鉄騎の破城槌 死神の黒姫は戦場に紅華を咲かす

米ちゃん

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第十九章 忍び寄る影、鬼哭の罠

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​ 冬の寒さが厳しさを増す中、新都アイゼン・トーアは熱気に包まれていた。

 亜人たちの協力による開拓は順調に進み、地下熱水を利用した温室農場では、季節外れの野菜が収穫期を迎えていたのだ。

​ 今日は、その初収穫を祝う『冬の豊穣祭』。

 広場には屋台が並び、兵士も市民も亜人も、種族の壁を越えて酒を酌み交わしている。

​「はっはっは! 見ろ、この巨大な南瓜を!」

「エルフの魔法ってのはすげえな!」

「狼人族の旦那、力仕事ありがとな! 一杯奢るよ!」

​ かつては荒廃していた街に、笑顔と活気が溢れている。

 総督府のバルコニーからその様子を見下ろすヴァレンティンは、満足げに酒杯を傾けた。

​「悪くない眺めだ。
 恐怖ではなく、利益と満腹感で統治する。これこそが盤石の支配よ」

​「うんうん、ご飯が美味しい国はいい国よ!」

​ 隣でルスラーナも、巨大な骨付き肉にかぶりつきながら同意する。

​「兄上、この街最高!
 ずっとここに住んでもいいくらい!」

​「はは、そうか。
 だが、我々の目標はあくまで大陸の覇権だ。ここは通過点に過ぎんよ」

​ 兄妹が語り合う、その平和な時間の裏で、広場の喧騒に紛れ、一つの影が蠢いていた。

​          *

​(……ケッ。平和ボケしやがって)

​ 祭りの人混みの中、農夫に変装したムギトは、冷ややかな目でバルコニーを見上げていた。

​ 彼は雪原での敗北から学習していた。

 ルスラーナには、物理攻撃も、通常の毒も通用しない。

 ならば、彼女自身に宿る「オーガの血」を利用するしかない。

​ ムギトの手には、小さな香炉が握られていた。

 中に入っているのは、エルバニアに伝わる禁断の秘薬『鬼哭の香』だ。

 それは、亜人種族──特にオーガの血を引く者の脳髄を刺激し、理性と記憶を遮断して、純粋な殺戮衝動のみを極限まで増幅させる代物だ。

​(吸い込めば最後、親兄弟だろうが愛する者だろうが、ただの「肉塊」にしか見えなくなる。
 さあ、見せてくれよ死神。
 お前が一番大切にしている「飼い主」を、その爪で引き裂く最高のショーをな!)

​          *

​ 新都アイゼン・トーアの夜は早い。

 日が落ちると、極寒の風が吹き荒れるため、人々は家路につき、暖炉の火に集うからだ。

​ 総督府の最上階にある食事室。

 そこでは、ヴァレンティンとルスラーナが兄妹水入らずの夕食を楽しんでいた。

​「ん~っ! 今日の猪肉の煮込み、最高!
 蜂蜜と香草のソースが絶品ね!」

​ 平服姿のルスラーナは山盛りの肉料理を平らげていく。

 彼女にとって、愛する兄と向かい合って食事をするこの時間は、戦場での勝利と同じくらい至福の時だ。

 もちろん、寝室で兄と肌を重ねる時も、この上ない幸せである。

​「慌てて食うな。誰も取らんよ」

​ ヴァレンティンは酒杯を傾けながら、愛おしげに妹を見守る。

 平和な夜。

 外は吹雪だが、ここには暖かな火と、満ち足りた空気がある。

​ ──はずだった。

​「……ん? 兄上、この蜂蜜酒、いつもより香りが強くない?」

​ ルスラーナが鼻をヒクつかせた。

 彼女の並外れた嗅覚が、微かな違和感を捉えたのだ。

 甘い花の香りのような、それでいて鉄錆のような、奇妙な芳香。

​「香り? ……ふむ、言われてみれば」

​ ヴァレンティンもグラスに鼻を近づける。

 だが、次の瞬間。

​ ガシャンッ!!

​ ルスラーナが手にしていたフォークを取り落とした。

​「……あ、れ……? 兄……上……?」

​ 彼女の瞳から、急速に理性の光が消えていく。

 焦点が合わず、呼吸が荒くなり、喉の奥から獣のような唸り声が漏れ始める。

​「ルスラーナ!? どうしたッ!」

​ ヴァレンティンが椅子を蹴って立ち上がる。

 だが、ルスラーナの様子は尋常ではなかった。

「グルアアアアアアッ」

 彼女は自分の喉を掻き毟って叫ぶと、涎を垂らしながら、ヴァレンティンを──いや、「生きた肉」を見つめていた。

​「……ニク……足りない……。
 もっと……強い……ニク……」

​ 彼女の脳内で、何かが焼き切れる音がした。
 本能の箍が外れ、食欲と破壊衝動だけが増幅されていく。

​(……毒か!? いや、これは……興奮剤か!)

​ ヴァレンティンは瞬時に悟った。

 ただの毒なら、ルスラーナの頑強な肉体は耐えきる。

 だが、これは精神──脳に直接作用し、彼女の中の人食い鬼──オーガの血を暴走させる薬だ。

​「グルアアアアアアッ!!」

​ ルスラーナが咆哮し、テーブルをひっくり返した。

 皿や料理が飛び散る中、彼女はヴァレンティンに襲いかかる。

 その速さは、先日の『巨獣の牙』戦の比ではない。本気で殺しに来ている。

​「くっ……!」

​ ヴァレンティンは紙一重で爪を躱すが、衣服の袖が裂ける。

 丸腰の彼に対し、相手は最強の捕食者。

 親衛隊を呼ぶ暇もない。

​「ルスラーナ! 私だ! 兄だぞ!」

​「……ニク……美味そうな……ニク……」

​ 言葉は届かない。

 彼女の目は赤く濁り、ただ目の前の獲物を喰らうことしか考えていない。

​​(……ククク。いいザマだ)

​ その様子を、天井裏の通気口から覗いている影があった。

 ムギトだ。

 彼は農夫から配膳係に化けて潜入し、料理に『鬼哭の香』を仕込んだのだ。

​(あの女は化け物だ。外からの攻撃は通じない。
 だが、中身は単純な人食い鬼だ。
 本能を暴走させれば、飼い主だって食い殺す)

​ ムギトは嗜虐的な笑みを浮かべる。

 これでヴァレンティンが死ねば、指揮系統は崩壊。

 ルスラーナも混乱の中で自滅するか、味方に討たれるだろう。

 完璧な暗殺計画だ。
​         
​「ウガァッ!」

​ ルスラーナがヴァレンティンを床に押し倒した。

 彼女は馬乗りになり、兄の首に手をかける。

 力を入れれば、いとも簡単にへし折れる。

​「……はぁ、はぁ……食う……」

​ ルスラーナが大きく口を開け、ヴァレンティンの喉元に噛み付こうとする。

 絶体絶命。

​ だが、ヴァレンティンは抵抗をやめた。

 代わりに、彼は──

​ パァァァァンッ!!!

​ 乾いた音が、部屋中に響き渡った。

​ ヴァレンティンの平手打ちが、ルスラーナの頬を強烈に叩いたのだ。

​「……ぅ……?」

​ ルスラーナの動きが止まる。

 痛みではない。

 彼女にとって、こんなものは蚊に刺された程度だ。

 だが、その「行為」が、彼女の混濁した意識に小さな楔を打ち込んだ。

​「いい加減にしろ、ルスラーナッ!!」

​ ヴァレンティンは、押し倒されたまま、鬼のような形相で叫んだ。

​「お前は、下等な人食い鬼か! ただの飢えた怪物に戻るつもりか!
 私の妹は……私のルスラーナは、そんな下等な生き物ではないはずだ!」

​ 彼は、ルスラーナの濁った瞳を真っ直ぐに見据える。

 そこには、死への恐怖など微塵もない。

 あるのは、妹への烈火のごとき怒りと、そして深い愛情だけだった。

​「思い出せ!
 お前に肉を与えたのは誰だ!
 お前の名前を呼んだのは誰だ!
 ……戻ってこい! 私のところへ!」

​ その声は、薬による強制的な命令よりも強く、深く、ルスラーナの魂に響いた。

​ 人食い鬼の本能の奥底にある、「兄への執着」。

 それが、薬の支配をねじ伏せた。

​「……あ……兄、上……?」

​ ルスラーナの瞳から、赤黒い濁りが引いていく。

 焦点が合い、目の前にいるのが「肉」ではなく「最愛の兄」であることを認識する。

​「……私……何を……?」

​ 彼女は自分の手を見る。

 兄の首をへし折ろうとしていた手。

 顔が蒼白になり、涙が溢れ出した。

​「ご、めんなさい……! 私、兄上を……!」

​「……馬鹿者」

​ ヴァレンティンは息を吐き、震える彼女の頭を抱き寄せた。

​「戻ったならいい。……だが、躾が必要だな」

​「うっ、うぅ……兄上ぇ……」

​ ルスラーナは子供のように泣きじゃくり、兄の胸に顔を埋めた。

 最強の捕食者が、ただ一人の人間の腕の中で無力化される。

 それは、どんな魔法よりも強固な「絆」の証明だった。
​          
​(……な、なんだと……?)

​ 天井裏のムギトは、戦慄した。

 『鬼哭の香』は、巨象ですら発狂して死ぬまで暴れ回る劇薬だ。

 それを、たった一発のビンタと言葉だけで止めた?

(あり得ない──こいつら、人間じゃねえ!
 ……不味い。ここは退くべきだ!)

​ ムギトは本能的な恐怖を感じ、音もなく後退しようとした。

​「……おい」

​ 下から、冷徹な声が響いた。

 ヴァレンティンだ。

 彼はルスラーナを抱きしめたまま、天井の一点──ムギトがいる場所を正確に睨み上げていた。

​「そこにいるのだろう? 薄汚い鼠よ」

​「ッ!?」

​ 心臓が止まるかと思った。

 姿は見えていないはずだ。

 気配も消している。

 だが、ヴァレンティンの眼光は、確かに自分を射抜いていた。

​「……私の大事な妹を壊そうとした罪、万死に値する。
 だが、今は妹を寝かしつけるのが先だ」

​ ヴァレンティンは、ぞっとするほど冷酷に言い放つ。

​「去れ。そして飼い主に伝えろ。
 『春になったら、この借りは骨の髄まで取り立てに行く』とな」

​ それは見逃しではない。

 「今ここで殺す価値もない」という宣言であり、より大きな絶望を与えるための宣告だった。

​(……化け物だ。二人とも)

​ ムギトは全身に冷や汗をかきながら、逃げるようにその場を去った。

 彼は知ってしまった。

 自分たちが怒らせてはいけない「魔王」の尾を踏んでしまったことを。

​ 冬の嵐が窓を叩く中、兄妹の絆はより強く、深く、そして危険なものへと変貌を遂げた。
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