闇鍋という名の短編集

悠木全(#zen)

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こころ決済

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 専業主婦の祥子には、これといって取り柄も趣味もなかった。
 学生の頃から続けていたピアノも出産を機にやめてしまった。それに働いた経験も乏しく。祥子にできることは、誰にでもできることしかなかった。
 ただ、人を笑顔にする才能だけはあると自負している。自分が心を込めて笑えば、相手も笑ってくれると信じていた。
 だが、世の中はそう簡単でもなく、気づけば笑う機会も減っていった。
 出張ばかりの夫に、よそよそしい隣人。友人はみんな働いていて、充実した日々を送っているという。何もないのは自分だけだと思い知らされた。かといって、働く気も起きなかった。
 三人の子供を育て上げた祥子は、ブランクがありすぎて働くのが怖かった。それに贅沢さえしなければ夫の収入で暮らせないこともない。だから、あえて働こうとも思わなかった。
 本当は外の世界に出たいという気持ちがありながらも、そういった好奇心には蓋をして、ただ悶々と日々を過ごしていた。

 その日は、とくに猛暑がひどい日だった。
 クーラーが効きにくいマンションの自室で、スマートフォンを見ていた。最近はスーパーに行くのも億劫で、今日の買い物を全て配達でまかなおうとしていたわけだが、そんな時だった。支払いを済ませようとしたら、支払い一覧の中に『ココロ』という項目を見つけた。
 その時は新手の電子決済か何かだと思い、気にせずクレジットカードでの支払いを済ませる。
 だが、それからも買い物の度に『ココロ』という項目を見かけて、気になるようになった。
 しかも検索エンジンで調べたところで、『ココロ』という決済システムについて、何か具体的な結果を見つけることはなく。祥子はますます気になるようになった。

 そうして三ヶ月ほど経ったある日、祥子はいつものようにネットの買い物カゴに食材を放り込んだあと、決済しようとしたところで——間違えて『ココロ』を押してしまった。
 慌てて取り消そうとする祥子だが、その決済は何か特別なことが起きるわけでもなく、完了していた。しかも一円も支払わずに買い物が終わったのである。
 祥子は何か恐ろしい詐欺にでも遭ったのではないかとハラハラするが、その後請求が来ることもなく、食材もきちんと家に届いたのだった。
 それから祥子は、買い物の度に『ココロ』での決済を選択した。
 何が起きるともわからない状況ではあったが、気軽に物が買えることが楽しいあまり、ついつい『ココロ』を利用してしまった。
 もし仮に、後から支払いの督促が来たとしても、その時に支払えば良いと考えていた。

 そして『ココロ』決済で買い物をするようになり、一ヶ月が過ぎた頃。変化は起きた。

 いつの間にか、祥子は笑えなくなっていた。他人と会っても、表情の変わらない祥子を見て、友人たちは不思議に思ったらしい。それから心配のメールなどを送ってくれたが、祥子は何もないとしか言いようがなかった。
 その次に起きた変化は、映画やドラマを心から楽しめなくなったことだった。大好きなドラマも最高潮のシーンを迎え、いつもなら涙するところだが、何も感じず、ただ無味無臭のパンを齧っているような感覚だった。

 その時の祥子は、何か心の病にかかったのかと思っていたが——そこでようやく気づいた。
 買い物で支払っている『ココロ』というものの正体に。それは本物の、祥子の『心』だった。だがいつしか買い物に依存するようになった祥子は、『ココロ』支払いをやめることができず、とうとう動くことすら面倒になり、ただぼんやりと空気と化すようになった。


 ***
 

 同じ年で、専業主婦である妻の異変に気づいたのは、冬の真っ只中だった。
 出張ばかりで家に帰らなかった卓也も、任される仕事の分野が変わり、定時帰宅が増えたのだが。
 ある日、「ただいま」を言っても、反応がないことを不思議に思い、妻の部屋を覗いてみると、椅子に座ってぼんやりと遠くを見つめる姿があった。
 その瞬間、卓也は悟った。妻が何か心の病にかかっていることを。
 そして口もきかなくなった妻を見て、卓也は動揺するしかなく。
 ひとまず病院に連れて行くことはできたもの、そこで妻が心の病を患った原因を知ることはできなかった。
 卓也は仕方なく、妻の世話をしながら原因を探るべく、聞き込みをする。だが、何も手がかりを掴むことはできず、いつしか医者には脳の病だと診断された。
 その時の卓也の絶望感は、口にできるものではなかった。子供が巣立ったことで、ようやく二人でのんびり旅行でも出来ると思い、それを目標に蓄えだってしてきたのである。
 だがいつでも笑って寄り添ってくれた妻が、まるで植物のように動かなくなり。悲しみに暮れる日々が続いた。
 
 それでも卓也は諦めなかった。妻の心が少しでも動けばと思い、車椅子に乗せて公園を散歩したり、植物園に連れていったりもした。
 子供たちには……言えなかった。仕事で大変な時に、心配をかけるわけにもいかず。電話口ではいつも元気だと言うしかなく。
 また甲斐甲斐しく世話をする姿を見て、実家の両親は離婚を勧めてきたが、卓也はその心無い言葉に激昂し、両親とはそれ以降会うこともなくなった。
 ずっと一人で支えてくれた妻を捨てることはできなかったからだ。そして毎日のように妻に話しかけ、笑いかけ、ついにはピアノまで習って聴かせるようになり。卓也はたった一人で戦い続けた。

 そんなある日のこと。
 今日は少し体調が悪いと思いながらも、卓也は妻の前でピアノを弾いた。妻は子育てのためにピアノの教師をやめたのだが、どうせなら続けさせれば良かったと今更ながら思う。
 卓也は妻のピアノが好きだった。
 だが今日も何の反応も見せない妻に、胸が痛くなり、涙が落ちた。体調が悪いせいで、情緒も不安定になっているのだろう。
 泣きながら弾いたピアノは、調子が外れて聴けたものではなかった。
 それでも最後まで弾き切った——その時。
 卓也は振り返って、大きく見開いた。
 妻が、祥子が、笑っていたのだ。
 そして祥子は言った。
「卓也さんはピアノが下手なんだから」
 久しぶりに聞いた祥子の声に、卓也は泣きながら笑った。
 

 心を失った祥子に、真心が充電された。それだけの話だった。
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