鉄騎の破城槌 死神の黒姫は戦場に紅華を咲かす

米ちゃん

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第二十章 檻の中の飢えた獣、口づけは血の味がした

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 新都アイゼン・トーアの夜は、激しい吹雪に包まれていた。

 だが、総督府の最上階にある寝室だけは、外の冷気が嘘のような、咽せ返るほどの熱気に支配されていた。

​ 天蓋付きの寝台が、嵐に揺れる小船のように軋む。


​「あ、兄上……っ! もう、許し……て……!」

​ 戦場では数多の敵を屠る「死神」が、今は涙で濡れた瞳を潤ませ、か細い声で慈悲を乞うている。

 だが、その懇願は、彼女の主人の嗜虐心を煽る薪にしかならなかった。

​「許す? まだ早い」

​ ヴァレンティンは冷徹に、しかし燃えるような熱を込めて囁く。

​「お前は私の命令を聞かずに暴走した。
 飼い主の手を噛もうとした悪い犬には、骨の髄まで『誰のものか』を刻み込んでやらねばな」

​ それは、愛撫という名の刑罰であり、抱擁という名の烙印だった。

​ 氷の要塞アイゼン・トーアの中で、二人の身体は溶鉱炉の鉄のように絡み合い、溶け合い、理性を焼き尽くしていく。

 最強の皇女の矜持も、人食い鬼の本能も、全てが兄の愛という業火の前には無力だった。

 彼女に許されたのは、ただ愛おしい征服者に縋り付き、その熱に溺れることだけだった。

​          *

​ ──嵐のような夜が明け、窓の外が白み始めた頃。

​ 激情の嵐は去り、寝室には穏やかな静寂と、甘い余韻だけが漂っていた。

​ ヴァレンティンは上体を起こし、自らの胸板に頭を預けて泥のように眠るルスラーナの銀髪を、愛おしげに梳いていた。

​「……ん、ぅ……」

​ 寝言を漏らすルスラーナ。

 その目元は泣き腫らして赤く、頬には涙の跡──昨夜の躾の激しさを物語る痕跡──が残っていた。

​「……少しやり過ぎたか」

​ ヴァレンティンは、彼女の滑らかな背中を優しく撫でる。

 その温もりを感じながら、彼の意識はふと、遠い過去──二人が初めて出会った、あの薄暗い地下牢へと飛んでいた。

​          *

​ ──十五年前。帝都の地下深くに封印された『忌み子の檻』。

​ 当時、まだ九歳だったヴァレンティンは、皇城の庭園から続く隠し通路を抜け、その場所に迷い込んだ。

 そこで彼が見たのは、鎖に繋がれた一人の少女だった。

​ オーガの血を引くがゆえに、生まれてすぐに幽閉された「失敗作」。

 ボロボロの衣服、泥と垢にまみれた肌。

 だが、鉄格子の奥から覗く灰色の瞳だけは、ギラギラとした飢えと殺意に燃えていた。

​『……ニク……寄越セ……』

​ 少女は呻いた。

 言葉すら満足に教えられず、ただ生かされているだけの獣。

 普通の子供なら悲鳴を上げて逃げ出すだろう。

​ だが、ヴァレンティンは逃げなかった。
 彼は懐から、厨房から盗み食いしようとしていた干し肉を取り出し、格子の隙間から差し出した。

​『……食うか?』

​ 少女は一瞬警戒したが、空腹には勝てず、ひったくるように肉を奪い、貪り食った。

 そして食べ終えると、ヴァレンティンを睨みつけ──しかし、襲いかかってはこなかった。

​『……モット、アルカ?』

​ その時、ヴァレンティンは笑った。

 皇城の大人たちは皆、仮面を被って腹の探り合いばかりしている。

 だが、この少女は違った。

 純粋な欲望。純粋な暴力。

 なんて美しく、扱いやすい生き物なのだろう、と。

​『あるよ。
 私が毎日、美味い肉を持ってきてやる。
 だから──お前は私のために、その牙を使え』

​ 少年は手を伸ばし、格子の向こうの少女の頭を撫でた。

 少女は唸り声を上げたが、噛みつきはしなかった。

 それが、孤独な皇子と、飢えた怪物の契約の始まりだった。

​          *

​「……あの時から、お前はずっと私の『剣』であり、私はお前の『飼い主』だったな」

​ ヴァレンティンが独り言ちると、胸元で気配が動いた。

​「……飼い主なんて、趣味が悪い言い方ね」

​ ルスラーナが目を覚ましていた。

 まだ少し潤んだ瞳で、不満げにヴァレンティンを見上げている。

​「起きたか。気分はどうだ?」

​「……最悪よ。腰は痛いし、身体中が熱いし……兄上の意地悪」

​ 彼女はむくれるように、ヴァレンティンの首筋に腕を回す。

​「……ねえ、兄上。
 私、昨夜は……兄上を殺そうとして……」

​「ああ。もう少しで私の首が飛ぶところだった」

​「……ごめんなさい」

​ ルスラーナが再び泣きそうな顔になる。

 その唇を、ヴァレンティンは自らの唇で塞いだ。

​「んッ……!?」

​ 深い、長い口づけ。

 それは昨夜の激しさとは違う、互いの存在を確かめ合うような、所有の刻印のような甘いキスだった。

​「……ッ、はぁ……」

​ 唇が離れると、ルスラーナの顔は赤く染まり、瞳からは先ほどの怯えが消えていた。

​「謝る必要はない。
 お前を狂わせたのは敵の策だ。
 それに……お前のその狂気も、暴力も、全て私のものだ。
 誰にも奪わせはしないし、誰にも利用させはしない」

​ ヴァレンティンは、ルスラーナの耳元で甘く、冷酷に囁く。

​「だから安心しろ。お前が誰を殺そうと、世界中を敵に回そうと、私だけはお前を愛し、餌を与え続けてやる」

​ その言葉は、呪いのようであり、世界で一番確かな約束だった。

​「……ずるい兄上。そんなこと言われたら、一生逆らえないじゃない」

​ ルスラーナは、蕩けるような笑顔を見せた。

 それは、地下牢で肉を貰った時の獣の顔ではなく、愛を知った一人の女の顔だった。

​「分かったわ。私の全て、兄上にあげる。
 その代わり……約束通り、美味しいお肉をいっぱい食べさせてよね?」

​「ああ、約束しよう」

​ ヴァレンティンは窓の外を見る。

 雲間から差し込む朝日が、長い冬の終わりを告げるように雪原を照らしていた。

​「さあ、夜明けだ。
 もうすぐ春が来るぞ、ルスラーナ。
 雪解けと共に、南の豚どもを狩りに行く時間だ」

​「うん……!」

​ ルスラーナは力強く頷き、ベッドから飛び降りた。

 その肢体には、もはや迷いも恐怖もない。

 あるのは、最愛の共犯者のために敵を殲滅する、純粋な殺意と喜びだけだった。

​「待っててね、グラハムおじいちゃん。
 ……そして、コソコソ隠れていた『あの鼠』。
 兄上に手を出したこと、骨の髄まで後悔させてあげるから」

​ 死神は、美しく残酷に微笑んだ。

 狼たちの、反撃の狼煙が上がる。
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