闇鍋という名の短編集

悠木全(#zen)

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夫の調教

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 何かしなくては。そうは思っても、十和とわはどうしても動けずにいた。今日は久しぶりに仕事が休みで、家のことを片付けなくてはならない。そう思いながらも、リビングのソファから動けない。
 どうせならメイドや執事がいるような家に住みたい、などと思うだけ無駄ではあるが、妄想せずにはいられなかった。
 三十になったばかりの十和の家には子供はいない。夫の史郎しろうと共働きだが、夫よりもむしろ十和の方が稼いでいる。それでも家のことも、やらなくてはいけないのだ。結婚前にきちんとルールを決めるべきだったと思うもの、恋は盲目と言ったもので。一緒に暮らし始めた頃は、なんでもしてあげたい気持ちが勝っていた。だが時間が経つにつれ、気持ちが落ち着くと同時に現実を知ることになった。今では家事をしない夫に不満ばかりが募っている。それなのになぜか夫に対して遠慮してしまって、文句を言えず。日々苛立ちばかり募らせて、爆発を待つばかりだった。
 そんな日々に、やる気が出るはずもなく。
 十和はせんべいの袋を豪快に開けると、録画していた韓流ドラマを見ながら頬張り始める。すると、昼過ぎに起きてきた史郎が、リビングにやってくる。史郎は十和のだらしないトレーナー姿を見て、ため息を吐いた。

「……だらしない」

 その言葉はまるで自動小銃のトリガーのようだった。指でひっかければすぐに相手の中心を撃ち抜くような、そんな言葉を浴びせられて、十和にスイッチが入った。

「あなただって、同じような格好してるでしょ? それとも何? 女性は綺麗でいるのも休んじゃいけないの?」

「誰だって綺麗でいる努力をするのは、普通のことだろう? 俺はこれでもきちんとしたブランドのトレーナーを着ているんだ。身だしなみには気をつけているつもりだ」

「ブランドでも、トレーナーはトレーナーでしょ? 同じ格好をして、私だけ責められるなんてふざけてるわ」

「母さんは普段から綺麗にしていたし、部屋の掃除も欠かさなかったぞ」

「だったら、お義母さんと結婚すればいいんじゃない?」

 今までの反動なのか、十和は思わずそう言って、リビングを出て寝室に入った。もう夫の顔も見たくはなかったが、それでも言いすぎたかとも思う。
 だがここで折れるつもりもなかった。
 そんな時だった。玄関のチャイムが鳴って、史郎が出た。休日に誰かが来る予定などなかったので、何事かと思えば、史郎の母親——まさえだった。まさかのゲリラ訪問だった。
 十和は慌ててお洒落着のニットとパンツに身を包むと、リビングに出ていく。
 すると、夫は相変わらずトレーナー姿で、義母まさえとテーブルに向かい合って座っていた。

「あら、十和さん。お久しぶり」

「お義母かあさん、こんにちは。まさかこんな突然来るなんて……」

「美味しいケーキをいただいたから、お裾分けに来たのよ。十和さん、チョコレートケーキが好きだったでしょう?」

「は、はい」

「母さん、わざわざ持って来なくても、取りにいくのに」

 史郎の言葉に、十和の眉がピクリと痙攣する。取りにいくといっても、いつも取りに行かされるのは十和なのだ。だがまるで自分で行くかのような言葉に、またもや腹の虫が落ち着かなくなった——その時。
 まさえが笑って、夫に言った。

「十和さんばかりに来てもらうのは申し訳ないからよ」

「十和は暇だからいいんだよ。今だって、韓流ドラマ見ながらせんべい食ってたくらいだから」

「あなたは本当に、お父さんそっくりね」

 夫の言葉で沸騰寸前の十和に気づいたのか、まさえは苦笑する。そして自分の肩を叩きながらため息を吐いた。

「実はね、ここに来たのはケーキの件だけじゃないのよ。私、お父さんと離婚しようかと思って」

 突然の話に、十和が目を丸くする中、史郎は驚愕に見開いた。誰よりも驚いているのがよくわかった。そして史郎は、まさえに掴みかかる勢いで詰め寄った。

「どうして⁉︎  父さんと仲良くやっていたじゃないか。何が問題なの?」

「それは、十和さんと同じ理由だと思うわ。なんなら、一緒にいたくない理由は十和さんに聞くといいわ」

「どういうことだよ。十和は俺と一緒にいたくないなんて、言ってないし。十和に何がわかるっていうんだよ」

「そういうところよ。あなたの、他人を思いやれないところは、父さんに似たのかしら? それとも私の育て方が悪かったのかしら。とにかく、十和さんとこの先も一緒にいたいなら、あなたは頑張ることね。もしかしたら、十和さんも私と同じように出ていくかもしれないわよ——じゃ、そういうことだから」
 
 まさえは言うだけ言うと、反論させない強さで史郎を睨んだ後、速やかに去っていった。残された史郎と十和はしばらく呆然としていたが、そのうち十和のスマートフォンに通知が来る。
 それは、義母からのメッセージだった。

 ————離婚なんて嘘だから、安心してちょうだい。私の義母も、こうやって夫を調教してくれたのよ。史郎と今後のことをたくさん話し合ってね。

 その言葉に、十和は思わず噴き出したのだった。
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