闇鍋という名の短編集

悠木全(#zen)

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コミットメント

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「清志郎、お前はもう仕事をしなくていい」

「……左様でございますか」

 五十年間、誠心誠意お仕えしてきた一族のご子息に、解雇通告を渡されたのは、とある心地よい春の昼下がりのことでした。
 五百坪のお屋敷で三十人ほどの下働きを統括していた私にとって、まさに寝耳に水の出来事でございました。

 私は家令として立派にお務めを果たしてきたつもりではありますが、なにぶん高齢ですので、能力の低下は否めません。もしかしたら旦那様は将来性をお考えになられて、私という錆びついた老人を切り捨てる決意をなさったのかもしれません。

 旦那様のお気持ちを察した私は、不服を申し立てるでもなく、あっさりと身を引くことにいたしました。ここで引き下がったところで、旦那様のお考えが変わるとも思えなかったからです。
 長い間お仕えしたお屋敷を離れることに、少々感傷的にならなくもないですが、私は手早く荷造りをしておいとまさせていただきました。

 また、旦那様は私と家内が遊んで暮らせるだけの退職金を用意してくださいました。ですから、今後の生活に関してはなんの問題もございません。
 ただ、一つ問題があるとすれば、私は七十二にもなって、趣味のひとつもありませんでした。仕事一筋でここまで来たこともあり、他にやりたいと思えることがなかったのです。

 そんな私ですので、仕事を辞めてからというもの、気の抜けたシャンパンのような日々が続きました。家内は心配して、よく話しかけてくれましたが、今までほとんど家にいなかったせいか、話は長く続きませんでした。

 ですが、家内に心配ばかりかけるわけにもいかず。せめて趣味を持つことにいたしました。
 ありとあらゆる店を巡った末、私が趣味としてまず選んだのはパソコンでございました。
 このご時世、スマートフォンさえあれば、大抵の趣味は補えると、家電量販店の店長はおっしゃっておりましたが、旦那様の仕事を手伝っていたこともあり、扱いには慣れておりますので、あえてパソコンにいたしました。

 こうして趣味に繋がるツールを手に入れた私ですが、今度はパソコンでまず何をすべきか悩みました。家内はソリティアを薦めてくれましたが、それだけではすぐに飽きてしまうことは目に見えております。ですから私は、旦那様がよく遊んでいらしたオセロのフリーソフトをインストールすることにいたしました。一人で遊ぶのも良いですが、オンラインで繋がる見知らぬ隣人を相手にした方が、より楽しめると思ったからです。
 これでも某社では秘書のような役割もしておりましたので、他人と会話することに気後れすることもありませんでした。
 それからは、毎日のようにオセロで遊びました。時折、家内も一緒になって遊ぶようになり、会話も少しずつ増えるようになりました。オセロの戦績に関しては、家内のほうが上でしたが、私も負けじと腕を磨きました。

 そうして数ヶ月経ったある日のことです。私は不思議な青年と対局することになりました。

『初めまして。よろしくお願いいたします。未熟者ではありますが、私とも対戦してくださいませんか。きっと後悔はさせませんので』

 彼との出会いは偶然でございました。私のテーブルに参加を希望した彼は、まず最初に丁寧な挨拶をしてくださいました。
 どうして彼が若い男性だとわかったかと申しますと、それは私の長年の勘であります。相手の言動をいくらか伺えば、ぼんやりとではありますが、相手の背景がわかりました。

 そして対局が始まりました。とてもお強い方でございました。私よりもずっと経験が豊富なのでしょう。マウスを動かす手に汗が滲みます。それから幾度となく対局を繰り返した私たちですが、五局目を過ぎたあたりで、相手の様子が変わりました。
 彼はいっこうに続きを打たなくなり、オセロよりも会話を中心に進められました。
 これはまさか、と思いましたが、おそらくそのまさかなのでしょう。

 時々いらっしゃるのです。出会いを求める若人わこうどが。
 ですが、残念ながら私は若い女性ではありませんので、対局を丁重にお断りする旨を入力いたしました。……にも拘らず、その青年は投了も、退出もなさいませんでした。
 それからお茶を飲み干すほどの時間が経った頃です。彼は突然こうおっしゃいました。

 ————あなたは、今の暮らしに満足していますか?

 唐突なことをお聞きになる彼に、私は少し悩みました。彼のおっしゃる意図がわからないからです。もしかしたら、彼自身に何かご事情があり、そんなことをお聞きになられているのだとしたら、と思うと突っぱねることもできませんでした。

 ですから私は、『私は幸せです。あなたは何か悩みでもあるのですか?』と、問いを問いで返しました。すると、彼は、ご自身の話をなさいました。

 大きな重責を担う仕事をしている彼は、これまでご家族をないがしろにされていたそうです。ですがある日、自分が幸せであることに気付かされ、心を入れ替えたそうですが、かといって、どうして良いのかわからず。ご家族にただ金銭と時間を与えたとおっしゃいます。

 私は考えました。自分がその青年の立場になれるわけではないので、本当の意味でアドバイスすることはできません。ですが、私はそのご家族の気持ちになることはできます。なぜなら、つい最近、私は家族同然だと思っていた旦那様から同じような扱いを受けたからです。
 そこで私は、ある提案をいたしました。

『でしたら、そのご家族と話し合ってみてはいかがですか? あなたの欲しいものが、そのご家族にとっての欲しいものとは限りません。そのご家族の真の望みは、ご家族にしかわからないものです』

 そう入力すると、青年はしばしの沈黙の後、『考える』と行って退出されてしまいました。

 私は少しだけ後悔いたしました。その青年が本気で悩んでいることは、文面からも察することができたからです。そう思うと、私のような他人が答えるべきではなかったのかもしれません。なぜなら、私の言葉は、しょせん他人事だからです。
 ただそれでも、どうしても伝えたかったのです。話したいのは、きっと彼ではなく、ご家族の方なのだと。ですから対話という形を勧めました。

 それから青年のその後が知りたいと思いながらも、同じハンドルネームの人間とは会えることもなく。一週間が過ぎました。
 私は青年のことをすっかり忘れて、オセロを楽しんでおりました。
 そしてそんな時でした。友人もおらず、滅多に鳴らない私の電話スマホが鳴ったのです。

 着信を見れば、旦那様の名前がありました。私はおそるおそる通話ボタンを押します。すると、懐かしい声が、耳元で響きました。

『会って、話がしたいんだ』

 私は驚きました。旦那様が仕事以外で、電話をかけてくることなど、滅多にございませんでしたから。ですから、私は仕事面で何かそそうをしたのかと思いました。そしていまだにその後処理に追われているのだと。ですが、全ては私の想像でしかありません。

 そしていざ、旦那様のいらっしゃる一等地のビルの最上階に、やって参りました。久しぶりに見た旦那様のデスクは思ったよりも荒れておりました。

「ただいま参りました。私めに、何かご用でございましょうか?」

 旦那様は少し乱れた髪を気にすることもなく、落ち着かない様子で、しばらくため息ばかり吐いておられましたが、そのうちようやく口を開かれました。

「お前の欲しいものが知りたい。そして、お前がしたいことが知りたい」

 突然、そんなことをおっしゃるものですから、私はこれ以上もなく大きく目を開きました。なぜなら、私はもうすでにじゅうぶんな退職金をいただいているからです。これ以上していただくことなど、想像もできませんでした。ですが、少しだけ考えて、ある考えに至りました。

 旦那様が私に伝えたい本当のこと。わざわざオフィスに呼び出してまでおっしゃりたかったことは、きっと別にあるのです。
 ですから、私は旦那様のご要望に応えることにいたしました。

「私は仕事ができなくなるまで、ここで働かせていただきとうございます」

 すると、旦那様の顔が明るくなります。私がいなければ、まともなスーツも選べない旦那様には、良き伴侶が見つかるまでサポートするしかないでしょう——そう、覚悟を決めた瞬間でございました。
 そして私は、すぐに仕事着に着替えるべく、退出するついでに、ふと、振り返って尋ねました。

「旦那様は、今もオセロをしていらっしゃるのですか?」

 私の言葉に、旦那様は少し後ろめたそうな顔をなさいました。それだけでもう、じゅうぶん理解いたしました。
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