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「イアン・ラッセル……婚約を破棄したい」

イアンは目の前に座るこの国の第二王子である男をじっくりと眺めた。
金の髪に陶器の様な肌、麗しいその碧目を縁取る金色は頬に影を落としている。決して女顔という訳ではなく、かと言って野性的という程男くさいわけでもない。長身で体格もほどほどに良く兎にも角にもバランスが良い。

王家の人間は大抵このように容姿が驚く程良いのだ。神話的には神と人間の子孫なのだから、同じ人間とは思えない程整っているのも当然なのかもしれない。

神が愛して愛して止まなかった人間との共同傑作、の子孫が無表情にこちらをジッと見返してきた。
一応今現在まだ婚約中である婚約者を見る目にしてはかなり無機質である。

その顔を穴が開くほど見つめているイアンも同じく、驚くほど感情の無い顔で今の心境をうっかり表情に乗せないようにと、まだほのかに温かい紅茶で喉を潤していた。

傍から眺めれば婚約者同士の逢瀬とは思えない程の冷えた空気の中、イアンはゆったりと何度も紅茶に口を付け全て飲み干し、徐に両腕を上げれば、これでもかという程力いっぱいに大きな丸を一つ作った。

「……は?」

王子の間抜け面を見たのは、後にも先にもこの時だけだった。





「イアン様、おはようございます」
「んー、おはよ」

出来る従者ニールの声に爽やかな笑顔を返す。
この世界に生まれてからと言うもの、寝起きは頗る良い。

イアンには前世の記憶がある。なんてことはない一般的な記憶だ。
一人の男が異世界、地球という星の日本という国で生まれ死んだ記憶。

特にこれと言って特筆すべきところもない、平凡な人生だった。
父と母に妹、そして自分の四人が織りなす家族関係は穏やかで、普通に仲が良かったと記憶している。妹は腐っていたがリア充だったし、兄であるその世界のイアンはそんな腐った妹に腐った話を聞かされて半目になる事はあっても、それはそれは可愛がった。

当然のようにボーイズがラブするゲームの手伝いをさせられたり、あらゆる漫画やアニメの話を聞かされていたし、腐っている訳でもないのにその筋の知識が豊富な事以外は至って普通の人生だったように思う。

普通の学生生活を送り、普通の一般企業に勤め、結婚し、子供が出来てそれから。
確か五十半ばで会社で倒れてからの記憶がない。

恐らくそのまま死んだのだろう。心臓発作とかそういう類だったのかもしれない。
心残りは残してきた妻と子供だったが、子供ももう大きくなっていたし、生命保険にもしっかりと入っていて貯蓄もしていた。決して楽ではないだろうが、なんとか幸せでいて欲しい。
妹は腐った趣味に理解のある男性と結婚し子供もいたし、両親は第二の人生をエンジョイして旅行三昧だったはず。きっと悲しんでくれるだろうが、支えてくれる人がそれぞれにいてよかった。

そんな風にイアンは冷静に前世の記憶を整理していた。
正確に言えばこの世界のイアンとは別人格であるという想いが強く、シリーズ映画のように思えている。万が一前世の記憶に引き摺られていたとしたら、皆に会いたいと毎日泣いて暮らして、とてもじゃないけど真面な生活などできなかったに違いない。

性格は前世が多少混ざっている気がしなくもないが、この世界でイアンとして生きている事はしっかり記憶できている。前世の様な娯楽が少ない事はかなり不満だが、かと言って自身で色々と復元しようとする程の意欲もないし、積極的に前世の便利グッズをこの世に齎し一獲千金を、という腹もない。

つまり、特殊な記憶はあれど、イアンは何だかんだと無難にこの世界に馴染んでいるのである。

「皆様既に朝食はお済みです。昨日は疲れただろう、とのことでゆっくりしてて良いと」
「あ、ほんと?兄様は?」
「旦那様に付き添って領地へ視察に」
「母様は?」
「本日は体調が良いとのことで、サンルームで編み物をされておいでです」
「こんな朝から?母様、お腹大きいんだからゆっくりしてたらいいのに。父様が帰ってきたら心配してまたみっともないことになるよねぇ」

はぁ、とダイニングルームに向かいながら大袈裟に溜息を吐いてみせる。ニールはクスクス笑いながらそんなイアンの後ろをついて歩いた。

彼も男ながらに小柄で可愛らしいタイプの人物である。見た目は赤髪で白い頬にはうっすらと雀斑が散っていて子犬みたいだ。
しかし、子犬のような見た目に反して頭が良く、ニコニコ笑っては磨き上げた護衛術で自身より大柄な不審者を簡単に捻じ伏せてしまうのだから、密かにイアンの憧れである。

「あ、おはよ」
「おはようございます。疲れは取れましたかのぅ?」
「バッチリ!」

ホッホと笑う彼は齢60を超える男性の庭師である。

「もう暫くは茶会に出たくないけどね」
「わたしめでよろしければ、愚痴に付き合いましょうかね」
「お願いします!」

庭師はまたホッホッホと笑った。
ふふっと笑みを返すと手を振ってその場を離れ、その後もすれ違う使用人たち皆に声をかけ、同じように昨日の疲れを心配してくれる使用人たちに笑顔を返し続けた。

使用人が皆心配する理由としては、イアンが大嫌いな茶会に昨日参加していたからだ。
何せ礼儀や身分に煩い世界である。喋り方すら前世とかなり違いがある為、ただ会話をするだけでイアンは必死にならなければならない。肩が凝るというレベルを超えて非常に疲れるから嫌いなのだ。

話し方については特に苦手で、もうこれは癖づけるしかないと、家族の前ですらかわい子ぶったような口調で丁寧に話すのが今のイアンである。何とか今までボロを出さずに過ごせている。

「わっおいしそう。いただきます」

ダイニングルームには既に給仕が待機しており、次々と美味しそうな朝食を出してくれた。洋食だが味は美味しい。変に日本での記憶がある為、偶に強烈に和食を食べたくなるのだが、無いものはないので我慢している。

ちなみに”いただきます”の言葉に特に誰も疑問を抱く事はない。
元が日本発のゲームだからだろう。

ある日ふといつも通りに”いただきます”を口にした時、前世の朧げな記憶が重なり、何となく冷や汗を掻いた。
しかし、当然いつものように周りも同じ挨拶をして手を合わせた事に、安堵しつつも衝撃を受けたのは良い思い出だ。その頃はまだ記憶が曖昧だったので、何故自分がそれに冷や汗を掻いたのか、何故周りが同じ挨拶をして驚いたのかも分かっておらず、ほんの一瞬の焦燥感だったのだが。

そういった前世の記憶が鮮明に蘇ったのはイアンが6歳の頃だ。薄らぼんやりと思い浮かぶ別世界のことを、それまではまだ特に気にかけてなかった。家族は偶に変な事を言うイアンに驚く事はあっても、想像力豊かね、くらいで流してくれていた気がする。

しかし、記憶が完全に蘇るターニングポイントは突然やってきた。
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