年前。その大公閣下が留学した先が南の大陸にある我が国の朋友国、メタム共和国でな」
「あー……そういえば、そんな記録を呼んだ記憶があります」
「知っているならば話は早い。彼はそこの議員の娘と恋仲だったらしい」
「議員? それはどういう立場の人間ですか」
「貴族とはちょっと違う。世襲制ではない、市民の投票によって選ばれた国の政治を行う代表者たちの一人のことだ。しかしその多くは、有力な大商人であったり学者であったり、我が女神教の神官であったりもする」
「恋仲だったということはもしかして?」
「二人の間に生まれた子供がいた、そういう話だ。王もつい最近、知ることになったらしい」
これはとんでもないスキャンダルが発覚してしまった。
たぶん王族の一部は知っているだろうけれども、貴族や国民の間にはまだ知られていない話のはず。
神殿の最高責任者である私ですら知らなかったのだから‥‥‥。
「もしかして。いいえ、ポーツマス。もしかしなくても‥‥‥」
「そうだ。お前に婚約破棄を持ち掛けたあの愚か者は、自分の従姉妹に情欲を抱きその虜になってしまったと。そういう話らしい」
「でも‥‥‥それなら、トマスというのは一体誰? その議員の娘は、新興貴族レゾンド伯爵の娘、ということなの?」
ポーツマスは今度は薄くなった頭をかいて、何か言えないような顔をした。
何が言いたいのだけれど、喉の奥に物が挟まって言葉にならない。
そんな感じだった。
朝早く、殿下に翻弄されたからこっち、私の機嫌は時間が経つにつれてすこぶる悪くなっていた。
「いや、それはな」
「いいから話しなさい! あなたそれでも神殿を預かる大神官なの!」
この剣幕に圧された大神官は苦虫を噛み潰したような顔をした。
彼のプライドを痛く刺激してしまったらしい。
あとから落ち着いた時に謝ろうと決めて、私は耳を傾ける。
「お前のその性格は一体誰に似たのだか。トマスというのは、その娘の夫だ」
「はあっ? どういうこと? 殿下は人妻に恋をしてしまったっていうの?」
「……そういうことになるな。おまけに連中は、殿下を取り込むことで、王位継承権争いに名乗りを挙げるつもりらしい。そこでお前のことが邪魔になったと。そういう話だ」
「ついでにあんな茶番劇を演じさせて、周囲の期待を失わせ、彼を舞台の外に置いやろうとしたのね」
「まあ、そういう話になるな。そこで、マージ。お前に相談がある」
神妙な面持ちで女神様に何か重大な相談をする時よりも、さらにもっと真剣な顔をして、大神官は言ったのだった。
「しばらく王都を離れてくれないか」
「私がですか? 聖女である私がここからいなくなれば、もし魔族が襲ってきても、国王陛下をお守りする人間がいなくなりますが。それでもよろしいの?」
「王族との縁を切ると言ったのはお前だろう」
「……それはそうです、けれど。でもあれは、言葉のあやというか」
「相手もこの国の支配層だぞ。自分の家の中であんな言葉を叩きつけられて、今から仲良くしましょうなどと、言い出すはずがない。そうだろう?」
「まあ、そうかも。はい‥‥‥」
「幸いなことに西の大陸の魔族とは今のところ仲良くやっていけている。王位継承権をめぐる問題が終われば、必ず王都に呼び戻す。な、だから頼む。数か月か、半年でもいい。この土地から離れていてくれ。聖女様を失ってはこの神殿も終わりなのだ」
「はい‥‥‥」
そうとまで言われては嫌だと断るわけにもいかず。
それから数日後。
私は数十人の神殿騎士達と共に、密やかに王都を抜け出したのでした。
殿下に関わらなくてよくなったという意味では、吉報。
でも、行き先が獣人族との国境問題で揉めている土地。
グレイスター辺境伯領だと向かう馬車の中で知らされた時。
一難去ってまた一難。
次は王太子殿下との婚約破棄から、獣人族との和平交渉に聖女として尽力しろ。
そんな感じに、大神官に丸め込まれた気がしてしまい、私はしてやられたと渋面になったのでした。
西向きの窓から日差しが差し込み、初夏のぽわぽわとした暖かさが心を癒してくれる。
ついうとうととしてしまい、ソファーの上でまどろんでいたら、彼がやってきた。
「ポーツマス」
「マージ。やってくれたな?」
「……ごめんなさい」
大神官。
ポーツマスという名の六十代後半の男性。
聖女と大神官の間柄は、どちらかといえば同じ職場の上司と部下に近いけど。
今の私たちの関係はそれよりももっと深い。
おじいちゃんと孫。
血の繋がりはないけれど、歳の離れた娘ともいえなくもない、そんな関係。
今この状況において故郷に残してきた両親や家族を除けば、彼がもっとも私に近しい存在だった。
「まあまあ、そう落ち込むこともない。もう少し涙を流していてくれたら反省の色が見えたんだがな?」
「またいじわるを‥‥‥」
ポーツマス大神官は、その太い腕とふくよかな肉体で、私を抱きしめてくれた。
途端、張り詰めていた糸が切れるように、私の心から力が抜けていく。
それは頑張って立っていた両足の力を失わせてしまい、私はそこに崩れそうになった。
「おいおい、しっかりするんだ、マルゴット」
「ごめんなさい」
一瞬意識が暗転した。
くらくらっと視界が回る。
足元が崩れて立っていることができなかった。
床に倒れこみそうになる私を、侍女たちが私の体をソファーに横たえてくれた。
「これはよろしくないな。まあ……いきなりあんな状況に置かれたのではまともな判断を下せなかったとしてもそれは仕方がない」
「……反省はしています。でも後悔はしていません‥‥‥」
「困った子だ、マージ。その一人が判断が王国を揺るがそうとしている」
「それは分かっています。やはり罰を受けなければいけないの私なのでしょうね」
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それは永遠に近い不安が煮詰められた世界の中を、一人で彷徨うよりも辛い時間だった。
やがて彼は、うつむいていた顔を上げる。
「いや。それはないな。ない、それはない。仮にも聖女が下した決断を、反故にするような真似を神殿はしない」
「……どういうこと、ポーツマス」
「国王陛下が仰られていた。我が国には大きな負債があるらしい」
「負債? このパルシェスト王国に? 我が国は大陸でも三王家と並び称される、強国ですよ。そこにどんな負債があるというの」
大陸を四分する強大な勢力。
魔族に竜族、獣人やエルフといった妖精に近しい種族に、人族。
大陸の中央に位置する広大な大森林を挟んで、東側を魔族と竜族が。
西側を人が。
北側を妖精族が。
それぞれ支配する構造だ。
その西側は北から南へと続く沿岸部と、大陸を水路のように縦断する大河の支流がもたらす肥沃な大地、南部の砂漠地帯に別れている。
三王国はそれぞれ、沿岸部を支配する海洋国家パルシェスト、中央部を支配する農業と工業が盛んなカナルディア、砂漠地帯とそこに眠る鉱物資源を採掘し輸出する資源国家ロイデムのことを示す。
「あの海外から来た新興貴族というのが、どうにも問題でな」
ポーツマスははあ、と大きく一息つくと、来客用の椅子にどっしりと腰を下ろした。
侍女が用意したお茶をすすりながら、困ったもんだとぼやいている。
私達、パルシェストの民にとって『海外』といえば、距離も近しい南の大陸のことを指す。
砂浜や港のある街に行けば、向こうの大陸の姿をその目に見るすることが出来るくらい、距離が近かった。
ただ、問題が一つ。
南の大陸は、別名、魔大陸。
魔族の王が幾柱も住み支配する王国があるという。
そんな呪われた場所だからだ。
「まさか。魔族が今回の一件に関わっているとでも、言うのですか」
「魔族なら、まだいい。そうではなくて、あちらにも人間の国もあれば、エルフの国もある。獣人もしかり‥‥‥」
「ではそれらの国のどこかが、我が国を狙っていると」
「そういう話でも‥‥‥ないのだ」
「要領を得ない話ですね」
大神官はまた、黙ってしまった。
この部屋は暑いといい、かぶっていた神官長以上の位の者が身につける帽子を脱いでしまう。
侍女が今度は冷たくひやした冷水を捧げると、頭の火照りを冷ますかのようにそれを飲み干した。
「つまりなあ、マージ。いや、我が聖女様。我らが国王陛下の弟、ガレリア王弟殿下が問題を起こしてくださったのだ」
「王弟‥‥‥つまり大公様が、何をなさったとおっしゃるのですか」
こちらもまた、侍女が用意した冷水で喉を潤しながら、彼はどんな人物だったかと脳裏で記憶を呼び覚ます。
ガレリア大公。
王位継承権を持たず、この王都からはるかに東にのぼった地でいくつもの鉱山と農地を所有し、数百から数千の農奴隷を従える、大農園主だったはず。
そのあまりの贅沢ぶりに、国王陛下からは幾度か注意を受けていたと思い出す。
だけどどうして彼が出てくるのだろう。
「二十五年前。その大公閣下が留学した先が南の大陸にある我が国の朋友国、メタム共和国でな」
「あー……そういえば、そんな記録を呼んだ記憶があります」
「知っているならば話は早い。彼はそこの議員の娘と恋仲だったらしい」
「議員? それはどういう立場の人間ですか」
「貴族とはちょっと違う。世襲制ではない、市民の投票によって選ばれた国の政治を行う代表者たちの一人のことだ。しかしその多くは、有力な大商人であったり学者であったり、我が女神教の神官であったりもする」
「恋仲だったということはもしかして?」
「二人の間に生まれた子供がいた、そういう話だ。王もつい最近、知ることになったらしい」
これはとんでもないスキャンダルが発覚してしまった。
たぶん王族の一部は知っているだろうけれども、貴族や国民の間にはまだ知られていない話のはず。
神殿の最高責任者である私ですら知らなかったのだから‥‥‥。
「もしかして。いいえ、ポーツマス。もしかしなくても‥‥‥」
「そうだ。お前に婚約破棄を持ち掛けたあの愚か者は、自分の従姉妹に情欲を抱きその虜になってしまったと。そういう話らしい」
「でも‥‥‥それなら、トマスというのは一体誰? その議員の娘は、新興貴族レゾンド伯爵の娘、ということなの?」
ポーツマスは今度は薄くなった頭をかいて、何か言えないような顔をした。
何が言いたいのだけれど、喉の奥に物が挟まって言葉にならない。
そんな感じだった。
朝早く、殿下に翻弄されたからこっち、私の機嫌は時間が経つにつれてすこぶる悪くなっていた。
「いや、それはな」
「いいから話しなさい! あなたそれでも神殿を預かる大神官なの!」
この剣幕に圧された大神官は苦虫を噛み潰したような顔をした。
彼のプライドを痛く刺激してしまったらしい。
あとから落ち着いた時に謝ろうと決めて、私は耳を傾ける。
「お前のその性格は一体誰に似たのだか。トマスというのは、その娘の夫だ」
「はあっ? どういうこと? 殿下は人妻に恋をしてしまったっていうの?」
「……そういうことになるな。おまけに連中は、殿下を取り込むことで、王位継承権争いに名乗りを挙げるつもりらしい。そこでお前のことが邪魔になったと。そういう話だ」
「ついでにあんな茶番劇を演じさせて、周囲の期待を失わせ、彼を舞台の外に置いやろうとしたのね」
「まあ、そういう話になるな。そこで、マージ。お前に相談がある」
神妙な面持ちで女神様に何か重大な相談をする時よりも、さらにもっと真剣な顔をして、大神官は言ったのだった。
「しばらく王都を離れてくれないか」
「私がですか? 聖女である私がここからいなくなれば、もし魔族が襲ってきても、国王陛下をお守りする人間がいなくなりますが。それでもよろしいの?」
「王族との縁を切ると言ったのはお前だろう」
「……それはそうです、けれど。でもあれは、言葉のあやというか」
「相手もこの国の支配層だぞ。自分の家の中であんな言葉を叩きつけられて、今から仲良くしましょうなどと、言い出すはずがない。そうだろう?」
「まあ、そうかも。はい‥‥‥」
「幸いなことに西の大陸の魔族とは今のところ仲良くやっていけている。王位継承権をめぐる問題が終われば、必ず王都に呼び戻す。な、だから頼む。数か月か、半年でもいい。この土地から離れていてくれ。聖女様を失ってはこの神殿も終わりなのだ」
「はい‥‥‥」
そうとまで言われては嫌だと断るわけにもいかず。
それから数日後。
私は数十人の神殿騎士達と共に、密やかに王都を抜け出したのでした。
殿下に関わらなくてよくなったという意味では、吉報。
でも、行き先が獣人族との国境問題で揉めている土地。
グレイスター辺境伯領だと向かう馬車の中で知らされた時。
一難去ってまた一難。
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