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曇天に舞う青空 2
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不機嫌な顔を見ながら、手近な喫茶店で向かい合わせに座る。あ、あたし、まだ背中に大きくリボン結びだ。慌てて外して、向かい側の表情を伺いながら畳む。
「怒って……る?」
「怒ってないよ」
ほら、怒ってるじゃない。思わず上目遣いになっちゃう。
おまえの鳴子、と鳴子を差し出されて、バッグにしまう。ああ、なんか居づらいです。お店の人がオーダーを聞きに来たので、アイスコーヒーを頼もうとすると、レモネードに変更された。
「あと、できれば水を、ピッチャーで置いていってください。その分払いますから」
「いえ、結構ですよ。踊り子さんは水分補給しないと」
先輩は頭を下げた後に、やっとあたしの顔を見た。
「飲め。そして、冷やせ」
エアコンの効いた店内で、身体が回復してくると、やっとあたしも頭が働く。子供たちを驚かせちゃった。助っ人じゃなくて、迷惑を掛けちゃった。こんな天気の日は、熱中症になりやすいと知っていたのに。
「……ごめんなさい」
「謝るのは、こっちだ。自分はちゃんと給水したのに、おまえにまで気が回らなかった。踊り慣れてるんだから、当然できるだろうと思ってた」
そうなのだ。踊り子が自分の脱水を気にかけるのは、鉄板の約束事で、できない方が間違ってる。保育士さんは、あの混沌の中で、自分のことをちゃんとできてるのか。
「大人が倒れたら、子供たちの世話ができなくなるだろ?だから一番に、自分の手当てをする習慣がついてんだ。おまえは素人だから、そんなことできないっての忘れてた」
素人のお手伝いとプロフェッショナルじゃ、心構えから違うのだ。中途半端に世話を焼かれたら、子供たちだって却って困ったかも。
申し訳なくて、もう一度頭を下げる。
「ごめんね」
先輩の顔が柔らかくなる。この人はすごく良いタイミングで、こんな顔をする。
「腹を立てたのは、自分に対してだ。静音は悪くない。軽くて良かった」
お水ばっかり何杯も飲み、先輩がポケットから出した塩分補給のタブレットを齧ったら、眠くなってきた。
「慌てて、強く言い過ぎた。悪かった」
先輩の声が、少し遠い。
「だるくて、眠い」
「ああ、もうちょっと休憩したら、送ってってやる。歩いて来たのか?」
「自転車」
「じゃ、2ケツだな」
道路交通法違反です、あきふみせんせい。5分くらいウトウトしたみたいで、気がついたら先輩はレジを済ませていた。
「回復するまで、フォローできなかった侘びもしないとな」
ううん、それは違う。公務じゃなくても、先輩は園児たちの先生なのだ。先生が子供たちを放って自分の気になることを優先したら、あたしは先輩に失望していた。
二日間のお祭だけど、二日目にエントリーはない。卒園児たちがあちこちのチームで踊るから、なんて言う先輩と待ち合わせ。学生のころは自分が踊るのに精一杯で、他のチームの演舞を楽しむことは難しかった。ライバル視ギンギンで、あのチームの衣装はとか振り付けはとか、そんなところばっかり見えてた。まるっきり余所の人の視点になると、本当に楽しい。
肩ストラップのワンピースと、夏のお約束の日傘。踊りが流して行くのを見ながら、少し飲んじゃうつもりだから、自転車はやめておく。
昨日の晩の先輩、自転車漕ぎ難そうだったな。26インチのママチャリのサドルを目一杯上げて、ゆらゆら。
今日は昨日踊った場所とは別の会場に行く。保育園チームが踊ったコースはとても短いし、屋台も少ないんだもの。
長いコースを繰り返しで踊るコンテスト参加チームたちは、粋で華やかだ。美容院で結い上げてもらった髪に花を差し、腕の高さや腰の高さまで綺麗に揃えて、踊りが流していく。あたしが以前参加していたチームも、衣装や振り付けに趣向を凝らし、曲もプロに作ってもらっていた。
昨日は最後さえちゃんとしてれば、楽しかったな。来年、踊っちゃおうかな。笑夢の美少女、復活……少女じゃないか。
先輩との待ち合わせは、目印はいらない。大体の場所さえ決めておけば、雑踏の中に飛び出る頭。
「今日はずいぶん、可愛い格好してるな」
「いつも、何着ても可愛いでしょうが」
先輩と会うときはジャージかジーンズが基本だから、女の子服を見たのは、池袋で鉢合わせした時だけだったかも。
「体調は大丈夫か」
「うん、なんでもない。今日はビール飲みながら、ゆっくり見物だし」
「利尿作用で脱水が怖いから、アルコールは止めとけ」
過保護じゃないですか、あきふみせんせい? 賑やかな会場を歩きながら、時々小学校低学年の子供に声援を送る。声をかけられた子供は嬉しそうにこちらを見るけど、踊りながら前に進んで行く。手なんか振ってたら、進み損ねるんだよね。だけど声援は励みになるの。
お祭だとは言っても、長いコースを踊るので、知った顔に会うことは少ない。きっとこの雑踏の中には、知り合いが何人もいるはずなんだ。
「手足が痺れたりしないか?」
「大丈夫だってば、そこまで体力は低くない」
反発しながら、ちょっと嬉しい。そんな風に、心配してくれてたんだね。ごめんね、本当にごめん。きっとまた同じことをするから、叱っていいです。
人混みで邪魔な日傘を畳んで、並んで踊りを見ていた。
「原口先生」
後ろから声をかけられて振り向くと、小学校の低学年の男の子と、若いお母さんだった。
「お久しぶりです」
幾分硬くなった先輩は、すぐに子供のほうにしゃがみこんだ。
「ずいぶん大きくなったなあ。元気だったか」
子供は恥ずかしそうに、先輩と話している。母親の視線は、あたしに向いていた。
「原口先生は、デートですか」
「そうです」
立ち上がった先輩が、あたしの肩を抱く。なんか、すごく微妙な空気だ。自分が世話をしていた子供に、こんな場面を見せたがるような人じゃない。先輩の顔を見上げ、母親の顔を見てから、子供に目を落とした。
「幸せそうで、良かったわ。私もね、結婚しました」
先輩の指の力が、少し緩くなった。
「おめでとうございます。お幸せに」
去っていく母子の後姿を見て、先輩がこっそり吐いた溜息で、事情がわかったような気がした。あの人と何かあったんでしょうなんて、問い詰めたりはしたくない。何かあったんだとしても、それは個人の問題だ。
流し踊りが賑やかに進む通りを見ながら、先輩は小さく「わかっちゃったよな、ごめんな」と言った。
「なりたての母子家庭と新米の保育士なんて、ベタな組み合わせだろ。もう二度と会わないと思ってたんだけどな。市内なら、そんなわけないか」
「いいよ、別に気にしないから」
嘘。すっごく気になる。
「自分が寝た後に母親が出掛けたことに気がついた子供が、夜の11時にパジャマのまま警察に保護された。一度眠ったら起きない子だから、なんて言葉を鵜呑みにした自分のバカさ加減に嫌気がさした。」
「聞きたくない」
「俺があれもこれも、甘く見てた証拠だ。寄りかかってきている人の抱えているモノを、引き受ける覚悟はできてなかった」
「聞きたくないってば」
バカ正直な熊。適当に誤魔化して、あたしの疑問だらけの顔なんて無視すればいいのに、それを放っておけない人。この人は誠実と正直で損をしてきたんだろう。あたしの条件反射で反発する癖と同じように、損をしても修正の効かない部分がここにある。
過去の恋愛なんて、気にするだけ間違ってる。だって先輩は今、あたしの横にいるんだから。あたしが知っているのは、現在の先輩なんだから。
だけど、この先は? この先、あたしがどうなるんだか、知りたい。あたしはこの人を選ぶと決めているんだろうか?
曇天の下に広がる、空色のふらふ。先輩の作る青空を、振り返って確認したあたし。
覚悟を決めよう。あたしはもう、先輩の手の内だ。
「怒って……る?」
「怒ってないよ」
ほら、怒ってるじゃない。思わず上目遣いになっちゃう。
おまえの鳴子、と鳴子を差し出されて、バッグにしまう。ああ、なんか居づらいです。お店の人がオーダーを聞きに来たので、アイスコーヒーを頼もうとすると、レモネードに変更された。
「あと、できれば水を、ピッチャーで置いていってください。その分払いますから」
「いえ、結構ですよ。踊り子さんは水分補給しないと」
先輩は頭を下げた後に、やっとあたしの顔を見た。
「飲め。そして、冷やせ」
エアコンの効いた店内で、身体が回復してくると、やっとあたしも頭が働く。子供たちを驚かせちゃった。助っ人じゃなくて、迷惑を掛けちゃった。こんな天気の日は、熱中症になりやすいと知っていたのに。
「……ごめんなさい」
「謝るのは、こっちだ。自分はちゃんと給水したのに、おまえにまで気が回らなかった。踊り慣れてるんだから、当然できるだろうと思ってた」
そうなのだ。踊り子が自分の脱水を気にかけるのは、鉄板の約束事で、できない方が間違ってる。保育士さんは、あの混沌の中で、自分のことをちゃんとできてるのか。
「大人が倒れたら、子供たちの世話ができなくなるだろ?だから一番に、自分の手当てをする習慣がついてんだ。おまえは素人だから、そんなことできないっての忘れてた」
素人のお手伝いとプロフェッショナルじゃ、心構えから違うのだ。中途半端に世話を焼かれたら、子供たちだって却って困ったかも。
申し訳なくて、もう一度頭を下げる。
「ごめんね」
先輩の顔が柔らかくなる。この人はすごく良いタイミングで、こんな顔をする。
「腹を立てたのは、自分に対してだ。静音は悪くない。軽くて良かった」
お水ばっかり何杯も飲み、先輩がポケットから出した塩分補給のタブレットを齧ったら、眠くなってきた。
「慌てて、強く言い過ぎた。悪かった」
先輩の声が、少し遠い。
「だるくて、眠い」
「ああ、もうちょっと休憩したら、送ってってやる。歩いて来たのか?」
「自転車」
「じゃ、2ケツだな」
道路交通法違反です、あきふみせんせい。5分くらいウトウトしたみたいで、気がついたら先輩はレジを済ませていた。
「回復するまで、フォローできなかった侘びもしないとな」
ううん、それは違う。公務じゃなくても、先輩は園児たちの先生なのだ。先生が子供たちを放って自分の気になることを優先したら、あたしは先輩に失望していた。
二日間のお祭だけど、二日目にエントリーはない。卒園児たちがあちこちのチームで踊るから、なんて言う先輩と待ち合わせ。学生のころは自分が踊るのに精一杯で、他のチームの演舞を楽しむことは難しかった。ライバル視ギンギンで、あのチームの衣装はとか振り付けはとか、そんなところばっかり見えてた。まるっきり余所の人の視点になると、本当に楽しい。
肩ストラップのワンピースと、夏のお約束の日傘。踊りが流して行くのを見ながら、少し飲んじゃうつもりだから、自転車はやめておく。
昨日の晩の先輩、自転車漕ぎ難そうだったな。26インチのママチャリのサドルを目一杯上げて、ゆらゆら。
今日は昨日踊った場所とは別の会場に行く。保育園チームが踊ったコースはとても短いし、屋台も少ないんだもの。
長いコースを繰り返しで踊るコンテスト参加チームたちは、粋で華やかだ。美容院で結い上げてもらった髪に花を差し、腕の高さや腰の高さまで綺麗に揃えて、踊りが流していく。あたしが以前参加していたチームも、衣装や振り付けに趣向を凝らし、曲もプロに作ってもらっていた。
昨日は最後さえちゃんとしてれば、楽しかったな。来年、踊っちゃおうかな。笑夢の美少女、復活……少女じゃないか。
先輩との待ち合わせは、目印はいらない。大体の場所さえ決めておけば、雑踏の中に飛び出る頭。
「今日はずいぶん、可愛い格好してるな」
「いつも、何着ても可愛いでしょうが」
先輩と会うときはジャージかジーンズが基本だから、女の子服を見たのは、池袋で鉢合わせした時だけだったかも。
「体調は大丈夫か」
「うん、なんでもない。今日はビール飲みながら、ゆっくり見物だし」
「利尿作用で脱水が怖いから、アルコールは止めとけ」
過保護じゃないですか、あきふみせんせい? 賑やかな会場を歩きながら、時々小学校低学年の子供に声援を送る。声をかけられた子供は嬉しそうにこちらを見るけど、踊りながら前に進んで行く。手なんか振ってたら、進み損ねるんだよね。だけど声援は励みになるの。
お祭だとは言っても、長いコースを踊るので、知った顔に会うことは少ない。きっとこの雑踏の中には、知り合いが何人もいるはずなんだ。
「手足が痺れたりしないか?」
「大丈夫だってば、そこまで体力は低くない」
反発しながら、ちょっと嬉しい。そんな風に、心配してくれてたんだね。ごめんね、本当にごめん。きっとまた同じことをするから、叱っていいです。
人混みで邪魔な日傘を畳んで、並んで踊りを見ていた。
「原口先生」
後ろから声をかけられて振り向くと、小学校の低学年の男の子と、若いお母さんだった。
「お久しぶりです」
幾分硬くなった先輩は、すぐに子供のほうにしゃがみこんだ。
「ずいぶん大きくなったなあ。元気だったか」
子供は恥ずかしそうに、先輩と話している。母親の視線は、あたしに向いていた。
「原口先生は、デートですか」
「そうです」
立ち上がった先輩が、あたしの肩を抱く。なんか、すごく微妙な空気だ。自分が世話をしていた子供に、こんな場面を見せたがるような人じゃない。先輩の顔を見上げ、母親の顔を見てから、子供に目を落とした。
「幸せそうで、良かったわ。私もね、結婚しました」
先輩の指の力が、少し緩くなった。
「おめでとうございます。お幸せに」
去っていく母子の後姿を見て、先輩がこっそり吐いた溜息で、事情がわかったような気がした。あの人と何かあったんでしょうなんて、問い詰めたりはしたくない。何かあったんだとしても、それは個人の問題だ。
流し踊りが賑やかに進む通りを見ながら、先輩は小さく「わかっちゃったよな、ごめんな」と言った。
「なりたての母子家庭と新米の保育士なんて、ベタな組み合わせだろ。もう二度と会わないと思ってたんだけどな。市内なら、そんなわけないか」
「いいよ、別に気にしないから」
嘘。すっごく気になる。
「自分が寝た後に母親が出掛けたことに気がついた子供が、夜の11時にパジャマのまま警察に保護された。一度眠ったら起きない子だから、なんて言葉を鵜呑みにした自分のバカさ加減に嫌気がさした。」
「聞きたくない」
「俺があれもこれも、甘く見てた証拠だ。寄りかかってきている人の抱えているモノを、引き受ける覚悟はできてなかった」
「聞きたくないってば」
バカ正直な熊。適当に誤魔化して、あたしの疑問だらけの顔なんて無視すればいいのに、それを放っておけない人。この人は誠実と正直で損をしてきたんだろう。あたしの条件反射で反発する癖と同じように、損をしても修正の効かない部分がここにある。
過去の恋愛なんて、気にするだけ間違ってる。だって先輩は今、あたしの横にいるんだから。あたしが知っているのは、現在の先輩なんだから。
だけど、この先は? この先、あたしがどうなるんだか、知りたい。あたしはこの人を選ぶと決めているんだろうか?
曇天の下に広がる、空色のふらふ。先輩の作る青空を、振り返って確認したあたし。
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