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1.始まりの香り
しおりを挟む思えば私は、ろくな人生を送れませんでした。
王子様と付き合っていたばかりに、妬み嫉みの渦に巻き込まれ、嫌がらせを受ける毎日。
それでもめげずに頑張ってきましたが、某国の姫君が放った刺客に刺された私は、二十歳という若さで命を散らそうとしていました。
「——ああ、大切な君よ……愛しているよ」
冷気が肌を刺す黎明。
柔らかな金糸の髪からのぞく夜空の瞳が私を見て揺れている。
王城の庭で横たわる私の頰に、王子様はそっと触れました。
簡素でもフリルのついた衣装をまとった彼と、薄汚れた仕事着の私とでは、身分差は一目瞭然でした。
もう息も絶え絶えだけれど、最後にこれだけは言おうと思います。
「ええ、私も愛していました……ゴホッ」
「ちょっと待て、なぜ過去形なんだ」
力ない私の肩を揺さぶる王子様。
王子様の無茶ぶりは今に始まったことではありません。
「王子様は細かいですね。人が死を目前にしている時に」
「そこは重要なところだ。もう一回やるぞ」
「仕方ないですね……ゴホゴホ」
「ああ、大切な君よ……愛しているよ」
「ええ私も……すぅ」
「おい、眠るな!」
「王子様、うるさいです」
「僕を置いて死なないでくれ」
「……次こそは王子様に釣り合う姫君と幸せになってくださいね」
「死に際に僕のことを考えてくれるなんて……優しい人よ」
「いえ、またこんな被害が出たら大変だと思っただけです。平民に手を出しちゃいけませんよ」
「僕の恋人は生涯君だけだ」
「お気持ちだけ受け取っておきます」
「嘘じゃない。僕も必ず君のあとを追うから、待っていてくれ」
「極端な選択はやめてください。国民が不幸になります。お願いですから、決して自分で命を投げ出さないと約束してください」
「……君がそう言うのなら、わかった」
しぶしぶ頷く王子様の頬にそっと手を伸ばすと、その指先を掴まれる。
「たとえ生まれ変わったとしても、僕は必ず君を見つけるからね」
「前々から思ってましたが……王子様ってけっこう粘着質ですね」
「正直な君も愛しているよ」
「……そろそろ視界がぼやけてきました……さようなら王子様……」
「おい、死ぬな!」
王子様の叫び声が遠くなる中、私の意識は途切れた。
***
「……起きなさい」
「むにゃむにゃ」
「大塚さん!」
「へ?」
気づくと私は、中世欧風の庭園にはおらず。
現代日本の、とある高校の──机で目を覚ましたのだった。
「大塚さん、これで何度目ですか? あとで職員室に来なさい」
名前を呼ばれて恐る恐る見上げると、男性教諭の呆れた顔があった。
二十代後半の端正な顔立ちがため息をつく。
ようやく状況を理解した私は、クラスメイトたちの視線から逃げるように俯いた。
「……はい」
不思議な夢を見るのは、いつも決まって授業中だった。
あまりにリアルな夢なので、いまだ余韻が残っているけれど、目が覚めたと同時になんだかホッとした。
──王子様と結ばれて死ぬ夢って、なんだか切ない。
私は夢で見た悲しい光景を振り払うように顔を上げる。
今の私、大塚リアは、普通の女子高生──そう自分に言い聞かせる。
けどふいに、斜め前に座る〝王子〟と目が合って固まった。
赤茶色のさらりとした髪に、同色のアーモンドの瞳。
亜麻色の冬服で包む細身は華奢というほどでもなく。
〝王子〟と言っても、本物の王子じゃなくて、校内で王子扱いされている美少年のことである。
そんな我が校の王子に見られて動揺した私は、慌てて目を逸らした。
なぜならその王子は、夢の中に出てくる王子様にそっくりだから。
夢から覚めても夢の中にいるような不思議な感覚の中、私はなんでもない風を装って教科書を片付ける。
クラスメイトと言っても、王子とは喋ったことがないけど、なんだか逃げたい気持ちにかられた。
——夢の中の私は身分差の恋で破滅したけど、やっぱり平凡が一番だよね。
身の丈にあった相手と恋愛したいなぁ……。
なんて思っていると、ふと頭上に人影ができる。
「……ねぇ君、これ落としたよ」
「え? あ、ありがとう──って、王子!」
いつの間に落としたのだろう。
机から落ちた消しゴムを拾ってくれたのは、夢に出てきた王子様のそっくりさんだった。
「王子?」
「あ、ごめんね……つい」
「君っていつも授業中寝てるよね」
クスクスとお上品に笑う彼の姿は、やはり夢の中の王子様そのものだった。
「……夜はしっかり眠ってるのに、なぜか同じ時間に寝ちゃうんだよね」
突然話しかけられて私が内心汗をかく中、王子は私を見下ろしながら可愛い笑顔で続けた。
「睡眠の質がよくないんじゃない?」
「そ、そうなのかな?」
「良かったら、僕のアロマスプレーを使ってみる? アレルギーとかなければ、だけど」
「え!」
会話するのはこれが初めてなのに、なんてコミュ力だろう。
驚いている間に、王子は自席のカバンからアロマスプレーを持ってくると、私の机に置いた。
すると周囲が軽くザワついた。
嫉妬と羨望と悔しさの混じった声に、私はゾッとする。
まるで夢の中の私だった。
夢の中では王子様と関わったがために、何度いやがらせを受けたことか……。
平和でいたい私は、断るつもりで口を開く。
「あ……あの、あなたの大事なアロマスプレーを使うのは申し訳ないので……私も同じものを買います」
「なんで急に敬語? それに、どうせ買うなら僕の物で試してからのほうがいいんじゃない?」
最もなことを言われて、私は黙り込む。
周囲の視線が痛いけど、断る理由もなかった。
「……ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ借りるね」
「良かったらそれ、あげるよ」
「ええ! ほとんど新品なのに、だったら買い取るよ」
「家にたくさんあるから、大丈夫だよ」
いや、私のこの状態が大丈夫じゃないんだけど。女子の目がめっちゃ怖い。
「もしかしたら嫌いな匂いかもしれないから、今ちょっと試してみる?」
言って、王子はハンカチにアロマスプレーを吹きかけて私に差し出した。
清潔に畳まれたハンカチにおそるおそる顔を寄せると、甘くフルーティな香りが鼻孔をくすぐった。
「あ、すごくいい匂い! ……でも、どこかで嗅いだことがあるような……?」
アロマの香りを吸い込んだ瞬間、夢の中の王子様が頭に浮かんでは消えた。
王子様の優しい笑顔が、まるでそこにあるかのようだった。
これ……あの王子様が好きでつけていた香水に似てる。
アロマの匂いを引き金に、王子様と過ごした記憶が次々と脳裏を過ぎる。
今まで見てきた夢が夢じゃないことに気づいた私は、大口を開けて立ち上がる。
そうだ……あの夢は、前世の記憶だったんだ。
突然、夢の出来事が現実の記憶として蘇った私は、目の前にいる王子の顔をまともに見ることができなくなる。
どうしよう……この匂いに包まれていると、まるであの王子様に抱きしめられてるみたいな気分になる。
嬉しいような悲しいような気持ちで立ち尽くしていると、王子はアロマスプレーをさらにもう一度、ハンカチに吹きかけた。
そして王子が何か言いかけたその時、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
我に返った私は、前世の記憶に戸惑いながらも笑顔を作る。
「あの……そろそろ授業始まるから、席に戻ったほうがいいよ」
「……もう少しだったのに」
「え? 何か言った?」
「ううん。なんでもないよ」
私の頬を冷たい汗が伝う中、舌打ちが聞こえたような気がした。
一瞬、邪悪な気配を感じた気がしたけど、気のせいだろう。
王子は天使のような笑みを崩さずにハンカチをポケットにしまう。
「じゃあ、また放課後に」
「……え? あ、うん」
そしてその日、王子のアロマスプレーを枕に吹きかけて眠った私だけど──それからというもの、夜の夢にも王子様が現れるようになったのだった。
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