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タマゴ
しおりを挟む夫が亡くなって、もう何年経つだろうか。仕事に忙殺されて、自分の誕生日すら忘れてしまう現実に、嫌気が差す。けど、こうやって頑張れるのは、大事な息子がいるからだ。
「ねぇ、ママ。明日は早く帰ってくる?」
布団に入ったばかりの裕太が、まだスーツを脱いでいない私を上目遣いで見る。
幼稚園の年長になる息子は、本当に物分かりの良い子だが、こうやって寝る直前になると同じことを聞いてくる。そして同じ答えを言うのが、私は辛かった。
「明日も今日と同じくらいかな。放課後保育が終わったら、迎えに行くから待っててね」
「わかった。明日もタマゴを作って待ってる」
「ありがとう。頑張ってね」
裕太はいつものように笑った後、眠りにつく。
思えば夫が亡くなってから、一度も泣いている姿を見たことがないかもしれない。裕太なりに頑張ってくれているのだろう。
幼いながらも早熟な息子は、夫の死をすぐに理解して受け入れた。私の方がよほど取り乱していたくらいだ。
そして夫が亡くなった次の日から、裕太は粘土でタマゴを作るようになった。何がそんなに楽しいのか、私にはこの子の気持ちがわからなかったが、楽しいならそれでいいと思っていた。
「——裕太、迎えに来たよ」
「ちょっと、裕太くんのお母さん」
ある日、幼稚園に訪れた私に、先生が深刻そうな顔をして話しかけてきた。
なんだろうと思い、裕太から見えないところで話を聞いたところ——裕太はよく何もない空間に向かって話しかけているという。
しかもそれは今に限ったことではなく。夫が亡くなった翌日から、ずっとらしい。
最初は子供特有のイマジナリーフレンドかとも思ったが、あまりにも頻繁に喋るものだから、先生は心配になって私に相談してきたのだった。
もしかしたら、心の病かもしれない、先生はそう言った。
私はショックだった。裕太がずっと笑顔でいるので、平気なのだとばかり思っていたのだ。それとも、私のために頑張ってくれているのだと、そんな風に、自分に都合の良いことばかり考えていた。
だが実際は、父親を亡くしたことで誰よりも心を痛めているに違いない。私は今まで息子の気持ちに寄り添えなかったことを後悔し——そして、仕事を変えることにした。
出世を重ねて苦労して積み上げたものを壊すのは、辛いところもあったが、それよりも裕太と一緒にいるべきだと思ったのだ。
そして私は、比較的時間がとれる仕事に転職して、毎日裕太のそばにいるようになった。
すると、裕太が一人で喋ることはなくなった。そのことを先生から聞いた時は、心から安堵した。なぜなら私には、もう息子しかいないからだ。
だが裕太はなぜか、放課後保育でタマゴを作ることをやめなかった。その理由だけがわからないまま、季節はすぎて春になる。
裕太が小学一年生になった。
私はいつもよりも腕によりをかけてごちそうを作った。今日は私の誕生日だから、ケーキもあった。だが、裕太はいつになく不満そうな顔をする。どうしてかと聞けば、今日はタマゴを作っていないからだそうだ。
「あなた、いまだにタマゴを作っているの?」
テーブルにちらし寿司を用意しながら尋ねると、裕太は膨れっ面で不機嫌な声を出す。
「当たり前だよ。パパとの約束だもん」
「それは……どういうこと?」
そこで、初めて裕太がタマゴを作っている理由を知った。
「タマゴに悲しい気持ちや、辛い気持ちを封じ込めたら、パパが持って行ってくれるんだよ。けど、今日はタマゴを作ってないから、悲しい気持ちがいっぱいだよ」
「あの人が、そんなことを……」
亡くなる直前、夫が息子に何かを吹き込んでいるのは知っていた。だが、その内容までは知らなかった。そして裕太がいつも笑っている理由がようやくわかった。
タマゴが悲しみを持って行ってくれると、信じているからだ。私は夫の機転に驚いたが、嬉しくもあった。夫はきっと裕太のことを考えて、そう言ってくれたに違いない。夫がいなくなることによって悲しみに暮れる裕太のことが心配だったのだろう。そしてもう一つの謎も解けた。
いつも一人で喋っていたのは、そうすれば私が仕事をやめて一緒にいることを選ぶと——そう夫に吹き込まれたからだった。裕太が心の病を患ったわけではなかったのだ。
「だったら、今日もタマゴを作らないといけないね」
夫の策にまんまとハマった私だが、裕太のことを考えてくれていた事実を嬉しく思った。そして今日は私も真似をしてタマゴを作ることにした。
粘土を扱うのは苦手だったが、久しぶりの工作に胸が躍った。
それから二人のタマゴが出来上がった時、私と裕太は笑いあってそれらを眺めていたが。
裕太が一人で空中に向かって話しかけたかと思えば、目の前のタマゴが消えた。
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